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雪山の指輪

作者: 八兼信彦

 藤田精児は雪山を登っていた。

 登山という趣味をみつけた精児は、週末ごとに山へ出かけるようになっていた。


 20代のころは自分が何をしたいのかよくわからず職を転々としていたが、30代に差しかかり、知人が起業したベンチャー企業に入社すると、ようやく落ち着いた。

 しばらくは忙しく働いていたが、仕事にも慣れてくると、精児は寂しくなった。

 地元を離れた精児には、友人が少なかった。

 憂さを晴らすにしても、酒を飲めなかった。

 むせてしまうので煙草も吸えず、ギャンブルもはまらなかった。

 もちろん彼女もいない。

 独り身のほうが気楽だなとも思っていた。

 だから週末になると何をしたらいいのかわからなかった。

 散歩をしてみたり、買い物に出てみたり、映画を観たりしてみたが、ピンとこない。

 家でテレビを見ていてもつまらなく感じて、ただぼうっと窓から外を眺めているうちに、休日が終わっていった。

 このままではいけない、何か趣味を見つけようと思い、子供のころ親によく連れていってもらった山登りを思い出した。

 ハイキング感覚で登れるという近くの山をインターネットで見つけて、ぶらりと登ってみた。

 これが当たりだった。


 隣の県に片道2時間くらいで登れるR山というのがあるのを知ると、登山道具を買い集めた。

 程好い疲労感で、山頂の眺望も美しく、大いに達成感を味わうことができた。

 精児はR山に通いつめた。


 そのうち、もっと高い山へ登ってみたくなった。

 インターネットで調べれば標高や難易度などもすぐにわかる。

 初心者の自分に見合う山を見つけては、出かけるようになった。

 次第に遠出をするようにもなり、テントや寝袋を買い込んだ。

 このころになると、精児は登頂後の食事を愛するようになっていた。

 小型のガスコンロで湯を沸かし、茹でた麺を鍋から直接すすりながら、景色を眺める。

 登り終えた山を踏みつけながら飯を食うと、まるで山を征服したような気分になるのだった。


 冬になると、山は雪山へと生まれ変わる。

 滑落などの危険もあるので、多くの愛好家は冬のあいだ活動を休止するという。

 しかし精児は我慢ができなかった。

 幸運にも精児が住んでいたのは雪の少ない地域であったため、山頂でも積雪は15センチ程度であった。

 このあたりではやや大袈裟にもみえる雪山装備を買い揃えると、冬のR山に登った。


 雪山は美しかった。

 人に踏み荒らされぬ森や林の雪化粧は、厳かで幻想的であった。

 食事にしても、積もった雪を鍋に入れて湯を沸かすというのを知って驚いた。

 それは文字通り、山を食うようなものだと精児は思った。


 連休を利用して飛行機に乗り込むと、精児は雪山で有名なA山までやってきた。

 初心者でも登ることのできる雪山として人気の山である。

 そこはもはや別世界であった。

 降り積もった雪もさることながら、霧氷に凍りついた木々は、触れば砕けてしまいそうなガラスのオブジェへと生まれ変わり、山肌を覆っている。


 精児は胸が高鳴った。

 片道3時間の道行も、すれ違う登山客は多かった。

 雪山は天候の変化が激しいといわれるが、今日は快晴である。

 輝く梢は折り重なり、氷の宮殿のように美しい。

 精児は高揚感に浸りながら、雪山を登った。


 登頂を終えた精児は、いつものように食事を取ることにした。

 山頂付近は人が多かったので、少し下って、登山道から脇に逸れた。

 するとぽっかりと木々の生えていない絶好の空地を見つけた。

 突き出した岩も雪を払うと、ちょっとした台になる。

 精児は雪を丸めて鍋へ放り込み、コンロにかけた。

 白く氷った木々が、どこまでも続いているのが見える。

 ここには登山客も来ないので、景色は精児の独占である。

 と鍋からカタカタカタカタと妙な音が聞こえてきた。

 蓋を開けてのぞき込むと、鍋の中に指輪がひとつ沈んでいる。

 水の沸騰に揺られてカタカタと音を立てていたようだ。

 それは全く身に覚えのないものであった。

 精児は火を止め、湯を捨ててから、指輪をつまみ上げた。

 簡素な銀の指輪であった。結婚指輪のようである。

 文字は刻まれていない。

 新しいものなのか古いものなのかもよくわからない。

 おそらく雪に埋もれていたものを、雪ごと丸めて火にかけてしまったのだろう。

 けれども、なぜこんなところに指輪があるのかが分からない。

 新雪を丸めたのだから、地面に落ちていたわけではない。

 雪の上に落ちていたのだろう。

 しかしここは登山道からも逸れている。

 誰かが倒れているのではと見渡してみるが、一面の雪だ。

 近辺を歩いて確かめてみたが、何もない。

 考えてみれば足跡も自分のものしかなかった。


 精児はすっかり気味が悪くなった。

 食欲も薄れたので、荷物を片付けて登山道へ戻る。

 しかし指輪を捨てるのも気が引けて、バッグに入れて持ってきてしまった。

 山頂付近は電波が悪かったので、精児は下山してからA山の管理局に電話をかけた。

 誰かが遭難をしたという話も、指輪をなくしたという話も聞かないらしい。

 ただ稀に、春になると死体が見つかることはあるという。

 精児は自分の連絡先を教えると、警察に届けますと言って電話を切った。

 しかし警察には届けずに、家まで持ち帰った。

 そして部屋のどこからでも見えるよう、指輪を小棚の上に置いた。


 そのうち精児は、指輪を雪山での戦利品だと考えるようになった。


 もし落とし主があらわれた場合、その話を聞く権利が自分にはあるだろう。

 またもしこれが雪山で命を落とした人の物ならば、春になれば発見されるだろう。

 そうしたらその人の遺族に会って、指輪を届けることができるかもしれない。

 指輪のサイズからして、女性のものに違いない。きっと美しい人だろう。

 だったら、たとえ死体でもいいから会いたい。

 精児はそう思うようになっていた。


 やがて春がきた。

 指輪の一件以来、精児は山に登る気が起きず、休日は指輪を眺めて過ごした。

 残雪はしぶとく、5月まで残っていた。


 初夏になっても、A山の管理局から連絡はなかった。

 ためしに管理局に電話をかけてみると、雪はあらかた溶けたという。

 しかし死体などは見つからなかったそうだ。

 さらに話を聞くと、管理局は指輪のことも、精児の連絡先も控えていなかった。

 担当者もすでに変わっていた。

 精児はあわてた。

 とりあえず連絡先を伝え、指輪のことで誰かが訪ねてきたら連絡をくれるようにと言った。

 だがもう居ても立ってもいられなかった。

 もしかすると指輪の持ち主が、山道を探し回っているかもしれない、そう思うと仕事も手に着かなかった。

 精児は職場に休暇を申し出て、飛行機に乗り込んだ。


 初夏のA山は、まったく様相が変わっていた。

 雪に閉ざされた、あの色気のようなものがきれいさっぱり抜け落ちている。

 精児は不安がつのった。

 雪が溶けるように、冬のあいだ思い描いた女のイメージも溶けていきそうだったからである。

 精児は山道を急いだ。

 景色はすっかり変わっているが、道のりは覚えていた。

 山頂の手前、食事を取るために登山道から逸れた先、ぽっかりと木々が抜き取られたような小さな空地。地面から突き出た岩も、あのときは雪に埋もれて低く感じられたが、いまでは腰の高さを越えている。

 だが、女の姿はなかった。

 見渡してみても、死体が転がっていることもない。

 精児は気落ちした。

 すべては勝手な妄想だということくらい精児にもわかっていたが、それでも寂しさは拭えない。

 精児は岩に腰かけて、バッグから指輪を取り出した。

 高々と掲げて、空に透かしてみる。

 銀の指輪は光にキラキラと輝いた。

 精児は毎日のように指輪を磨いていたのだ。

 ふとバサバサという大きな音が耳元で聞こえて、精児は岩から転げ落ちた。


「いてっ!」


 倒れながら目の端でとらえたのは、カラスが指輪をくわえて飛び去っていくところだった。


「あっ!」


 叫べども、カラスはすぐに森のなかへ消えていった。

 ここで精児は、合点した。

 なんということはない。

 あの指輪は、カラスが嘴にくわえてどこかから持ってきたのだ。

 そしてカラスが雪の上に落としたものを、拾っただけなのだ。

 精児はおかしくなって、ひとしきり笑った。

 笑い終えると、登頂する気もなかったので山を下りることにした。

 心が軽くなった気がした。

 半年ほど思い悩んでいたことがようやく解消されたのだ。

 妄想にふけっていた自分が恥ずかしい。

 精児はひとりニヤつきながら、山を下りていった。


 しかし、いくら歩いても、精児は麓へたどり着かなかった。

 歩けども歩けども、山道が続くばかりで地上へ辿り着くことがない。


 1時間下り、3時間下り、6時間下り、それでも精児は歩き続けた。

 半日が経ち、1日が経ち、3日、1週間、1ヵ月、精児はひたすら歩き続けた。


 精児には、それが不思議なこととは思えなかった。

 なんの疲労も苦労も感じなかった。

 ただただ、こんなことがあるものだなとぼんやりしていた。


 歩き続けていると、他にも妙なことが起こった。

 地面から雪が染み出してくるのである。

 歩くごとに雪が染み出して、こんもりと積もってゆく。

 さらに歩き続けていると、今度は雪が空へと帰っていった。

 すると落葉に覆われた大地があらわれるのだった。

 続いてその落葉が、ひらりはらりと木々に戻る。

 戻った葉は、やがて黄色く染まり、そのうち青々と茂りはじめた。

 その葉も、しぼみ、芽となり、枝となった。

 そしてまた大地から雪が染み出してくる。

 そんなことが幾度も繰り返された。

 それでも精児は山道を下り続けた。


 あるとき、川へ行き当たった。

 子を抱いた女が川べりに立っている。

 なんだか見覚えのある女である。

 女は小さなキラキラと光るものを川に投げ入れた。

 女は泣きながら拝んでいた。

 ここで精児はあることを思い出した。

 

 そうだった。

 おれは藤田精児として生まれる以前、妻と子を置いて戦争に行ったのだった。

 そしてそこで死んでしまったのだった。


 精児は立ち止まった。

 女がすごすごと帰っていく。

 精児は川に分け入って、いましがた女が投げ入れたもの――指輪を拾った。

 間違いない。これはおれが妻に渡したものだ。

 精児は山を駆け登った。

 下るのには何十年もかかったくせに、登るのは1時間とかからなかった。

 山頂手前のあの空地へ足を踏み入れた。

 思った通り、バカな自分がすやすやと眠っている。

 精児は拾ってきた指輪を、眠っている自分の手の中に収めた。


 目が覚めると、精児は手の中に指輪があるのを認めた。

 おや? たしかカラスに取られて、尻餅をついたのではなかったか。

 と頭が痛むので、どうやら倒れた拍子に頭をぶつけて、気を失っていたらしい。

 なにか夢を見ていた気もするが、どうにも思い出せない。

 精児は指輪を眺めた。

 ふと涙が込み上げてきた。

 涙があふれて止まらなくなった。


「ごめんよう、ごめんよう、ごめんよう……」


 精児はそこで、大いに泣いた。

ご拝読いただきありがとうございます。

ご感想などいただけると幸いです。

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