どうやら俺はゴブリンに猫耳が生えたことに驚愕する模様
炎が広間を埋め尽くし、岩壁がその熱量で真っ赤に溶けぶくぶくと泡立つ。
当然、その場にいたゴブリン達も全員炎に呑み込まれ、文字通り消し炭すら残さずに燃え尽きた。
唯一の例外は俺の足下にいる雌ゴブリン。
正しくは雌ゴブリンの周囲、半径一メートルは一切、炎の影響下にない。
この魔法に関する俺の知識が正しければ、雌ゴブリンには炎による一切の熱が届いていない。
【炎の壁】は壁に覆われた内部には一切の影響を与えない。
毛先すら焼くことはない……筈だった。
こういう時、肉体が無いのは不便だ。
自身が炎の熱に晒されたかすら、認識することが出来ない。
ただ、キョトンとした目で俺を見ている雌ゴブリンの様子を見る限り、炎の影響はないだろうと思われた。
炎が治まると、周囲は所々がまだ真っ赤に加熱したまま、空気を揺らめかせていた。
天井は一部を除いて黒く煤けている。
熱せられた空気が周囲を満たしているからか、それとも怪我の具合がかなり悪いのか、雌ゴブリンの呼吸が荒い。
それとも酸素が薄くなっているのか?
その可能性を考慮した俺は、まず【氷の矢】で未だ真っ赤に煮えたぎる岩を次々冷却する。 次に神聖魔法の詠唱に入った。
「【我が主オグリオルとセレステリアに願い奉る】【我らを蝕む悪しき空気を浄化せよ】」
詠唱と共に俺は先ほどまで暴力的なまでに渦巻いていた魔力を、沈静化させるように丁寧に練り上げる。そうしないと浄化魔法は失敗しやすいのだ。
「【不浄なる空気を浄化せよ】」
何度も言うが、俺の欠点は肉体が無い故に魔法の効果が正しく発揮されたのか分からない場面が度々あると言うことだ。
実際、今の魔法も雌ゴブリンの呼吸が落ち着きつつあるのを見て、初めて効果を実感した程である。
これなら多分大丈夫だろう。
もしかしたら一酸化炭素でも発生していたのかもしれない。
閉鎖空間で炎系魔法を使うのは、ちょっと気を付けた方が良いかもな。
次に俺は雌ゴブリンの怪我の状態を診る。
まあ、触れて確認することも出来ないのだが、そこは代わりに【分析】魔法を駆使することで対応する。俺みたいな素人の場合、下手に触診するよりこの魔法を使った方が確実だと認識する。更に、この【分析】で俺はとある事の確証を得た。
しかし、やはり全身の打撲と骨折が酷い。
折れた骨の一部は内臓を圧迫しており、緊急の治療が必要だった。
まあ、治療と言っても魔法を使うだけなんだけど。
ただ、普通の【治癒】魔法では治療が難しそうなので、より上位の魔法を使って治療する。
「【致命傷を癒やせ】」
二度も治療して貰えるとは思っていなかったのか、それとも先ほど死を望んでいたからか、雌ゴブリンは何が起きたのか分からないといった面持ちで俺を見ていた。
身体の痛みが消えたのに気付くと、更に目を見開いて俺を見る。
そして、その目から大粒の涙を零した。
「ドウシテ……」
「うん?」
「ドウシテ、私ヲ助ケルンデスカ?」
「助けたかったから」
俺は俺の中の気持ちをそのまま言葉にする。
そうだ。
結局何処まで行っても、俺はこの雌ゴブリンを助けたかったのだ。
その気持ちに偽りはない。
人によっては『他のゴブリンを殺しておいて』などとぬかす輩がいるかもしれないが、それでも『助けたいと思った者を助ける』という気持ちを否定する事はもうしない。
見捨てるよりよっぽど良い。
だが、それでも目の前の小さなゴブリンは、泣き止む様子が無い。
「私ハ、イッソアノママ死ンデシマイタカッタ……」
「何故?」
「……モウ……ごぶりんトシテ生キタクナカッタ……」
「君は、本当はゴブリンじゃないよ」
「エ?」
そう。
先ほどの【分析】魔法で分かったことがもう一つあった。
それは、彼女はやはり《チェンジリング・ソウル》の持ち主であり、本来はゴブリンとして産まれてくる存在では無かったのだ。
ただ、何の種族として産まれるべきだったかは分からなかったが……。
「俺は君の魂にかけられた呪いを解いて、本来の姿に戻せると思うけど……どうする?」
その言葉を聞いた雌ゴブリンは、その両目から更なる領の涙をボロボロと零した。
その表情からは嬉しいのか悲しいのかすら判別出来ない。それほどまでに彼女の心に到来した感情は表現しがたいのかも知れない。
だが、暫くして落ち着いたのか涙を拭いて俺を見た雌ゴブリンからは、先ほど感じた様な絶望の色は見えなかった。
「本当ニ……本当ニごぶりんジャナクナルノ?」
「ああ、ただし君が望むような種族になれる訳じゃ無いんだけど……」
「ソレデモ……ソレデモ良イデス……ごぶりんジャナイナラ……」
「じゃあ、その呪いから解放してあげるけど……本当に良いんだね?」
雌ゴブリンは躊躇うこと無くはっきりと頷いた。
恐らく、自分でも長いこと違和感を感じていたんだろう。
今の彼女からは己に訪れるであろう変化を恐れる気配が微塵も感じられなかった。
「分かった……じゃあ、君の呪いを解除するよ?」
「ハイ……オ願イシマス」
その言葉に俺は頷くと、呪文の詠唱を開始した。
「【我が主オグリオルとセレステリアよ、我が声を聞き、我が願いに耳を傾け給え】」
俺は一つ一つ慎重に呪文を唱える。
肉体があったら、一節唱える度に全身から汗が噴き出ただろう。
それほどまでに緊張していた。
「【あるべきものをあるべき形に、歪みし時を正しき時に】」
魔力がごっそりと失われる。
それが今まで経験にない大規模魔法の証左のようだった。
「【我、大いなる神の御業と神力をこの手に束ねん】」
あまりに膨大な魔力制御を行わなければならず、声が少しだけ震える。
人間が唱えられる限界に近いとされる魔法は伊達ではなかった。
逆にここまで詠唱出来たことに驚きすら憶える。
「【神の御手に導かれ、其の神力をもって小さきこの身で大業をなさん】」
以前、俺は魔力操作に長けているとリーフが言っていたが、あながちお世辞でもなさそうだ。
魔力の集め方、配置の仕方、それぞれ配置した魔力のバランスなど、ちょっとでも気をぬいたら一気に崩壊しそうな感覚がある。
「【我が願いを天に示す。我は定められし運命に抗い、悪しき理を砕く】」
詠唱が進む度に周囲に色とりどりの魔法円が展開する。
これで五つ目。やっと折り返しを超える。
各魔法円が共鳴を始める。
ここで共鳴に任せたままにすると暴発するらしい。
上位魔法の難易度はこの魔法円の制御に掛かっている。
「【大いなる神々よ、汝らの安寧を砕く我を許し給え】」
綱渡りのようなバランス感覚が必要になることを本能で理解した俺は、それぞれの魔力は一を少しずつ調整しながら詠唱を続けた。
この魔力を即座に修正できるのは、身体を使わずイメージだけで魔力制御ができる俺の利点と言える。
肉体に縛られないが故に、この魔力制御感覚を最初に身につけているのが、明らかなアドバンテージとなっている。
「【悪しき運命を招く輩よ、我が拳に畏れおののけ】」
七つの魔法円の配置が完了する。
このままこのバランスを維持しつつ、全ての魔法円に魔力のバイパスを通す必要があることを俺は本能的に理解する。
これが聖人として祝福を受けた俺のスキルなのかもしれない。
……パラメーターとして見える訳ではないんだけどね。
「【願わくは我の願いが、我が神の御心に叶うことを】」
俺は各魔法円に均等に魔力を注ぎ込み、ここで一気に共鳴を促進した。
全身を引きちぎるような魔力の奔流に、全身がバラバラに引きちぎられそうだ。
それでも……俺は魔法を完成させた!
「【大いなる解呪魔法】」
神聖魔法の第八階位魔法。
ほぼ最上位クラスの魔法であり、聞いた話ではこの階位の魔法を使えたのは、それこそ歴代の《聖女》や《聖人》に限る。
文字通り、《神の奇跡》と呼ぶに相応しい効果を発揮した。
雌ゴブリンが光に包まれる。
まるで光る卵か繭のようで、光の中心に雌ゴブリンの影がうっすらと見えた。
その影が明らかに大きくなっていく。
とは言え、矢鱈に巨大化したのではない。精々が一回り大きくなった程度。それでもゴブリンとしてのシルエットは完全に消え去り、別の生物へと変化したことが在り在りと分かる。
まるで《高速再生した昆虫の変態》のごとき変化に俺は息を呑む。
今は呼吸してないじゃんとかツッコむな。
いや、自分でも混乱していることが分かる。
シルエットだけだが、明らかにゴブリンとも人間とも違うものが見えたのだ。
「…………尻尾?」
お尻の位置から左右にピコピコ動いているもの……アレは間違い無く尻尾だった。
それに側頭部の上から突き出たものは……まさか。
そう思った直後、パチンと弾けるように雌ゴブリンを包んでいた光が霧散した。
そこに立つ少女は既にゴブリンでは無い。
すらっとした体躯。
柔らかそうな毛に覆われた長い尻尾。
顕わになった肌は人間と同じ肌色。
その目がゆっくりと開かれると、くりっとした瞳が俺を捕らえる。
顔つきも人間に近い……というか顔だけ見たら人間と大差は無い。
大きく異なるのは、側頭部から生えているものは……。
「猫耳いいいいいいいいいいいいいッ!?」
思わず俺は、洞窟に響き渡る程の素っ頓狂な声を上げていた。