生きることは戦うこと
美鶴は自分の部屋で夕飯を食べながら、ぼんやりとテレビを見つめていた。啓太の家へ行った際、お茶を飲み過ぎたからだろうか。ちっとも食欲がない。箸を置いて食べかけの食事を見つめる。自分はこの年になるまで食事ができない状況に陥ったことはない。実家では頼まなくても自然に食卓に着けば食事が出てきたし、お弁当も持たせてもらった。一人暮らしを始めてそういう有難みにやっと気づいたけれど、それとこれとは話が違う。
啓太が香川から越して来た際、彼はほとんど飢餓状態だった。元は母と二人で暮らしていたが、満足に食事を与えられていなかったのだ。仕事の為か、たまにしか母は帰って来ないので、洗濯もろくにしてもらえず、公園の水道で石鹸を使って下着やシャツを洗っていた。母が帰って来ない間に水道や電気が止められたことさえあった。そんな時は自分の頭も下着やシャツと同様に公園で洗っていた。
結局そんな状況を同級生たちも知っていたことからいじめにも遭った。
“人と違うことをするといじめに遭う”と、人目を気にする啓太の説明をしながら、「昔も今も社会はあまり変わらない」と恭一が言っていたのを美鶴はとても切なく感じた。
そんな家庭環境だったからこそ、啓太はある意味しっかり者に育った。
ある晩、酒に酔って帰って来た母はキッチンの床に座ると水を飲みながら啓太に言った。
「啓太ぁ。おかあさんさー、すきな人が広島に居るの。広島行きたいの。」言い終わるなりその場で寝息を立て始めた母を見て、啓太は母のセカンドバッグから財布を抜くと百円玉を掴んで近くの公衆電話まで走った。
「はい。本庄です。」
「…ばあちゃん。おかあさん、広島行きたいんだって。すきな人がいるんだって。俺は広島行かなきゃだめなのかな?広島では電気止まらないのかな?どうすれば…いいのかな。」
啓太の母は両親に勘当されていたという。その為、母にとっての祖父母――――――つまり本庄夫妻のみが啓太の知る唯一の親戚であった。だが住まいが離れている上、母から連絡することもなかった為に、啓太からの連絡があるまで節恵はそのような状況を予想だにしていなかった。
翌朝啓太が目覚めた時には母は既に出掛けた後だった。
節恵は翌日、朝早くに家を出ると、住所を頼りに昼過ぎには啓太の住むアパートに辿り着いた。啓太の姿を見るなり泣き崩れ、「ごめんね、ごめんね」と繰り返した。だが暫くして落ち着きを取り戻すと、啓太を食事に連れて行き、服を買い与え、転校の手続きやら役所への届け出までテキパキとこなし、翌週には一緒に東京に啓太を連れ帰った。
啓太は啓太で、「香川での暮らしにも、母との生活にも何の未練もない」と恭一に語った。それは強がりから出た言葉ではなく、本心だった。
また、幸い節恵は比較的豊かに暮らせていた為、恭一が初めて啓太に出会った時にはそこまで痩せ細っては見えなかった。
ただ、どれだけ身なりが良くなっても、彼に染み付いた生き方は、東京の学校に馴染めない原因としては十分だった。
恭一が初めて啓太を見かけた日、それはやはり公園の入り口付近だった。啓太は俯き加減に一人で歩いていた。そんな啓太の背負ったランドセル目掛けて、駆け寄った少年が後ろからとび蹴りを食らわせた。当然啓太は前方に倒れ込んだ。とび蹴りをした少年の後ろから別の少年が声を上げる。
「キマったーーー!」
とび蹴り少年も満足げに啓太に何か言っていた。
恭一が傍まで行くと、啓太以外には3人の少年がいた。恭一はとび蹴り少年と、啓太に何やら意地悪く罵る少年の頭に手を置いた。
「やり過ぎだよ。」
二人の少年はぺたんと地べたに座り込む。後ろで見ていた少年は不思議そうに彼らを見ていた。起き上がった啓太は恭一の腕を掴むと顔も見ずに言った。
「俺たちの問題なんで。」
恭一は人に反応されたことに驚いて思考が停止する。
「はぁ?何言ってんだよ!」我に返ったようにとび蹴り少年が啓太に掴みかかる。
「…だからって、こんなの一方的過ぎやしないか?」恭一は状況を確かめるように言葉を続ける。
「それでも!わからせる為には戦わなきゃなんないんだ!」今度は涙を堪える瞳を恭一に向けた。
「どこ見て喋ってんだよ!」
罵り少年の蹴りが啓太の鳩尾に入った。
腹を押さえて膝をつく啓太を見下ろしながら恭一が呟く。
「戦う方法ならいくらでもあるさ。」
言うなり空に向かって指笛を鳴らす。
「ひ、人が来るかもよ?」後ろで見ていた少年がおどおどと声を掛けたと同時に一羽のカラスが民家の塀に舞い降りた。
「欲しがってたアレ、用意できそうだから、ちょっと手助けしてくれよ。」
恭一に言われてカラスは視線を少年たちに移し威嚇の声を上げる。
「うわっ!なんだよ!逃げろっ!」
3人はカラスに追われるようなかたちで一目散に走って行った。
「ははは。人じゃなくてカラスが来たね。」恭一は楽しげに笑った。
「あんた、マジシャンかなんか?」まだ腹を押さえながら啓太は恭一を見上げた。
それが二人の最初の出会いだった。
恭一は自分が生きている人間ではないことを説明し、啓太が理解してくれてようやく啓太の話も聞くことができた。
啓太は転校して間もなくは、珍しがられてクラスメイトから話し掛けられることも多かった。だが、クラスでいじめに遭っている子がいることに気付いた時から状況が一変した。
どうせまだ友達という友達もいない。ならば自分がその子の話し相手になれば丁度良いと思った。放課後一緒に机の落書きを消し、やぶれた教科書をセロハンテープで張り合わせたりしていると、何だか正義の味方になったみたいで気分も良かった。何より、その子が「ありがとう」と言ってくれるのが嬉しかった。友情というのはこうやって育っていく――――――そんな風にさえ思っていた。
ところがある朝登校すると、上履きに画びょうが入っていた。教室に入り席に着くと、机には“ヒーローぶった田舎者”と書かれていた。いじめられていた子はいじめる側に加わり、現状その状態が続いている。
「啓太はちっとも悪くないじゃないか。いつだって周りに振り回されて一人で戦ってきたんだ。」
静かにそういってやるせない表情をした恭一の頭に美鶴は手を置いてみた。
「ごめんなさい。私は恭一さんみたいなことできないけど…なんとなく。」
恭一はきょとんとして美鶴を見つめる。
「いやいや、君のお陰で楽になったよ。私にはできることが限られているからね。」
そう言って美鶴の手を握ると「ありがとう」と言って微笑んだ。
恭一は生前も、人が持つ“負の感情”を鎮めることができたという。年の離れた妹が泣くと、恭一が撫でることで必ず泣き止むと噂になり、以来、様々な場面でその力を発揮したと少し得意げに話した。
握られた手の温かさを思い出し、ため息をつくとテーブルの上で携帯電話が振動した。
“確認はできた?”――――――葵からのメールだった。
「葵ちゃん…そっちはもう確定だよ。」
美鶴はそう呟くと、携帯を置いて箸に持ち替える。
「食欲なくても残さず食べなきゃ、だよね。」もう一度ため息をつくと、残りを口に運びながら視線をテレビに戻した。