芽生えた感情
美鶴は一人で暮らすアパートに帰ると、ベッドに腰をおろし、今日あった出来事を一つずつ整理しようと回想した。
公園で出会った少年と青年。お守りを拾って貰ったこと。お礼にサイダーとコーヒーを渡しに戻ったこと。青年が“自分と少年にしか見えない”ということ―――――。
初めは何を言っているのかわからなかった。今度は自分をからかっているのかとも思ったが、啓太と名乗った少年の無垢な眼差しに嘘はないように感じた。
「俺意外に恭一が見える人がいるなんて…」
驚いたようなワクワクするような、そんな声色だった。恭一と呼ばれた青年は自分のことより啓太の反応を見て喜んでいたようだ。
そんな信じがたい話の最中、公園中に響き渡らんばかりの泣き声が聞こえてきた。2才くらいの女の子が母親に抱きかかえられ、わんわんと泣きながら釣り上げられた魚のごとく身体をくねらせていた。
「最近、疳の虫が酷くて。」泣き声にかき消されないように少々大きな声で一緒にいた母親たちに話している。母親たちは同情したように、女の子を撫でたり、話し掛けたりしているが状況は変わらない。
「――どれ。」
「え?あの…!」美鶴は泣き声の方へ歩き出す恭一の背中に声を掛ける。
恭一は振り向かず歩いて行く。距離にしておよそ20メートル。
「よく見てて。絶対誰も恭一に反応しない。」啓太は静かに、真っ直ぐ恭一を見つめたまま呟いた。
見知らぬ男が近付いているにも関わらず、母親たちは誰一人として恭一の方を見ない。恭一は女の子の近くに立つと頭に手を当てる。それでも母親たちは見向きもしない。それどころか女の子さえも恭一の方を見ない。
――――――なんで?
その瞬間、公園から泣き声が消えた。母親はホッとしたように女の子を安定した体勢に抱え直した。恭一に礼を言うでもなく。
一瞬の静寂の後、公園には他の子供たちの楽しげな笑い声が戻った。
「おーーいっ!どうだい?信じてくれたぁー?」左手を大きく振り、右手を口の横に当てながら恭一が叫んだ。彼の足元付近にいた何羽かの鳩が驚いて飛び去って行く。
「驚かせてごめんねーー!」今度は飛び去る鳩に向かって叫んだ。
あの時、確かに誰も恭一に反応しなかった。公園にいた人々がグルになって自分をだましたとも考えにくい。
その後も二人は色々話をしてくれた。
まず二人は兄弟ではなかった。少し小柄な少年の名は、川上啓太。小学校6年生。去年の夏、家庭の事情で四国から東京に転校して来たらしい。反抗期というか、口調から若干荒っぽい印象も受けた。
一方、白いワイシャツをきっちりとズボンの中にしまっていた、育ちの良さそうな青年の方は成瀬恭一(なるせきょういち)。第二次世界大戦の頃まで、この界隈に暮らしていたという。戦争で、ではなく、「生まれつき病弱で戦地に行くことさえなく、多分病死した」と言っていた。自分でもはっきりとは死んだ時のことは憶えていないらしい。断片的だが22歳までの記憶はあるという。
美鶴は思い出したように、バッグの中から冷めた缶コーヒーを取り出す。
恭一は死んでいる。飲食はしない。物質そのものにも触れられないが、意識するとその物に“触れている感覚になる”と言っていた。実際美鶴がコーヒーを渡すと、美鶴の手から離れた瞬間、缶コーヒーは足元に落下し、転がった。しかし恭一の手を見るとしっかりと缶コーヒーが握られている。しかし、美鶴にとって想像していた所謂幽霊とは異なる部分もあった。啓太と自分は恭一に触れられる。姿が見える人間には声も聞こえるし、触れることもできるようだ。恭一自身、啓太や美鶴に触れられている感覚があるという。
美鶴は缶コーヒーをテーブルの上に置くとごろんとベッドに横たわり、クッションを抱きかかえ、呟いた。
「私たちにとっては他の人と一緒なのに…」
考えれば考えるほど、様々な疑問が浮かぶ。何故そこにいるのか、どうして霊感がある訳でもない自分や啓太に見えるのか―――――?
啓太は学校帰りにいつも恭一に会いに公園へ寄るらしい。ちょっとぶっきらぼうに「せっかく見えるんだし、また来れば?」といってくれたのが可愛らしかった。
「私も、もっと話せたら嬉しいなぁ。」啓太を見て、いたずらっぽく笑いながら恭一が言ったのを思い出し、ガバッと起き上がる。心臓が早鐘を打っている。
――――――やだ…!なにコレ。いや、まさか。違うでしょ。
こういう感情が何なのか判らないほど美鶴も子供ではない。だが、気持ちとは裏腹に脳は一生懸命拒絶しようとする。
――――――だって幽霊だよ?ないない!
とはいえ、その後はもう夕飯の支度をしていようが、風呂に入ろうが、恭一の笑顔が頭に浮かぶ。ベッドに入って、小説の続きを読もうとするも、内容はまったく入って来なかった。
「結局お守りのことだって私の勘違いだったし…うわぁぁぁぁぁ!恥ずかしくて死ねる!」
この日、美鶴はろくに眠ることができなかった。