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事件が動いたのは、春も終わる頃だった。
野犬の群れが桜の樹海で死体を貪り食っていた。
その死体は毒物で殺されていたため、死体を食った犬達は死んでしまった。
菓子に蟻が群がるように桜が死体を呼び、死体は死を呼んだのだろう。
その後の警察の捜索で家出少女の死体が約十人発見された。
殺人鬼による解体、微生物による腐敗、虫と犬による食事で正確な死体の数は分からなかった。
少女達の葬式は絶望に包まれていたが、『約』……という言葉に希望があった。
俺も妹の死を信じたくなかった。
妹が殺される動画を見た後では、祈りは狂的な幻想だった。
その後、事件は進展が無く、報道が下火になり、捜査の足跡も叢に覆われた。
俺は人気が無くなった――桜の樹海にいた。
蚊柱が汗に寄せられ、肌を這いずり、全身が痒い、手で追い払おうとも集られた。
孤独を感じた。
苛立ちが腹の底から這い上がる。
硬質なナイフの感触で現実に引き戻した。
指先を斬ると生を実感できた。
血は玉になり、肌を流れる。地面に点々と、血は落ちた。
血は微生物に食われるだろう。
あの日以来、自傷癖を拗らせた傷だらけの指先は、切り傷で襤褸のようだ。
指差せば、逆に指を差されるほどの傷跡だ。
これで生きている――指先を見れば死人のようだった。
花屋が見繕った献花を、桜に囲まれた孤独な梅の樹に投げた。
幹にぶつかって花弁は散り、颪によって舞い散った。
原っぱに花びらの差し色が鮮やかだった。
刃の血を払い落とし、ボタンダウンシャツの丈で拭い、ジーンズの中に入れた。
腰掛ける椅子はないので、大きな石の上に座り、宛てのない殺意を漲らせた。
殺意は殺意を呼ぶ、負の連鎖は螺旋だ。
連続殺人犯の登場を願い、俺はひたすら待ち続けた。
何の宛もなく、死体が捨てられた森に来たのだ。
時間をかければ、殺人犯と会うことができると思った。
――それは妄想だろうか。
時間が余りあったので、何度も書き直した日記を読み返して、推敲して文字を平仮名に変えた。
復讐を終えて、誰かに俺のことを覚えてもらうために、俺は丁寧に文字と文章を選んだが、書けば書くほど、書き直せば書き直すほど、日記は現実から剥離している。
現実と妄想と幻覚が混じり合い、日記兼物語の様相を深めていた。
どれくらいの時間が経過しただろうか、空を見上げると気持ちの良い群青だった。
空の清清しさは、草の香りとともに肺胞まで良い気持ちにしてくれる。
旬の終わった梅に寄りかかると優しい感触だった。
時が経ち、眠気が波のように押し寄せ、気付くと時間の感覚が無かった。
其が現れたのは、俺の殺意に呼び寄せられたのか、死体に呼び寄せられたのだろうか、どちらにしろ――其は現れた。
眠気に負けて目を閉じていたが、其の存在の気配に眼が醒めた。
ぐちゃぐちゃぐちゃ……唇を開けたまま咀嚼する音。
其は梅の枝に腰掛けていた。
瀆神的な容貌、神懸りのような白化固体だ。樹氷のように輝く白髪、牡丹雪のような儚い肌、紅玉の眼光は野生に溢れている。
凶暴な美しさは食物連鎖の頂点を思い出させる圧力で、存在するだけで恐怖が神経を揺さぶってきた。
其は人型だ。
だが、人では無かった。
白髪を掻き分けるように、幾何学的な角が額から生えている。
角は鍛えぬいた日本刀のような波紋があった。牙は鋭角で骨を咥えている。大腿骨。しゃぶり、肉を剥がし、くちゃくちゃと咀嚼している。
厭らしい音――
希薄な幕の奥から響く、異界の音だ。
だが、それはこの世にあってもいい音だ。
食われる――恐怖で支配されたとき、俺の首は絞まった。
酸素と思考が遮断されて、まぶたが細かく痙攣した。
地面から次々と腕が伸び、私たちに向けて手招きしている。
声は聞こえないが、「コッチヘコイ、コッチヘコイ」と言って来ているようだった。
鈍くなったナイフを取り、刃を出して、指を切りつけた。
血の玉が浮くと同時に、地面から生えた腕は消えた。
だが、枝に座っている其は消えなかった。
其から力を感じる――確かな感覚だった。
だが華奢な肉体だ。
勝てる見込みはある。
必ず復讐すると誓ったのだ。
こんな所で死ぬわけにはいかなかった。
――咀嚼音が止まった。
其は目の前に落ちる、俺はナイフを構え、牽制しながら後退、牙から血を滴下し、雫が光に乱反射して虹色に輝く、明白な殺意が向けられ、思わず猫のような威嚇音を出し、足を斬り裂き、血が吹く、鉤爪が頭に減り込み、視界が赤く染まり、頭蓋が軋む、思考が潰され、強烈な圧力で歪んだ。
死にたくない――俺は我武者羅にナイフを振り、其の角とかち合った。
ナイフは粉雪のように砕け散った。
うぎぃ――猿に似た呻き声を出しながら、其は俺を放して、嘔吐した。
肉と骨の混合液が大地を汚した。
俺は腕を絡め取り、関節を折る気で、其を梅の樹皮に叩きつけた。
喧嘩では負けたことが無い。
その経験は人外の生き物に対しても例外ではなかった。
止め刺しに踏みつけると、転がり避けられた。
追撃。
絶叫が響く。
俺の足は角を踏み折っていた。
美しく残虐な眼光が輝き、気づいた時には、宙を飛ばされ、斜面を転がっていた。
痛みで肺が驚き、酸素を吸えなかった。人間の力では考えられないほどの怪力だ。
股が濡れていた。
痛みと恐怖に膀胱が馬鹿になっていた。
俺は逃げた。
こんなところで死ぬ訳にはいかなかった。
舗装路まで出ると、来る前には無かった車があった。
中を覗くと、運転手は首を切断され、後部座席の女は両方の手首を切り落とされていた。鋭利な刃物傷だ。
周囲を見渡しても誰もいなかった――運転手はともかく、女の死体は連続殺人犯の性癖と一致していた。
こんな時に――殺人鬼の気配が感じられた。
ぎゃぎゃぎゃ――其が追いかけてきて、路面に突っ伏した。
嘔吐が治まらないようで蠢動している。
迷っている暇は無かった。
運転手を道路に投げ飛ばし、頭も後を追わせた。
瞬きをして、舌をべえっと出したように見えた。
頭を振りながらエンジンを起動させようとすると、運転手が鍵を持っていたようで、始動しなかった。
運転手の死体の手に鍵が握られていて、こじ開けようとするも硬直が起きていてナカナカ開かなかった。
握力を試すように死体の腕の筋肉は盛り上がっている。
鍵を取る頃には、すぐ近くまで其は這い寄ってきていた。
路面に爪を立てると、風化した地盤を削るように砕いた。
車の扉に手を伸ばすと、扉は強風に煽られたように閉じた。
無風だった――不自然な閉まり方だった。
俺は其に抱きつかれた。
路面に吐瀉物を一筆書きした跡が、蛞蝓の粘膜の痕跡のように見えた。
胸を通して心臓が乱打しているのが伝わった。
引き離そうとして、路面に力任せに突き飛ばした。
其は痙攣して、仰向けのまま朦朧としていた。
力が萎えきっていた。
俺は車に背を預け、深呼吸して整えた。
其は毒茸を食べたような反応をしていた。
連続殺人犯が毒を使っていたのを見て、俺は毒を研究していた。
鞄から炭と水を出して、水を無理矢理飲ませて、牙のある口に手を突っ込み吐かせた。続いて炭を溶かした水を飲ませた。これで内臓の状況は安定するはずだ。
俺は残りの水で手に付いた吐瀉物を洗い流した。