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口座に失業保険の振込みは無かった。
妹が殺されてからの月日が感じられた。
あれから数ヶ月が経ち、報道は下火だ。
朝早くから新たな殺人者が報道番組を賑やかしている。
警察も訪ねて来ない、誰も関心を示さない――事件は迷宮入りした。
銀行から家までの帰り道で幾つも鏡があった。
妹が殺されて以来、鏡に対して恐怖心があった。
右手に首を絞められた幻覚を見てから、鏡を見ると一瞬――首に手形の痣が映ることがあった。
夢にも度々出てきて、俺の首を締め上げて、耳元で「コロセ」と囁きかけてくる。
コロセ――分かっている、だから俺は昼の仕事を辞めたんだ。
家の郵便ポストに母と大学から、二つの手紙が届いていた。
大学からの手紙を読むと、合格と書かれていた。
思わず握り潰してしまい、後悔して皺を直した。
妹が努力して獲得した合格だ。
母からの手紙は金の催促だ。
仕事を辞めた時に、携帯電話は解約したので、手紙が唯一の連絡手段だった。
二十万円――
仕事をしていた時でも窮する金額だ。
母は信用できなかった。
昔から母は金に汚く、子供ながらに守銭奴とは母のことだと思っていた。
妹の右手だけが戻ってきた葬式の時、魔が差して母親の通帳を見た。
十分過ぎるほどの貯金があった。
彼氏の小遣いと聞いているが、強欲婆に惚れる男がいるのだろうか。
――金で愛が計量できた。
物心付く前に俺の父は亡くなっていた。
自殺と聞いている。
自殺だったため保険金は出なかった。
母からすれば愛は零ということになる。
俺は片親の家で育ったせいか大人の男に免疫が無く、職場で苦労した。
玩具すら買ってもらえなかった苦しみが、今でも思い出したように痛む。
金で愛が計れるなら、俺の妹への愛は確かなものだ。
大学の費用は俺が工面しようとしていたので、四年分の学費は溜め込んでいた。
無駄な努力だったが――お陰で生活費に困ってはいなかった。
殺意が殺人鬼を殺すまで、金が持つことを祈った。
妹が亡くなっても世界は回り続ける。
俺だけが停滞して、母はすでに金に窮していた。
俺は怒りで思考が曇り、筆が進まなかった。
一度万年筆を置き、呼吸を整えてから日記を再開した。
俺の自我が目覚めたのは母が嵌った新興宗教の集会だ。
教祖が聖書を解いたが、頭には入らなかった。
脳に入ってきた知識は唯一神の父性だ。
父を知らないので、父性は興味深かった。
そして学んだのは、善悪の基準は無い、という事だ。
何故人を殺してはいけないのか。
俺には理解できなかった。
何故自殺してはならないのか。
俺には説明ができなかった。
駄目なことは駄目だ、当たり前の事を言うことも出来なかった。
普通の生活なら道徳の欠如はどうでも良い事だった。
だが復讐を決意した――今は財産だった。
手紙の返事を書く前に、ネルドリップで珈琲を飲み、思考を冴えさせて決意した。
妹に買ってもらった万年筆を取り、愛用していた洋墨に毒を混ぜた。
俺が精製した毒だ。
これで文字に触れる度に、皮膚は毒に犯され、命は風化するように朽ちるだろう。
緩慢な死だ。
死で生は終わる。
文字で生が終わる。
死を想うと、心が慰められた。
これから先、書くものは毒入りの万年筆を使う。
手紙も、日記も、手帳も、郵便のサインも、発する言葉にも毒をこめる決意で生きよう。
全方位に殺意を向ける。
致死量までにどれだけ触れれば良いのだろうか。
それすら分からない悪意を込めた。
手紙には時候の挨拶、警察の捜査の状況、就職活動の状況、近況を事細かに書いた。
二十万を振り込むことを約束して投函した。
気が進まなかったが大学まで足を運んだ。
暗記した番号はあった。
殺された妹は間違いなく大学受験を合格していた。
感情を溜める器は壊れていて、涙は一滴も流れなかった。
元から壊れていたのかも知れない、既に幻覚は見飽きている。
壊れに壊れて芥子粒になってしまった。
俺は人間だった塵芥だ。
存在理由は殺人鬼を害する事以外に見出せない、悪の塊となってしまった。
言い忘れていたが――これは俺の日記だ。
読むものに幸いあれ、毒入りの文字でどこまで書けるだろうか、どこまで読めるだろうね。
どちらにしろ、死は救済だ。
遅かれ早かれ死は訪れる。
俺が死ぬように、全てに終わりが来る。
今日生まれた子供も死に向かっている。
生ける者全てに例外は無い。
文字が終わるとき、俺は死んでいるだろう。