日記に今日の仕事の成果を書き、興奮で震える手が文字を汚くした。
仕事の興奮が治まらない、心臓は跳ね続け、耐えられないくらい身体がだるかった。
大黒柱に背を預け、心を静めるために息を整え、日記を中断した。
気持ちが落ち着く頃には夜は部屋の隅々まで行き渡り、濡れ縁は闇に溶け込み、目の前の膝すらおぼろげだ。
距離の感覚がほとんどうせていた。
――妹が帰って来ない。
仕事帰りに買い物を済ませて、食事を作り始める時間だった。飽きたカレーに、飽きない御飯、空腹こそ最高の調味料だが、帰ってくるのが遅いのが気になった。
俺は疲れた身体に活を入れて、キャメルのエンジニアブーツを履いた。丁寧に手入れしているため、数多の傷も美しい文様にみえた。
妹の居た場所は分かっていた。
原付に乗り、公営住宅へと向かう。
駐輪場に停めて、階段を無音で昇った。
屋上へ行くには鍵を開けなければいけないけど、昨日すでに鍵をこじ開けておいた。
難なく屋上へ出て、妹の携帯が転がっているのを見つけた。
携帯は血溜まりに沈み、血溜まりの端に右手が落ちていた。
血が冷え、汗が浮いてくる。
現実感がなくなり、気付くと腰が抜けて座り込んでいた。
妹の携帯を調べると、動画が残っている。
夕暮れが移ろう木漏れ日、退社と買物の車の行き交い、十字路に男が突き飛ばされた。
烏の鳴き声、悲鳴、警笛、警報が和音となり響く。
車に男性が轢かれて、足が逆方向に曲がった。
生きている。
しばらくすると救急車が来た。
屋上から撮影した映像だ。
地上の騒音の奥から、妹の息遣いが聞こえた。
――突然の足音。
「いやっ……」
映像が乱れて、携帯端末は屋上を転がり、妹が映った。
倍率を高くしているので、妹の背後にいる何者かの顔は見えなかった。
妹は眼を見開き、必死に足掻いている。
首に腕が巻きつき締め上げていた。
誰かが妹を殺そうとしている。
注射器が妹の首筋に刺さり、液体がゆっくりと流し込まれた。
「痛い……」
男は妹に手錠をかけ、手摺にかけた。
「それは毒だ」男の声だった。
妹が生唾を飲んだ。
「それは手錠だ。これはナイフだ。最後に薬だ」
「何を……」
「生きたいか?」
男は何も喋らなくなった。
聞こえるのは妹の鳴き声だ。
嘔吐が始まり、泣き声が充満して、力強い歯軋りが聞こえた。
妹は手錠の鎖を切ろうとした。
何度切ろうとしても金属が軋む音が響いた。
悲惨だった――妹の口角から泡が溢れ始めた。
右手首を切断しようとした。皮膚が切れ、肉が弾け、血が飛び散る。
生きる道は自傷にしかなかった。
手首が完全に切れて転がった。
妹は失神するように倒れながらも這い、薬に手をゆっくりと伸ばした。
それは届かなかった――足が小瓶を踏んでいた。
「薬のはずないだろ」
男は薬と言っていた小瓶を踏んで潰した。
「その表情……狂おしいな」――厭らしい笑い声が響いた。
妹は絶望した。
その顔を、俺は忘れることができない。
何者かが携帯に近づき、動画を止めた。
「なんでこんな事に」
俺は妹の右手を抱きしめ、絶望とともに涙を流した。
だが本当に沸いてきたのは涙ではなく殺意だった。
死者は復讐することを望んでいる――そう思った瞬間、右手が首を締め上げてきた。
コロセ――アイツを。
大男の腕力で酸素を遮断してくる。
コロセ――アイツを。
気づくと夜空を仰いでいた。
いつの間にか気絶していて幻覚すら見た。
だが、血は溢れるほどあり、右手は物質のように転がっていた。
その日、俺は人を殺すことを決意した。