こんな夢を観た「幻の仔犬」
その仔イヌは、駅からずっとわたしの後をついてきた。
「ほら、うちへ帰らないと迷子になっちゃうぞっ」そう言って、何度か追い払おうとした。いったんは離れるそぶりをするけれど、わたしが歩きはじめると、またトコトコ追ってくる。
真新しい赤い首輪がついているので、間違いなく、どこかの家の仔だった。
「ゴールデン・レトリバーかな。もう、しょうがないなぁ」
困っているところへ、ちょうど交番が見えてくる。
「すみません、この仔イヌ、どこかのうちで迷子になったらしいんですけど、ついてきちゃって困ってるんです」交番の前で立っている巡査に話しかける。
「仔イヌ? どこに?」仔イヌは今もわたしの足元で、うれしそうに走り回っていた。
「どこって、目の前にいますけど……」
巡査は顔をしかめると、コホンッと咳払いをする。
「確かに、今は暇そうにしていますがね。だからと言って、警官をからかってもらっちゃ困りますな」
「でも――」その巡査のズボンに向かって片足を上げ、とうとうオシッコまで始めた。それでも、まるで気がつかないらしい。
「からかってるんじゃないのなら、おそらく、お宅さんのアタマがイカレてしまっているのでしょう。この近くに精神科医があるので、1度、診てもらうことをお勧めします」
その可能性は考えていなかった。そうか、わたしはアタマが変になっていたのか。
「ありがとうございます。そこへ行ってみますので、地図を書いてもらえないでしょうか」
「ええ、いいでとすとも。少々、お待ちください」そう言って奥へ消える。
ほどなくして、スーパーのチラシを手渡される。本日限り、無洗米5キロがたったの千円! とポップの踊るその裏に、ていねいな地図が描かれていた。
わたしは、礼を言って立ち去る。
地図を頼りに5分ばかり行くと、「中谷メンタルクリニック」があった。
「どうしました?」ショートボブの女医が尋ねる。
「仔イヌの幻覚を見るんです」わたしは言った。
「ああ、それは『仔イヌ妄想症』ですね」即答で診断される。わたしの幻の仔イヌは、先生の膝に乗っかってすやすやと寝息を立てていた。
「はあ、『仔イヌ妄想症』と言うんですか。どうすれば治りますか?」
「お薬を出しておきましょう。ハロペリドールですが、仔イヌに特化した作用があります。では、お大事に」
帰りの窓口で、どっさりと薬の入った袋をもらい、料金を支払う。いつの間に目を醒ましたのか、足元で仔イヌがうれしそうにまとわりついていた。
部屋に戻って、さっそく薬を飲んでみる。梅仁丹そっくりの味だ。中谷先生は、即効性がある、と言っていた。
目を閉じ、しばらくじっとする。副作用なのか、軽い昂揚感を伴う。
「さて、仔イヌは消えたかな」そっと目を開く。ベッドの上で駆けまわる仔イヌがいた。
あの先生、さては藪医者だったか。
タウン・ページをパラパラとめくり、別の病院を探す。
同じ町内に、もう1軒、精神科を見つけた。
「『心療内科 桑田医院』。ここに行ってみるか」
「おう、今日はどした?」モジャモジャ頭のごっつい先生だった。
「仔イヌの幻覚が続いて困ってるんです」わたしは答える。
「えっ、仔イヌ? 仔ネコじゃなくって?」念を押す先生。
「はい、仔イヌです。間違いありません」
「仔イヌかあ……。仔イヌなあ――」なぜか、顎に手をやり、目をつぶって考え込む。イスに座ったまま、ぐるりと体を回転させ、うーん、とうなる。
わたしは何だか心配になって来た。よほど深刻な病気に違いない。
「そっか、わかったぞ!」イスを足でキュキュッと止め、朗らかな声を出した。
「やっぱり、統合失調症とかでしょうか?」おそるおそる聞く。
「いやいや」と先生は否定した。「前にさ、仔ネコの幻覚が見えるっていうクライアントがいたんだ。その人、自分に自信が持てなくって、それで鬱状態に陥ってたのよ。人間、心が不安になってくると、より所として、イマジナリー・コンパニオンってのを生み出すの。おれ、その時は『仔ネコシンドローム』って名付けてやったんだ。今回のは仔イヌだろ? だから『仔イヌシンドローム』だ。なっ」
安直だなぁ、と内心では思った。けれど、先生が言うのならそうなのだろう。
「じゃあ、エチゾラムでも出しとこうか。あ、飲み過ぎちゃダメだぜ。処方箋は守ってくれよな」
数日の間、わたしは仔イヌが気にならなかった。相変わらず見えていたし、何と、与えたドッグ・フードをぺろりと平らげもした。
どうやら、抗うつ剤の効き目で、気分がハイになっていたらしい。幻覚が見えても、だからどうした、程度にしか感じなくなっていたのだ。
「ああ、ダメダメッ。こんなんじゃ、何の解決にもなってないじゃん」ようやく気がつき、今度はインターネットで評判の診療所を探す。
「『ここの先生は、口当たりが柔らかく、とてもていねい』か。他の人の口コミでも、的確な診断と書いてある。よし、行ってみよう」
「志茂田クリニック」の先生は前の2人と比べ、知的な雰囲気を漂わせていた。
「おやおや、かわいらしいワンちゃんですねえ」わたしの仔イヌに微笑みかける。「さて、今日はどうさないました?」
わたしは戸惑いながら言う。
「あの、仔イヌの幻覚が見えるんです」
「えっ? ああ、はいはい。幻覚……幻覚ですね、ふむふむ」
「先生、今、仔イヌに向かって話しかけてませんでした?見えてらっしゃるとか――」わたしは尋ねた。
「は、ははは……。何をおっしゃるんです。他人の幻覚など、わたしに見えるはずがないでしょう? そうですか、幻覚を見ますか」仔イヌが先生の靴を舐め始める。その仔イヌから、つとめて視線をそらそうとしているよう、わたしには思えてならなかった。
「ここに来る前にも、2つばかり病院を回ってきたんです」わたしは言葉を足す。「結局、薬をもらうばかりで、ちっともよくなりませんでした」
「薬、薬、薬! 最近は、どこもかしこも薬で治そうとする」先生は憤慨した。「わたしのところでは、できるだけ薬物療法を行わず、人間本来の持つ、自然治癒力で治していきます」
「そうなんですか。何だか、ほっとします。やっと信頼できるクリニックに当たりました」わたしは胸をなで下ろす。
「まずは、自分に言い聞かせてください。『わたしは治る、きっと治る、たぶん治る、少なくとも今より悪くならない』と」
「はあ……」
「『宇宙のパワーはわたしの心を満たし、わたしの心を健やかにしていく。わたしは宇宙の一部だ、いや宇宙そのものだ』」志茂田先生は立ち上がり、診療室をドッタン、バッタン、と行き来する。狐にでも取り憑かれたのではないか、と怖くなった。
足元の仔イヌを抱き上げると、わたしは逃げるようにして病院を後にする。
「どの先生もまともじゃないよ。それに比べれば、仔イヌが見えるくらい、どうってことない」




