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古の妖怪

無限に広がる荒廃した大地に、一人の人間が倒れている。

その者は打ち捨てられたかのように、けれど露出する肌は真珠のような煌きをも放っていた。

その人間が名前を名乗るという事はないのだろうが、程なくして意識を覚醒させたのか、人間は静かに立ち上がる素振りを見せた。

まるで生後間もない小鹿のような頼りない両脚に力を込めるも、疲労感に苛まれたのか満足に立ち上がる事も出来ない。人間は再び、地に腰をつけた。


人間は特別負傷をしている風ではなかったが、着用している衣服は土埃に塗れひどく劣化していた。

半刻ほど目覚めた場所で腰を落ち着かせていると、その人間は何かを思い出したのか。頭を抱え顔を俯かせる。


そして更に半刻が経過したところで、漸く人間は立ち上がった。

脚をふらつかせながらも確実に大地を踏み締めるが、その表情はひどいものであった。


瞳は濁っており、生気の宿りを欠片も見せない。

人間は一体何処へ向かうのか。拙い足取りで少しずつであったが、一歩ずつ着実に前へと進む。



────彼の名は天野義道。

とある世界から不遇な扱いを受け、心身共に疲弊し切っていた彼を待っていたのは、不透明な異世界。

奇妙な輪廻に翻弄されながらも、彼は前へと進む事を決意する。その先に何が待ち受けているかも知らずに。





*





彼は怒りに満ちていた。


何故あんな事になってしまったのか。どうして自分は生きているのか。そして何故、知らぬ土地で目覚めたのか。

これを"運命"と括ったところで、彼がそれに納得する筈もない。

人間は罪の重さに耐え切れなくなると、"死んだ方がマシだ"と思考するようになるらしい。

まさに今の彼は、そんな状態になっていた。


彼が異世界で目覚めて一番最初に行った行為は、"自傷"であった。

生き続ける事が既に苦痛となっていた彼は、このような異世界で存命する気など更々ない。

砂埃が爪垢となり、薄汚くなった爪で手首を、喉を引っ掻いた。血が滲むまで引っ掻き回し、切り裂いた。

けれど、それが直接死に繋がるという事はなかった。

出血は直ぐに固まり瘡蓋となると、彼は激痛に表情を歪めた。


次に彼が辿り着いたのは、小さな湖であった。

荒廃した地に存在する湖は、とても綺麗とはいえない程、混濁している。

黄土に塗れ、死魚のような生物があちこちに浮かんでおり、岸の方には肉の塊のようなものが腐食し、一つの場所に散り積もっていた。


彼はその湖の中に身を投げた。

死を渇望する彼に、それを躊躇する理由は根底より無い。


だが湖に飛び込んでも、彼が死ぬ事はなかった。

彼が湖に飛び込む時に限って強い突風が吹き、大きな波が発生して沿岸に押し戻されてしまったのだ。




彼は死ぬ事を求め、彷徨い歩き続けた。

湖に飛び込み、自らの頸を絞め、手首を切ったりと自傷行為も頑なに続けた。

時には高い崖から飛び降りた事もあったが、突風が吹き壁に打ち付けられて打撲程度に終わっていた。


だからこそ、彼は怒りに満ちていた。


理不尽な生を強制され、死ぬ事も許されない。

食べる物も飲む物も、話し相手どころか自分以外の生命体すら見受けられない、荒廃した大地。


死ぬ事が出来なかった彼は、次に生きる事を考えた。

何も口にしないでいれば自然に死ぬだろうと考えた事もあったが、実際にそうする事は出来ない。


人間の本能というものなのだろうか。

彼は極度の空腹感に苛まれると、草を齧り木の根や幹を食べて飢えを凌いだ。他に食べる物もない、無様な生への足掻き。

喉が渇いたら雨が降るのを待ち、それでも降らなかったら地面に溜まっていた泥水を啜り喉の渇きを潤した。



────このまま生き続ける事は無理だ


次第に彼は、そう思考するようになった。

口内は泥混じり、砂交じりの嫌悪感を呈す感触に、喉は常に清水を欲して渇き続けていた。

だが、それでも彼は動物的本能に従い、這いずり回るようにして生き続けていた。


そして一月程経過した時、遂に彼はその場から動く事が出来なくなった。

立ち上がる事はおろか、地面に脚を付ける事も叶わない。

幸いにも空は常に曇天を維持しており、太陽が顔を出した事は一度もなかった為、日照りに苛まれる事はなかった。



この時、彼に岐路が訪れた。


地に倒れ伏した彼の目の前に、突如として彼以外の生命体が現れたのだ。

その生命体はまるで"動物のような"姿をしていた。それは或いは、原初の妖怪だったのかもしれない。

喉を鳴らし低く冷え切った唸り声をあげ、彼に少しずつ肉薄する。


今にも飛び掛かりそうな態勢の妖怪に気付いた彼は、悲鳴をあげたり表情を変化させたりはしない。

無限に広がる曇天を見上げ、彼は静かに思考した。


────ああ、漸く終わるのか


待ち侘びた終焉の時。適者生存の世界の中、彼は自らが捕食されるだろうという事を容易に想像できた。

きっと、この世の物とは思えない苦痛が待ち受けているだろう。

しかし彼は、その事さえも考える余地は無かった。

静かに、迫り来る妖怪を受け入れようとする彼は、限りなく広がる大空を見上げたまま。




────だが、しかし。

彼の望んだような結末は訪れなかった。


捕食者と化した妖怪が彼に飛び掛ったのだが、その鋭利な牙が彼の肉を引き裂く前に、妖怪は絶命していた。

それは刹那の出来事。四肢が、壊れた人形のように離散し、荒廃した地に黄土色の血液を撒き散らした。


胴体だけとなった妖怪は、動く事もなく彼の傍に転がった。


一体何が起きたのかと彼はおもむろに起き上がった。不思議とこの時ばかりは、自身の身体が羽毛のような軽さだと自覚した。

そして彼が見据える先には、肉塊となった妖怪。


何故、彼が死を間近にした時に限り、予期せぬ出来事が起こるのか。

以前の事も含め、今回の事は異常である。

どうして捕食しようとした妖怪が、何の前触れも無く絶命したのだ。

彼は何度も思考を重ねたが、その解が導き出される事はない。


やがて考える事を諦めた彼は、ふとある物に視線がいった。


それは四肢が離散し胴体だけとなった、妖怪の肉塊である。

彼はその肉塊に視線が釘付けとなり、涎すら垂れ流した。


"食べられるのだろうか"


そう思考しながらも、彼は妖怪の死体に近付いた。

黄土色の血液を撒き散らし、悪臭が漂っていながらも、彼はその肉を手に取る。


美味しいのだろうか。これは、食べられるのだろうか。果たして"食べてしまったらどうなるのだろうか"。

様々な葛藤が彼に起こったが、生まれ持つ本能というものに逆らう事は出来ず、彼は妖怪の肉を口にした。

食べてしまった。


彼は妖怪の肉を口にして咀嚼する。二度、三度だけ咀嚼して無理矢理喉に流し込む。

妖怪の体毛が口の中に残り不快感すら感じた彼は、直ぐに嘔吐した。


先程食べた肉や、黄土色の液体。そして胃液を口の中から吐き出した。

激しく咳き込み胸を押さえる彼は、やがてそれも落ち着くと空を仰いだ。そして彼は、一つの感想を導き出した。



"なんて美味しいのだろうか"、と。



彼はそう思考すると、地に落ちていた妖怪の肉を引き裂き、再び口にした。

根を齧り土を食べ、泥水を啜っていた彼にとって、妖怪の血肉ですら美味に感じてしまう。

何度も咀嚼を繰り返し、喉に流し込む。が、またしても彼は嘔吐してしまった。


そんな矛盾を何度も、何度も繰り返した。

やがて妖怪は表皮と骨だけになり、周囲は彼の吐き出した嘔吐物に塗れており、彼はそれら全てを眼下に置いた。

不思議な事に彼は幸福に満ちたような表情をしており、疲弊し切っていた心身が若干ながら回復しているようにも見受けられた。


彼は凄惨な状況になっていた場を離れると、静かに、強く思考した。



────俺には不思議な能力がある



妖怪を解体し肉を抉り取っている最中、彼はある一つの発見をしたのだ。

それは"能力"について。


硬く堅牢な妖怪の胴体を、いとも容易く解体する事が出来た事をきっかけに、彼はある想像をした。

"この箇所を切りたい。骨が邪魔だ。毛皮が鬱陶しい"

彼がそう思考をすると、思ったように事が運んだのだ。

背骨の周りにこびり付いた肉が綺麗に削げ落ち、妖怪の臓器部分に当たる部分も、肉と綺麗に分離された。


ある種の潜在意識なのかもしれない。

潜在意識とは、強い願望に影響を受け、やがて一つの能力として具現する。

彼が今まで趣味などで行ってきた"結合"、"切断"という行為が積み重ねられ、先程の捕食の際にそれらが潜在意識として具現化した。

ただの"思い込み"と言ってしまえば、その通りだろう。

しかし"思い込み"ほど恐ろしいものはないとも言える。


繋いだり、切り離したりする事ができる能力。


彼の前世での調理活動に於いて、それらの行為が頻繁に繰り返された。

そして異世界に於いて、それらが"能力"として具現化されたのだ。


その事を推測した彼は、砂埃に塗れた表情をひどく歪め、腹の底から不気味な笑い声をあげた。

それは妖怪の肉を捕食した行為によるものか、或は自身の能力の開花によるものか。それは誰にも分からない。

原初の妖怪の血肉を体内に取り込み、肉体的にも人間を遥か逸脱した彼に、畏怖する対象は存在しない。


荒廃した大地を、彼は再び歩き始めた。

薄く濁った瞳は何を見据えているのか、その先に視えるものは何なのか。


やがて、月日が経過する。




彼は始めこそ能力の使い方というものを理解しきれず、本能に頼るがままに地に潜む妖怪を探し周り、見つけては拙いながらも能力を行使して捕食を繰り返した。

荒廃した大地に潜む妖怪は、どれもが人の形をしておらず、狼のような動物型から、蜘蛛や蟷螂のような昆虫型の妖怪と様々な種類がいた。


妖怪の肉を食する度に、彼は充足感に満たされた。

次第に人間のそれとは思えない不思議な力を彼は身につけ始め、恐らく妖怪の血肉を体内に取り込んだ行為によるものだと思われるそれは、彼の心をも腐食させた。


────喰らいたい


妖怪を捕食する度に充足感を得る事が出来たが、徐々に一度や二度の捕食では充足感を得られずにいた。

もっと食べたい、まだ喰らい足りない。

呪文のように繰り返されるその言葉は、いつまでも彼の心の中で繰り返された。


一方で、野に生息する妖怪達も阿呆ではない。

強大な捕食者が現れた事により食物連鎖の均衡が崩され、やがて妖怪達の生息数も減少傾向に陥った頃、知恵ある妖怪達は行動に移る。


本来天敵である妖怪達が徒党を組み、ある一つの大敵を始末する為に同種、異種を問わずに妖怪達が結集したのだ。

まだ歴史書の編纂者も存在しない、歴史に名前すら残らない小さな抗争。


総勢で数百を下らぬ勢力と化した知恵ある妖怪達は、野を流離う彼を捕捉し、襲撃した。

獰猛な動物種の妖怪から、無数の脚を持ち胸部を持たない節足動物、更には七色に光る羽を持つ昆虫妖怪までが勢揃いし、一人の人間を襲う。

襲撃を察知した彼は、嬉々とも恐怖ともとれぬ表情をし、迎撃した。



────凄惨。


戦場と化した黄土色の砂埃に塗れた土地は、様々な種族の体液で穢された。

頭部を失い翡翠色の体液に塗れた残骸、千切れた羽が方々に飛散し、その上を肉の塊が転がり落ちていた。


凄惨な状態となった大地に、一人の人間と一匹の妖怪が向かい合っていた。

人間は種々の体液を全身に浴び、妖怪は酷い外傷を負っており、生体組織もほぼ崩れかけている。

妖怪は振り絞るような、酷く濁った声で人間に向けて語りかけた。


────何故禍乱を起こす。我々は自然の営みを持していたというに


人間が妖怪の息の根を止めようと動いたが、寸でのところでそれは止まった。

何を考えているのか、歓喜しているのか恐怖しているのか、或は後悔をしているのか。そのどれとも取れぬ表情のまま、人間は妖怪の戯言に耳を傾けていた。


────摂理を乱す者……災厄の根源たる者。限りある生命を淘汰し、破滅の先に何を望む


彼は何かを弁明するという事はなく、ただ口を堅く閉じて言葉に耳を傾けるのみであった。

妖怪は瀕死の状態ではあるものの、彼に語りかける事をやめない。


何故摂理を乱すのか。何故生命の境界を壊そうとするのか。果てに目的があるのか。

妖怪の紡ぐ言葉はどれも、今の彼には到底理解し得ない言葉であり、彼はただただ黙を貫いた。

無数の眼を持つ限りなく人型に近いその妖怪は、八つの雲の刺繍が施された衣服を着用しており、全体が紫色と不吉な象徴として存在していた。


衣服が存在するという事は文化がそこにあるという事になり、彼の知らない何処かで妖怪の文明が存在していたのかもしれない。

しかしながら今の彼には、妖怪の戯言に耳を傾ける事が精一杯であり、推測する余地などない。


やがて妖怪は、最期となる言葉を紡ぐ。

今までの泰然とした口調ではなく、感情的な言葉として。それは妖怪の口から紡がれた。


────貴様さえ存在しなければ。貴様さえ此の世に生を受けていなければ、我々は恒久的な繁栄を────



妖怪が言葉を紡ぎ終わる前に、彼は妖怪を絶命させた。

頭部を切断し、二度と戯言が吐けぬ様に、と。

彼の周囲に広がる凄惨な光景は何処までも、地平線の彼方まで続いた。





*





彼が妖怪の襲撃を受けた日以来、彼は再び塞ぎ込んでしまった。

妖怪の戯言に、最早懐旧とも表現出来る過去の事を思い出し、偲ぶどころか嫌悪すらした。


彼の心中には様々な葛藤が起きていた。

生きる為に妖怪を捕食していたが、気付くとそれは快楽に変貌しており、今まで喰らう為に殺めていたのが、いつの間にか愉悦する為に殺めていた。

彼の中に僅かに残っていた人間としての理性が、愉悦する為に殺めるという行為を、酷く糾弾した。


喩え妖怪の知識者から蟻の子一匹に至るまで、全て生を全うしているのだ。

それら全ては悪戯に異種を殺める事は無く、生きる糧を得る為に狩りをしている。

今の自分は、自然界に於ける食物連鎖の枠組みにすら入らない。ただの人格破綻者である。

次第に彼はそう思考するようになり、塞ぎ込んだ。


そして何よりも、"貴様さえ存在しなければ"という言葉に、彼は酷く心を痛めた。

自分が人間だった頃の事を思い出し、嫌悪し、自虐した。もうあの頃の生活には戻れない。

帰る場所など存在しない。自分は誰にも必要とされていない……そう思考すると、涙さえ溢れてくる。



彼はあの時から妖怪を殺める事も極端に少なくなり、目的も無く荒廃した土地を彷徨い歩いていた。

度々吹き荒れる突風が、彼の心身を凍えさせた。


もう歩くのも億劫になってしまった時、彼は巨大な樹木の下に座り込んだまま、動かなくなった。

何も考えずに妖怪を喰らっていた時の方が余程マシだ、と思ってしまう程、今の彼は自暴自棄になっていたのだ。

腰を持ち上げるのも、瞼を持ち上げるのも辛い────やがて彼は、静かにその瞳を閉じた。


紫色の蝶がそよ風に乗って彼の下に接近すると、それは露となって消えた。

太古より月に移住せし民族の知識の結晶体に、彼は気付く事もなく、深い深い眠りの底についたのであった。

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