-往年幻想物語-
※当作品は『ハーメルン』様にて投稿させて頂いている東方外来禄-往年幻想物語-のマルチ投稿となります。
その中の過去編のみを抜粋し、小説家になろう様にてマルチ投稿させて頂いております。
────それは忘失されし記憶
幾年もの月日を過ごした、思い出の地
懐旧する事は罪を背負う事 それは慙愧の至り
深い罪悪感に苛まれて生へと執着するか、それとも自らの醜行を恥じ死を選ぶか
それを選ぶは一人の人間、行動するは一人の男
────死は或は泰山よりも重く、或は鴻毛より軽し
男は絶望し、死への羨望感で心を満たした────
-忘却せし物語-
時は現代まで遡る。
二十一世紀も大局を迎えるだろうと世間は大いに騒ぎ、世の人々は心浮かせていた。
庶民の誰もが考えていた事がある。
世界が二十二世紀を迎えた時、果たしてこの地球上で"何が起こるのか?"
誰もが予想しえない想像上の論理、机上の空論。
世界中のジャーナリズムが注目し、一つのテーマとなっているそれは、様々な理論が展開され会議の題材となっていた。
時には世間を騒がせるような醜悪なゴシップであったり、或いは信憑性に欠けた眉唾ものの学説だったり。
近未来の世界を生きる人間達の中に、一体どれ程の"一般人"が存在するのだろうか。
世界の動向について様々な意見交換をし、定説や理念を唱える者もいれば、普通に学校に通い普通に成人し、普通の家庭を持って普通に老いてゆく────そのような一般人も多く存在している。
これから始まるのは、ある"一般人"の男に焦点を当てた、その男の終端までのお話。
世界という枠組みの中から考えれば、取るに足らぬちっぽけな男の物語。
*
────かつて黄金の国と称された某国。
その国の首都に当たる土地で生活するは、齢二十にも満たない青年であった。
青年は首都で最も大きな学校に所属しており、選択した学部もまた青年の"趣味"に関係するものを選んだ。
彼の趣味は何の変哲も無い、ただの"料理作り"であった。それも創作や甘味物、菓子ばかり。
自身の趣味を公にするのが恥ずかしいのか、彼は友達や学部の先輩にもその趣味を隠していた。
また彼はアパートで一人暮らしをしており、生活費を稼ぐ為にアルバイトをしていた。
アルバイト先も彼は自身の技術が活かせる場所をと考え、近所に新しく開店した居酒屋に従事した。
初めてのアルバイトでは指導係に『声が小さい』と叱責をされたのをよく憶えており、自身の不手際で客に迷惑をかけてしまった事も深く記憶していた。
苦労に苦労を重ねて社会に出て初めての給料を受け取った彼は、毎月仕送りをしてくれる両親に感謝の意を込めてお酒を贈った。
両親は離れた地で生活しており、彼の生活している首都から凡そ数百キロメートルは離れているので、普段顔を合わせる事は無い。盆や正月には毎年帰省しようと思っていた。
そんな平凡な、極普通の生活を送る青年。
彼の日常は巡り巡る"運命"という歯車に巻き込まれ、誰が望んだのかその日常は無残にも崩れ落ちる事となった。
青年は今日も居酒屋でアルバイトをしており、普段通りの日常を送っていた。
客から注文を取り、電子機に内容を打ち込む。要望があれば各テーブルに馳せ参じ、時にはお冷の水をかけられる事もあった。
仕事の時は途端に真面目になる彼は、周囲の同僚から陰口の類を囁かれる事は一切無かった。しかしある日、こんな事を囁く客がいた。
「ねぇ見て、あの店員の人……凄く格好良くない?」
一つのテーブルを三人で囲うは全て女性であり、その中の一人の女性がそう友人に向けて呟いた。
「えー、うっそぉ。ナイナイ、どこが良いってんのよォ」
「なんか真面目クンて感じィ。あーいうのって、見た目とは裏腹に腹黒だったりすんのよねェ」
「それが良いの。知的でクールっぽくてさー」
凡そ十代後半と思われる女性三人のグループは、それぞれに会話をしていた。
店員の一人の青年を賞賛する友人を、他の二人の女性が茶々を入れて楽しんでいた。
女性達は、酒の力も相成って一頻り会話が弾んだところで、席を立つ。
それぞれが自分の鞄を手に持ち、会計を済ませようと財布を取り出す。
居酒屋が非常に混雑する時間帯の為に通りにも人がおり、レジカウンターまで移動しようとしたところで、通りで人とぶつかってしまう。
「……ッてェーッなァオイッ!」
ぶつかった女性の一人が謝罪をしようと言葉を口にするが、相手は完全な酔っ払いであり、まともに応対する事ができなかった。
酔っ払いの腕には派手な刺青が彫っており、その怖面が見せる怒りの形相だけで、女性達を心の底から震え上げさせるのは十分過ぎた。
「す、すみません。余所見しちゃってて……」
「あァ? 知るかンな事。謝って済むんならケーサツはいらねェっつゥーだろうがよォーッ!」
「きゃあっ!?」
酔っ払った中年の男が、女性のうちの一人に掴みかかった。
彼女の友人の女性は『依子!』と不安を顕にした表情でそう叫んだ。
周囲の客や店員は突然の出来事に呆気に取られており、誰もいさかいを止めようとする者はいなかった。
当然だ。気持ちよく酒を飲んでいる時に、こんな争い事に巻き込まれたいと思う者など存在しない。
どころかこの騒動を酒の肴にする者がいる始末であり、酔っ払いに茶々を入れる客もいた。
茶々を入れられた酔っ払いは強気になったのか、下卑た表情で掴み上げた女性に言葉を吐きつける。
「へッへェ……つゥー事だからよ、外でるぞ。オメーにド突かれた礼をしなくっちゃなァ」
「い、嫌っ、やめてよッ!」
「るせェッ! テメーが悪いんだろうがよォアガッ!?」
嫌がる女性を無理矢理外に連れ出そうとする酔っ払いだが、不意に頭部を殴られた事により言葉を詰まらせてしまう。
鈍い音が居酒屋に響き渡り、何かの破片が周囲に飛び散ったところで、それまで茶々を入れていた客が口を閉じて黙り込んだ。
頭部を何か堅い物で殴られた酔っ払いは地に伏せり、失神していた。その酔っ払いの直ぐ背後には、一人の青年が立っていた。
青年は"瓶だったもの"を手に持っており、顔を青ざめている。
"依子"と呼ばれて助けられた女性は、目の前の出来事に唖然としながらも、自身が青年に助けられたのだと自覚すると同時にお礼の言葉を述べようとするが……
「……や、ヤッバイ…………店長に怒られるぞ……ど、どうしようッ」
青年は顔を青くし、そう呟いた。
言葉を遮られた依子は、それでもお礼を言いたいと思い再び言葉を口にしようとする。
しかし、その言葉はまたしても遮られてしまう結果となる。
厨房の奥から、レジのカウンターから、続々と居酒屋の従業員達が駆けつける音により。
そうして居酒屋の店長と思わしき男が現場に到着すると、声を裏返して言葉を吐く。
「あ、お、お、お客様……っ」
「誰かぁ、担架持ってこい担架ぁ!」
「て、店長、救急車も呼びますかっ?」
「こらァ天野ッ! お前何してんだァッ!」
殺伐とした現場の中、青年を叱責する声だけが店内に響き渡っていた。
その後酔っ払いは病院に搬送され、殺伐としていた店内であったが、一時間後には元通りの空間に戻っていた。
後日この出来事は新聞の片隅に掲載され、知る人ぞ知る珍事件となっていた。
────青年の名は、天野義道。
日本という島国に住む、どこにでもいるようなごく普通の、ただの学生である。
彼はどこまでも純粋な心を持っており、そして他のどの人間よりも強い正義感に溢れていた。
事件の起きた日の夜、青年……天野はアルバイトをクビにされた。女性達の証言もあり学校を退学にならなかっただけでも、彼は良しとした。
ちょっとした正義心に駆られ酔っ払いに絡まれた女性を助けたつもりであったが、その代償は大きかった。
居酒屋の裏口から叩き出された天野を待っていたのは、夜の繁華街の喧騒と、切れかけの電柱の明かりだけであった。
途方に暮れていた天野は一人項垂れると、居酒屋を後にして帰路へと着こうとしたが、視界に人の影が移り込んだのに気付き顔を上げた。
天野が顔を上げると、そこには先程助けた女性が立っていた。
「あ……」
女性はそれだけ言葉を漏らすと、恥ずかしそうに口を閉じた。
天野はその事を不審にさえ思ったが、彼女がさっき助けた女性だと気付き、合点がいった顔をする。
「あ、あの……あの時は助けてくれて、ありがとうございました」
女性はやっとの事で声を絞り出すと、それだけ言って頭を深く下げた。
「え、ああ。気にしないで。俺が好きでやったことだからさ」
「も、もしかして私のせいで、お店をクビに……?」
女性はその事を危惧すると、不安そうに表情を変える。
青年は『本当に気にしないで』とだけ女性に伝えると、それでも女性は納得のいかぬ表情をし、口を開く。
「本当にすみませんでした……。もし良ければですけど、私の知り合いのお店を紹介させてください」
女性は深々と頭を下げ、そう天野に向けて言った。
彼は女性の意外な一言に驚き、次のアルバイト先を考えていた事もあり、彼はその提案を嬉しく思った。
「それは本当かい?」
「はい。是非紹介させてください!」
「……そっか。ありがとう、助かるよ。これ、俺の連絡先……また会えると嬉しいな」
天野は電話番号の書かれた紙を彼女に渡すと、優しそうな表情でそう訊ねる。
女性は紙を受け取ると頬を赤らめ、口を開く。
「は、はい! 私、綿貫依子って言います」
「俺は天野。天野義道。よろしくね、えーと……依子ちゃん?」
「あ、はい。よろしくお願いします、天野さん」
──巡り巡る"運命"という歯車は噛み合わされ、平凡な人間達に奇妙な出会いを与えた。
天野と依子という女性はこの日、奇妙な巡り合わせにより出会う事となったのだ。
彼らを包む雰囲気は月日が経過するに連れ、男女の関係をより深めていった。
依子は天野よりも二つ年下の女の子であり、彼女が通う学園もまた全国区で頂点に立つ学園であった。
彼女は才女であったのだ。
才能に恵まれ、両親にも恵まれ、学力も学園の中では一桁に入るほど頭の良い女の子。
平凡な学生生活を送っていた天野と依子は、周囲からは『釣り合わない』と評価されてすらいたが、彼女達を取巻く関係に皹が入る事は無かった。
やがて月日が経過し年が明けると、一部の学生達に進路の選択を迫られる時期が訪れた。
依子もその中の一人であった。
彼女の通う学校は進学校である。
中でも随一頭の良い依子は、全国で最難関と評されている大学に進学する予定であったのだが、彼女を取巻く関係がそれを変化させた。
依子は彼と同じ大学に通いたいと思うようになり始め、その事を母親に打ち明けたりもした。
「──お母さん、どうしよう……私、学校の成績が下がっちゃった。彼氏が出来たの。とても良い人! 優しくて、格好良くて……凄く心が通じてる気がするの」
まるで春が訪れたかのような告白を聞いた彼女の母は、我が事のように喜んだ。
次に依子は進路を変更したいという事も母に告げ、彼女の母は『おまえの好きなようにしなさい』と優しく諭した。
しかし、それを快く思わなかった人物がいた。
彼女の父親である。
彼女の父は全国でも屈指の大手企業に勤めており、支社で役員を務めている立場であった。体裁こそ普通のサラリーマンであったが、内に秘めている誇りは他の誰よりも突き抜けていた。
父親が依子の告白を聞いた時、感情を露わにしなかったものの、心の中で激昂していた。
それは他の誰でもない、娘を誑かす"天野"という男に対してである。
娘を溺愛していた父親の取った行動は、"娘を男から守る"であった。
──娘が傷付けられる事だけは避けなくてはならない。
──娘が致命的な心の傷を負う事だけは避けなくてはならない。
ただ、それだけであった。
彼女の父親は貧民街に佇む小さな事務所を訪れた。
事務所の看板には大きな字で"私立探偵事務所"と表記されており、錆びた鉄くずやボロボロになった木片などが周囲に散乱している。
「…………良いのかい。あんたみたいな立場の人が、こんな事を」
髪を薄く髭を生やした中年の男が、父親に対してそう質問した。
父親は黙って封筒に入った札束を男に見せつけ、静かに言葉を返す。
「……私があんたらに依頼するのは二つ。『何も質問しない事』、『娘を男から別れさせる事』……ただのそれだけです」
うまくいったらこの倍は払う、と父親が言うと男の目の色が変わり、依頼は快諾された。
父親は考えていた。
この貧民街に住むゴロツキ共に依頼し娘を男から別れさせれば、娘が致命的な心の傷を負う事は無い。
娘が味わうのは"失恋の傷"だけ。世の中の誰もが経験する心の傷、ただのそれだけ。
しかし、彼女の父親はこの"私立探偵"の事を何も知らなかった。
貧民街に位置するという意味を、ゴロツキ達の古くからの仕来りとなっている"仕事のやり方"を。
私立探偵の事務所に居た男は直ぐに動いた。
先ずは娘に近付くという男の身元を調査し、その後に娘についても調査をした。
その結果分かった事があり、男は怒りに打ち震えた。
「────この男ッ! あの時おれに絡んできた男じゃねェか……ッ!」
男は激昂し、近くにあった花瓶を叩き割った。
そう。私立探偵の男は前に居酒屋で依子に絡み、店員の天野に頭を叩かれ気絶させられた中年の男と同一人物なのであった。
男は当時の事を思い出すと込み上げる怒りを抑えきれずに、鉄クズを持ち出して外へと飛び出した。
そして直ぐに男は"仲間達"を召集し、目的の男女に対して接近し、待ち伏せを行った。
真夜中、私立探偵の男は天野の住むアパートの付近で待ち伏せを行っていた事もあり、直ぐに天野と依子を見つけた。
そうして彼女の父親の依頼が決行されるその時、依子は天野に口付けをした。
首の後ろに手を回しこそしたが、控えめの"おやすみなさい"のキス。
その時、待ち伏せしていた男達は動き出した。
黒服に身を包み、マスクや帽子を目深に被り顔が分からぬように変装した男達が数十人。
一斉に天野達に飛び掛ると、私立探偵の男は持ってきていた鉄クズを天野に向けて思い切り殴りつけた。
鈍く骨が砕けるような音がし、血液を撒き散らしながら天野が倒れこむ。
その隙に男達は依子を羽交い絞めにし、拘束する。天野は地べたに這いながらも彼女の名前を叫んでいた。
私立探偵の男は鉄クズを投げ捨て、持ってきていた酒を煽る。
「なっ、なんなのよ、やめてッ!」
依子が羽交い絞めにする男に向けて喉が張り裂けんばかりに叫んだが、その手が解かれる事はない。
「うるせェッ、罰を与える相手はオメェーじゃねェんだよッ! そこの倒れてる糞ガキだよォオッ!」
「やめて離してよッ、この酔っ払いッ!」
依子は男の頬に向けて平手打ちをした。
綺麗に炸裂した平手打ちは男の表情を歪めさせたが、ただのそれだけに終わった。
男が酒を一気に煽り、酒臭い吐息を依子に向けて吐きつける。
「けどよォ、オメェに"罰"を与える前に酔っ払っておくと、やりやすいんだぜェ」
男が仕返しとばかりに、依子の顔に向けて拳を突き出した。
依子は顔面を殴られ、次に腹部を蹴り上げられる。その度に血を吐き出すが、男達は下卑た笑みを浮かべて依子に集う。
「お嬢ちゃんよォ、おれにもチューしてくれよォ」
「へッ、清楚なツラしてこの売女がッ!たっぷり可愛がってやるからよォ!」
「オメーが誰を好きになって誰とキスしようが俺達は構わねーけどよォ、こっちの小便臭せー糞ガキがアホ面引っ下げてのうのうと生きてんのは許されねェーんだよッ!」
倒れ伏す天野に向けて男が唾を吐きかけると、他の黒尽くめの男が足蹴にした。
依子はその様を黙ってみている事が出来ずに、私立探偵の男に向けて握り拳を作り、残った力を振り絞って殴りかかった。
が、その拳は呆気なく止められる。
男は見下すような冷ややかな視線で、涙を流す依子に向けて言葉を吐きつける。
「これはおまえの"父親"からの依頼だよ。おまえら二人に罰を与えろってな……そこの糞ガキの両親もぶち殺してやる予定だぜ」
男の言葉を聞いた依子は、これ以上開かんばかりに目を見開いた。
その表情は驚愕とも、悲壮とも取れない。ただただ、打ち捨てられた人形のような表情をしている。
そして遂に、今まで倒れ伏していた天野が力を振り絞って立ち上がる。
これ以上ないくらいの雄叫びをあげ、私立探偵の男に向けて突貫する。血液を撒き散らしながら、凶器を持つ男達に向かって────
*
────誰が悪いのか。
巡り巡った歯車はやがて奇妙な出会いを引き起こした。
人が人と出会い、自然に恋をする。たったのそれだけ。誰の差し金でもない、自然な生命の形。
しかしそれらが引き起こした出会いは、最悪の事態を招いてしまった。
その後、天野は病院のベッドの上で目覚めた。
全身が酷い激痛を放ち、身動きすらまともに取る事が出来なかった。
両の手の平からだけは不思議と痛みを伴う事がなかったが、数日後に担当医から神経が麻痺していると伝えられた。同時に、二度と趣味である料理を作る事は出来ないとも。
まともに手を動かす事が出来ず、経過が良好になり動かせるようになったとしても、以前のような状態にまで回復するのは厳しいとまで告げられた。
彼はこの事に対して深く絶望した。
これでは大好きな趣味を続ける事も出来ない、と彼の心を暗雲が覆う。
しかし、彼を絶望させたのはこれだけに止まらない。
治療が功を奏し退院するにまで至った時、彼の下に悲報が届く。
彼が心から愛する女性が、自ら命を絶ったという報せであった。
彼女は今まで"行方不明"となっており所在が判明する事がなく、今の今まで捜索が続いていた。
けれども彼女は遺体で発見された。
場所は遠く離れた地域であり、何故そこで発見されたのか、どうして自ら命を絶ったのか、誰もが疑問を持った。
そして彼の下に一通の手紙が届いた。
愛する者が亡くなり悲しみに暮れていた時に舞い込んだ、一通の手紙。
彼は届いた手紙を読むと、力なく腰を降ろした。
手紙には、彼の両親が亡くなった旨が綴られていたのだ。
死因は"焼死"と断定され、実家が謎の火災に襲われた事を知った彼は、ひどく落胆した。
暫くは"誤報だ"と考え込み、何度も何度も実家へ向けて電話をかけたが、それが通じる事はなかった。
母へ向けてメールを送ったりもしたが、返信は一度もない。あの事件の日以来、一度も。
悲しみに暮れていた天野は、遂に学校へ行かなくなった。
元々治療のため長期入院しており進級出来なくなったのもあり、彼は学校に行く気力を完全に失くしてしまった。
大好きだった趣味をする事もできなくなり、ただただ無気力な一日を過ごしていた。
だが彼は一つだけ、たったの一つだけ。心の奥底から燃え上がるような意志を秘めている物事があった。
それは────"復讐"であった。
彼はあの男達に、あの私立探偵の男に対して"絶対に許さない"という強い意志を持ち続けていた。それだけは忘れないように生きていた。
そしてある日、愛する女性の葬儀に立ち会った日。
彼は、彼女の"父親"と顔を合わせた。
彼女の父親は、彼以上に悲しみに暮れた表情をしており、更に彼の顔を見るなり、表情を酷く顰めて搾り出すような声で言葉を放つ。
「────お前のせいだッ……お前さえいなければ……お前さえ娘と出会っていなければッ……こんな事にはならなかったッ」
彼女の父親は絞るようにして言葉を綴る。彼はただ黙ってそれを聞く事しか出来なかった。
「全てお前が悪いんだッ! お前さえこの世にいなければッ! 娘が不幸になる事もなかったのだッ!」
父親は怒鳴り、彼の胸倉を掴みそう言い放つ。
そして湧き上がった怒りが一瞬収まったところで、父親は彼から手を離し、呟くようにして言い放つ。
「ここから出て行け。お前が私の娘の葬儀に立ち会う必要などない……」
「し、しかし……お、俺は……」
彼はやっとの事で声を振り絞ったが、発しようとしたのは言い訳の言葉。
けれど彼の心は謝罪の意や無念の気持ちで満たされており、彼女の父親から罵倒されるとは思っておらず、ひどく心を痛めていた。
何とか、何とかして葬儀だけには立ち会いたい。彼はそう思っていたが、運命がそれを許す事はなかった。
「出て行け、この呪われた人間がッ! お前が死ねば良かったんだッ……何故私の娘が死ななければならないんだっ……どうして私の娘ではなく、この男が生きているんだ……ッ」
遂には彼女の父親は感情が抑えきれず、怒声を上げると同時に涙を流し始める。
そしてその口から言葉が綴られる。
"お前が死ねば良かった"
父親は何度となく繰り返した。
お前が死ねば、お前が死ねば、お前が死ねば良かった────
まるで呪文のように繰り返されるその言葉に、彼は耐え切れずに外へと飛び出した。
そして無我夢中で走り出した。
誰から逃げる訳でもなく、誰かに追われているわけでもなく、兎に角我武者羅に、何も考えずにただ無心で走り出した。
やがて足を止めて彼は地べたに倒れこんだ。
口から吐息し、瞳から涙を流しながら、彼は強く思考していた。
"誰が悪い 俺が悪いのか どうして彼女が死んだ あの男は誰だ 何故、出会ってしまった"
考えても、考えても答えは出てこない。
数時間もの間地に伏せり、彼は涙を流し続けた。そして終点へと至った答えが、一つだけ見つかった。
それは今まで思い続けてきた事の究極形であり、それを具現する行為でもあった。
────殺してやる
彼は静かに、けれど強く。
漆黒の殺意を心に込めて、足に力を込めて立ち上がった。
彼は強く、そして何処までも深く考えていた。
殺してやる、殺してやる。絶対に許さない────と。
そして彼が手にしたのは、溢れんばかりの"強い意志"と今まで趣味で使用していた、"出刃包丁"。
そして標的は、あの男。私立探偵事務所の男であった。
彼は今まで通っていた大学を退学すると、これまで住んでいたアパートの契約も解約した。
未だに返信のない携帯電話から母親に最後のメールを送ると、彼は携帯電話をアパートの自室だった場所に残していった。
そして貧民街へと向けて移動をする。
僅かな情報だけを頼りに、"私立探偵事務所"を探して歩き続ける。
何日も何日も経過し、彼の"漆黒の殺意"は収まるどころか、更に強い意志となって成長していた。
やがて私立探偵事務所に到着すると、時刻は既に深夜となっていた。
近くに街灯の類はなく、月明かりだけが周囲を照らしていた。
しかしその月明かりも暗雲により妨げられ、ふと夜空を見上げると、小さな水の粒が頬に振り落ちた。
謀る様にして振り出した大雨すら、彼は自身を鼓舞する激励だと思い込み、鞄の中に隠していた出刃包丁に手をかける。
狙いはあの時の男、髪の薄い髭面の中年の男。派手な刺青のある男。
彼はじっと耐えて待ち伏せた。
あの事件以来、何もかもを失った彼が恐れるものは何もなかった。無論、彼を止めるような事象すら何もない。
そして事は動き出す。
物語の歯車が静かに合致するのと同時に、彼自身の足も強く、何よりも疾く動き出した。
事務所の扉から出てきたのが、あの中年の男であった。
彼は男の顔を見た瞬間、怒りを通り越した"何か"を感じ、無我夢中で飛び出した。その手には確実に、出刃包丁が握られていた。
「────ッ、なんだてめッ…………ッ!!」
彼の出刃包丁が男の肉体を突き抜けた。
男は激痛に顔を歪め、一歩、二歩と後方へ後ずさった。
「てめェ……あの時バラしてやったのにッ……何で生きてやがるッ!!」
彼は何も言わず、男へと突貫した。
男は抵抗を試みるものの、彼の執念、溢れる若さの力には対抗する事が出来ず、身体を引き裂かれた。
事は呆気なく終了する。
出刃包丁は男の肉を切り裂き、臓器を突き刺して機能的障害を与えた。
彼が出刃包丁を抜くと、男の身体から血液が噴出し、あえぐような悲鳴をあげた。
そして彼は攻勢を止める事無く、次々と刃で応酬する。
──二つ、三つと何度も何度も、男の身体を貫く。
やがて五つ程出刃包丁で身体を突き刺したとき、男は動かなくなった。
四肢は僅かに動いていたが、立ち上がろうとする素振りは見せず、潰れた蛙のように呼吸をするのみであった。
しかし彼はその動きすら鬱陶しく感じたのか、攻勢を緩めなかった。
そして数十分ほど経過した。
周囲は血だまりが出来ており、人間の肉塊が転がっていた。
その場に落ちていたのは、血塗れになった出刃包丁だけであった。
彼は逃げだした。
ふとした瞬間に我に返った彼は、自らの行いを激しく悔いた。
目の前に転がった"人間の肉塊"を見た瞬間、耐え切れずに嘔吐すらした。
そして自身が"ただの犯罪者"に成り下がった事に気付いた時、彼は激しい後悔の念に苛まれる事となった。
────今まで自分のしてきた事は何だったのだろうか。
何故自分は彼女と出会ってしまったのか、どうして人を殺してしまったのか。
考えても考えても、その先の答えに行き着く事はなかった。
あまり動かない手や、返り血で血塗れになった衣服のまま、彼は街に出た。
幸いにも深夜の為に人はあまりおらず、遠くからでは返り血を浴びている事すら察知されなかった。
そしてそのまま彼は歩いていると、やがて一つの"踏み切り"の前に到達した。
踏み切りは既に鳴り出しており、赤い警報機が点灯し、サイレンが鳴っていた。
都会に生きていた彼は、ふと思った。
この電車に飛び込めば、どれ程楽になるだろうか。
いっその事、死んでしまいたい。
このまま罪を背負って生きるくらいならば、いっその事────
刹那、彼は設置されている遮断機の"内側へ"と侵入していた。
そして迫り来る電車に向けて身体を向ける。その表情はまるで壊れた人形のような、感情を失っている様であった。
彼を諌める通行人は何人も居た。
けれど、彼の耳にその言葉が入る事はなかった。
彼は静かに夜空を見上げた。
暗雲だらけで、ひどい天気であった。
今思えば、これまで何一つ不自由なく生きてきていた。
しかし、ある一つの事件により、その全てが台無しになってしまった。
電車が間近に迫った時、彼の心は恐怖に染まるどころか、その心にそよ風が吹いていた。
──嗚呼、漸く終わりの時を迎える
愛する人を失い、何もかもを失った
そして復讐に目が眩み、自ら犯罪者に成り下がってしまった
俺は、俺自身を怨んでいる。
そして何よりも、生まれてきたこの世界を怨み続ける────
彼の心には、まるで春が訪れたかのようなそよ風が吹いていた。
そして怨むらくは人ではなく、この世界であると。彼はそう心に刻み、静かに瞳を閉じた。
この物語は決して終焉ではない。
新たなる物語の序曲に過ぎない。
前奏は終わり、間もなく本編が開始する。
そう。
往年の歴史が始まる。
死への狂想曲は、静かに奏でられる────