旅の始まり
今日は、いつもより朝の空気が気持ちよかった。
理由は単純だ。今日は商隊が来る日だからだ。
村の入口の方を見ると、すでに何台もの荷車が並び、人の声や荷物を運ぶ音が絶え間なく響いている。普段は静かなこの村も、今日ばかりは少しだけ賑やかだ。商人たちの大きな声、見慣れない服装、珍しい品物の匂い。全部がいつもと違っていて、それだけで胸が少し高鳴る。
星野君は昨日、シア姉に丸一日つきっきりで何かを教わっていた。僕はてっきり魔術の練習だと思っていたのだけど、どうやら途中から剣の訓練に変わってしまったらしい。シア姉らしいといえばらしい。
だから、商隊が村を出るまでの間に、僕が魔術を教えることになった。
「ごめん、昨日はシア姉が急に魔術の練習から剣の練習に変えちゃって」
そう言うと、星野君は少し困ったように笑いながら答えてくれた。
「ははは、大丈夫だよ。今日もお願いします」
あまり気にしていない様子で、少し安心する。
「うん、今日はちゃんと魔術について教えるね。まずは一番簡単な、水を出すやつからいこうか」
そう言って、僕は見本として手のひらの上に意識を集中させる。魔力を流し、形を整える。すると、ゆっくりと小さな水の玉が空中に浮かび上がった。
「うわー、やっぱ魔法ってすごいな……。でも僕に使えるかな」
星野君は目を輝かせながらそう言った。
そういえば、星野君のいた世界には魔術がなかったって言ってたっけ。だからこそ、余計に驚いているのかもしれない。
「大丈夫だよ。見た感じ、かなり魔力あるし問題ないと思う。むしろ多いくらいかも」
そう言いながら、僕は少し大きめに魔法陣を展開して見せる。初心者でも分かりやすいように、あえて形をはっきりさせた。
「じゃあまずはこれを覚えて……」
説明を続けようとしたところで、星野君が不思議そうな顔をした。
「ごめん、それってどうやって出してるの?」
……ああ、そうか。
魔法陣の出し方が分からないのか。
こればっかりは感覚に近い部分が大きいから、言葉だけで説明するのは難しい。最初は誰でもつまずくところだ。
少し考えてから、僕は別の方法を選ぶことにした。
「じゃあ、詠唱を使おうか。今から言う言葉を、そのまま真似してみて」
星野君が真剣な顔で頷く。
「いい? 『世界の根源よ、我が魔力を大いなる根源の水へと変じよ』」
僕はゆっくりと、はっきりした声で詠唱する。すると、先ほどと同じように、小さな水の玉が現れた。
「こんな感じ。とりあえず“出す”だけなら、これでいけるよ」
星野君は少し緊張した様子で、僕の言葉を繰り返す。
「……『世界の根源よ、我が魔力を大いなる根源の水へと変じよ』」
次の瞬間だった。
ドバァッ!!
僕の目の前で、信じられない光景が広がった。
星野君の周囲から、まるで堰を切ったかのように大量の水が一気に溢れ出したのだ。小さな水の玉どころじゃない。地面を濡らし、周囲に飛び散るほどの勢い。
「え、ちょっ――!?」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
この魔術で、この量はありえない。普通ならせいぜい手のひらサイズ。それが今は、まるで小さな泉みたいになっている。
「星野君、止めて!止めて!」
慌てて叫ぶ。
「ご、ごめん!どうやって止めるの!?」
どうやら止め方を知らないらしい。
まずい、このままだと無駄に魔力を消費するし、周りも水浸しになる。
「『破断せよ』って言って!」
「わ、わかった!『破断せよ』!」
その言葉と同時に、水の流れがピタリと止まった。まるで最初からなかったかのように、静けさが戻る。
……助かった。
僕は思わずその場にへたり込みそうになるのをこらえた。
今のは、明らかにおかしい。
原因を考える。
思いつくのは一つだけ。
加護だ。
しかも普通のものじゃない。魔術か、水に関係する神の加護。
「大丈夫?今の魔術、すごかったけど……体に変な感じとかない?」
そう聞くと、星野君はさっきまでの慌てた様子が嘘みたいに、満面の笑みで答えた。
「すごい!めちゃくちゃすごいよ!僕、こんなの使えたんだ……!ずっと夢見てたんだ、魔法を使うの!」
その様子を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
嬉しそうだ。
本当に嬉しそうだ。
その笑顔につられて、僕も少しだけ笑ってしまう。
「うん……これなら、魔物相手に使っても問題ないと思うよ」
むしろ、強すぎるくらいだ。
その後も、いくつか簡単な魔術を試してもらう。出力はどれも異常だったけど、制御自体はそこまで悪くない。少し教えれば、すぐに実戦レベルになるだろう。
そして、確信する。
「ユウマ君には……魔術の神の加護があるよ。それも、かなり強いタイプの」
そう伝えると、星野君は一瞬ぽかんとしたあと、ゆっくりとその言葉を噛みしめるように繰り返した。
「……魔術の神の、加護……?」
まだ完全には実感がないのか、それでも顔には抑えきれない喜びが浮かんでいた。
そう伝えると、ユウマ君は本当に嬉しそうに笑っていた。
さっきまでの戸惑いなんて、もうどこにもない。まるで子供みたいに、純粋に喜んでいる。
その言葉を聞いて、僕も少しだけ嬉しくなる。
でも同時に、少しだけ不安もあった。
「うん。でも、むやみに人に話さないほうがいいよ」
そう言うと、ユウマ君はきょとんとした顔をする。
「どうして?」
「加護と知られたらそれを利用しようとする人が多いから。」
僕の言葉に、ユウマ君は少しだけ真剣な顔になった。
この世界では、強さはそのまま価値になる。
そして価値があるものは、狙われる。
それは物でも、人でも同じだ。
「そっか……わかった。気をつける」
素直に頷くユウマ君を見て、少し安心する。
この人は、ちゃんと人の話を聞ける。
それだけでも十分だ。
そんな話をしていると、遠くの方から大きな声が聞こえてきた。
「おおーい!もうこっち来てー!」
振り返ると、シア姉が大きく手を振っている。
その周りでは、商隊の人たちが荷物をまとめ始めていた。
もう出発の準備が始まっているらしい。
「行こっか」
「うん」
そうして、ユウマ君との練習は一旦終わり、僕たちは商隊の方へ向かった。
近づくと、さっきよりもさらに慌ただしくなっていた。
荷物を荷車に積み直す人、馬の手綱を整える人、帳簿を確認している人。
それぞれが自分の役割をこなしていて、無駄な動きが一つもない。
村とは違う、外の世界の空気。
それを強く感じる。
「アルトー!」
シア姉がこちらに駆け寄ってくる。
「もう村長がOKもらってるって言ってたから、手伝おー!」
……やっぱりこうなるか。
僕は軽くため息をつきながらも、頷いた。
「わかったよ」
「よーし!じゃあこっち運んで!」
シア姉に言われるまま、木箱を持ち上げる。
思ったよりも重い。
中身は何だろうと思いながら運んでいると、商人の一人がこちらを見て声をかけてきた。
「お、君たちが一緒に行くっていう子か?」
「はい、そうです」
僕が答えると、その人は少し驚いたように僕たちを見た。
「若いな……大丈夫か?」
その言葉に、シア姉がすぐに割り込む。
「大丈夫大丈夫!あたし強いから!」
胸を張って言うシア姉に、商人は苦笑いを浮かべた。
「はは……頼もしいな」
そのやり取りを見ながら、ユウマ君は少しだけ緊張しているようだった。
まあ、無理もない。
知らない人ばかりだし、これから村の外に出るんだから。
「大丈夫?」
小声でそう聞くと、ユウマ君は少しだけ笑った。
「うん……ちょっと緊張してるけど、大丈夫」
その言葉に、僕は頷く。
「すぐ慣れるよ」
たぶん。
そう思いながらも、心の中では同じくらい自分にも言い聞かせていた。
作業は思ったよりも早く進んだ。
人手が多いこともあって、荷物は次々と積み込まれていく。
そして――
「よし、出るぞー!」
誰かの声が響いた。
その瞬間、空気が変わる。
ざわついていた場が、一気に引き締まる。
商人たちはそれぞれの位置につき、馬がゆっくりと動き出す準備をする。
僕はその光景を、少し離れた場所から見ていた。
……いよいよだ。
ここから先は、もう村の外。
今までとは違う世界。
少しだけ怖い。
でも、それ以上に――
楽しみだ。
「アルト!」
シア姉が振り返る。
「行くよ!」
その言葉に、僕は一歩踏み出した。
振り返ると、見慣れた村の景色が広がっている。
「行ってくるねー」
シア姉の声が響く
畑、家、森。
全部が、今までの自分の世界だった場所。
「……」
少しだけ名残惜しい気もする。
でも。
僕は前を向いた。
ユウマ君が隣にいて、シア姉が前にいる。
それだけで、なんとかなる気がした。
こうして僕たちは、村を出た。
新しい世界へと、踏み出したのだった。




