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毒の系譜

義なき正義とその代償

作者: にのまえ
掲載日:2026/01/24

とても身勝手な人たちの話。

 どちらからともなく体を寄せ合い、ふと合わせた視線に照れの混ざった笑みが滲んだ。男は後ろから彼女を閉じ込める腕に優しく力を込め、柔らかな感触に幸福を感じ取っていた。

 肌に残る熱の余韻は甘美な充実をもたらし、何物にも代えがたい「今」を教えてくれる。

 言葉を交わさずとも心が通じ合う沈黙は何よりも心地よく──だからこそ、手放しがたい感情が熱く胸を焼く。

 抱き締める腕の強張りを感じ取った彼女が、そっとその細い指を添えてくすぐったそうに笑う。


「私は大丈夫よ、カシアン」

「……リーナ」


 それが彼女の本心であり、同時に強がりでもあると知っていた。

 男が弱気になれば彼女はいつも明るく励まし、寄り添い、優しく背中を押してくれた。彼女のその献身に男はいつも、彼女への想いを深めていった。


「そうだな。……だけど心配だ。俺が離れている間に、君に言い寄る男が現れるかもしれない」

「ふふ、心配しすぎよ。もしそんな男が現れたとしても、あなたがどれほど素晴らしい恋人か、たっぷり惚気て追い返してやるわ」

「それはぜひ、俺が聞きたいな」


 彼女の言葉に眩しく目を細め、そのままシーツに押し倒す。「きゃっ」という悲鳴が愛らしい。


「今回の帰省には連れて行けないが、次に領地に戻るときは君も一緒だ。家族に紹介したい」

「嬉しい。でも本当にいいのかしら? 私は──」


 卑下する言葉を飲み込ませるように、口を塞ぐ。離れた唇の隙間からこぼれる熱い吐息を感じながら、男は彼女の少しパサついた髪を掬い取った。

 金と時間をかけた貴族令嬢のような艶はない。だが、男にとってはそれすら愛しいものだった。


「問題ない。一代限りだが爵位を賜ることになっている。……男爵では今ほどの贅沢はさせてやれないかもしれないが」


 不安の影を落とした男の頬に、彼女の手が添えられる。男はその手を重ね合わて握り締め、ふっと微笑んだ。


「贅沢なんて望まないわ。あなたがいてくれれば私はそれでいいの」

「そうだな。俺も君がいてくれるならいい」


 幸福を確かめ合うように、二つの影は再び一つとなり溶け合っていく。



 後に振り返れば、この一夜が人生の分岐点だった。



* * *



 執務室にはかたく重苦しい雰囲気が満ちていた。カシアンは己が信頼する侍従が差し出した報告書を前に、椅子に深く体を鎮めた。指先が考えるように机を叩く。


「……よりによってマルシャン領で見つかるとは」


 そう呟く声にはただ苦悩だけが滲んでいた。

 カシアンは重く息を吐き出すと、もう一度内容を確認するように報告書に手を伸ばした。そこには隣領で見つかった、一人の女性の身辺調査の結果がつぶさに記されていた。

 ゆっくりと文字を追いながら、カシアンは込み上げてくるかつての記憶を理性で押し込め続けた。


 ――かつて愛し合った女性の今の姿が、ここにある。


 別離はカシアンが望んだものではなかった。当時はカシアンもただ周囲の状況に押し流されるままで、ようやく落ち着いた頃には彼女は消息不明となっていた。

 彼女宛てに送っていた手紙は、すべて受取人不明で戻ってきた。

 だからカシアンは自分は彼女に捨てられたのだと思い、彼女を思い出のまま忘れることにしたというのに。


 数日前にカシアンの耳に届けられた、不穏の影。

 それを放っておくことはできなかった。

 カシアンは一月後に控えた結婚を経て、ロンジェ侯爵家の次期当主となる。兄が急逝し、彼女が姿を消してから三年。ようやく地盤が整い始めた今、それが崩されることはあってはならない。


 カシアンは報告書の一字一字を丁寧に読み込み、元恋人の現状を把握すると、その顔を上げて静かに控えていたモーリスを見た。

 モーリスも元は兄に仕えていた。そして彼が今も昔も忠誠を誓っているのは次期当主ではなく、ロンジェ家だ。


「このことは父上も知っているのか?」


 返事はない。だが、その沈黙こそが物語っている。

 カシアンは浅く息を吐き、「忘れてくれ」と軽く手を振った。


「予定を空けておいてくれ。片はすぐに着ける」

「かしこまりました」


 恭しく頭を下げたモーリスが部屋から出て行く背中を見送って、こめかみを抑える。いくつものたらればが頭に浮かんでは消えていく。

 どうしてこんなことになったのか、悔いても時間を巻き戻せるわけではない。

 カシアンの両肩にはこの領地の行く末と、未来がかかっている。

 あの頃のようにただ、離れた王都から領主となる兄を支えていけばいいと、重責もなく気楽に過ごせていた頃には戻れない。


 ならばこそ、カシアンは決断を下さなければならなかった。


「……いっそ見つからないでいてくれたらよかったものを」


 かつての恋人に対する呟きは、あまりにも冷たく部屋にしみ込んだ。



 まるで最初から計画していたように、カシアンの予定はすぐに空けられた。

 モーリスと数人の護衛だけを連れて出立の準備をしていると、そこに一人の来客が執事に連れられカシアンのもとを訪れた。


「アイリス嬢……」

「ごきげんよう、カシアン様。今日はお忍びの視察の予定でも入っていたのかしら」


 アイリスの指摘に、カシアンの頬が僅かに紅潮する。

 普段とは違う華美さもない一介の商人風の姿をしているところを彼女に知られてしまうのは、まったくの想定外だった。カシアンは彼女に納得してもらうだけの言い訳を考えようと視線を彷徨わせ、アイリスが現れた時から部屋の端に控えていたモーリスを見て、諦めた。

 カシアンの予定を空けたのはモーリスだ。そこに予定外の婚約者の来訪があるなど、この侍従が把握していないはずがない。

 つまりは父の――ロンジェ侯爵の差し金だ。

 未だ父には認められていないのか。脳裏を掠める兄の姿を緩く追い払い、カシアンはかつては兄の婚約者で、今は自分の婚約者であるアイリスと向き合った。


「君にはすべて片を付けてから話すつもりだったが」


 僅かに言い淀んだ後、カシアンはアイリスにエスコートの手を差し出した。だが、アイリスは笑みを浮かべたまま、やんわりと体を引く。そしてスッと開いた扇子で口元を覆い隠した。

 カシアンは行き場を失くしてしまった手を宙に彷徨わせた後、静かにその腕を下ろした。


「お急ぎなのではありませんか? 積もる話は戻られてからで構いませんわ」

「……そうか。すまない、アイリス嬢。すべては俺の不手際だ。君にはいらぬ心労を与えてしまうが」

「ふふ。これからその憂いを払いに行かれるのでしょう?」


 アイリスの顔には控えめな笑みが浮かんでいる。けれどカシアンを見るその眼差しは、彼を量るように冴え冴えとしている。

 かたく息を飲み込み、拳を固めるとカシアンはただ静かに頷いた。


「その通りだ」

「でしたら、私はあなたの帰りを待つだけですわ。カシアン様が正しい判断を下されると、期待しております」


 屋敷の前でアイリスに見送られ、カシアンは家紋もない馬車にモーリスと共に乗り込んだ。座面は硬く、乗り心地も良いものではない。だが過去の清算のためと思えば、これ以上にふさわしいものはないように思えた。


 ガタガタと揺れ動く道中、馬車の中は静まり返っていた。

 元々カシアンは口数の多いタイプではなく、モーリスもまた自身の立場をよく弁えている。しかし、いつまでも続く沈黙に窓の景色を眺めるだけにも飽き始め、カシアンは懐から報告書を取り出した。もう何度目ともわからないほど読み返したその紙は、繰り返し折り畳んでは開いていたせいでよれ始めていた。


 内容が変わるわけでもない報告書に何度も手を伸ばしてしまうのは、過去への感傷ではない。現在の彼女の様子を知ったことで、かつてのように彼女――リーナに対する愛情が再燃し始めているわけでもない。

 あの頃のような感情でリーナを認識することはできない。

 それを確認するために、現実を目に焼き付けようとしているのかもしれない。


 ただの記憶となった過去と現在を擦り合わせるように、報告書を再度、読み返した後。


「モーリス」


 報告書から顔を上げ、侍従を呼ぶ。


「彼女は王宮に出入りする商家の娘だ。商隊も連れず、平民の女性が一人でマルシャン領まで移動したなど、ありえる話か? それに、お前に託した手紙は宛先不明で戻っていたな。……なぜ、当時はそれを追うことができなかった?」

「配達人が王都に着いた時には彼女はすでに発ち、ご実家からも勘当された後でした」

「……そうか」


 カシアンの目が報告書の一文に留まる。

 ──リーナのもとには二、三歳ほどになる子どもがいた。時期を考えれば合致してしまう。

 女性が結婚もせず、父親もいないままに子どもを産み育てることは、貴族であろうと平民であろうと醜聞にしかならない。何より商人は信用を第一とする。

 リーナは父親について話さなかったのか。……いや、王都でカシアンとリーナを知る者の間では、二人が恋人であることは公然の事実だった。知った上で、リーナの父は店を守るために知らぬ振りを決めたのか。

 それとも、勘当と妊娠は関係のないことなのか。

 報告書から読み取ることのできないものを考えても、時間の無駄だ。それにカシアンにとってリーナは最早、過去の女性だ。彼女の事情を気にしている余裕などない。


「それで、彼女は本当に一人でマルシャン領に向かったのか? 確かに要領はいい女性だったが」

「……カシアン様がご自身でお気づきになられるまで、黙っていた事実があります」


 誰がモーリスを口止めしていたのか、訊ねるまでもなかった。

 カシアンは自嘲めいた笑みを唇に乗せ、続きを促した。


「配達人は私的とはいえ侯爵家からの依頼だったため、当然、行方を追いました。そしてリーナ嬢がとある商隊に紛れ、王都を離れたことが分かりました。──ラポルト商会です。お聞き覚えは?」

「……ある。リーナの実家であるマルチェ商会とも付き合いがあったはずだ。あそこには……ああ。リーナと同じ年頃の息子がいた。……そういうことか」


 苦み走った口元に手を当て、カシアンはそこに深い溜息を落とす。

 裏切られた──とは思わない。

 カシアンの兄エドワードの死と、エドワードの婚約者であったアイリスがそのままカシアンの婚約者となったこと。

 事情を伝え、待っていて欲しいと願った最初の手紙だけはカシアンの手元に戻らなかったこと。

 裏切ったのはカシアンだと、そうリーナに思われても仕方のない状況だ。


「マルチェ商会はしつこくリーナ嬢の行方を尋ねる配達人がロンジェ侯爵家の手の者と分かっても、勘当した娘の行方など知らぬ存ぜぬと言い貫いたそうです。ですが、翌年に王都の店を畳み、国を出ています」


 商人が流通を担っているとはいえ、高位の貴族に目をつけられれば商売も難しくなるだろう。それに、マルチェ商会は一度王宮貴族の横暴に巻き込まれている。そこを解決したのが、当時王宮で財務部の補佐官を務めていたカシアンであり、リーナとの出会いのきっかけでもあマルチェ商会ったのだが。

 因果はどこにあれ、リーナの父が商会ごと国を出たのは苦渋の選択だったにせよ、今となっては賢い判断だったと言わざるを得ない。


「ラポルト商会の商隊も追ったんだろう」

「はい。ですがいくつかの領地を経由しながら移動し、人や物の入れ替わりも起きていましたので、そのどこでリーナ嬢が商隊を離れたのかは不明でした」

「……妊娠していたのなら、出産の準備もあるだろうしな。だが……ああ、そうか。当時は彼女が妊娠していることを知らなかった。健康な女性と思って探していたのなら、どこかで捜索を打ち切ってもおかしくはないな」


 カシアンもまさか、王都を発つ前に過ごしたあの夜に子どもができていたとは思いもしなかった。知っていたら、何を放り出しても王都に──リーナのもとに帰っていたはずだ。

 当時の情報と、今判明している情報を同等に考えてはいけない。報告書の中には、逆算して得られた情報もあるはずだ。


「はい。結果としてリーナ嬢は行方不明となり、手紙は差し戻されました」

「……彼女が身を隠していた場所は突き止めたのか?」

「幼子を抱えての移動となればそれなりに印象に残りやすいですし、足跡を辿ることは可能でしょう」


 モーリスのその話しぶりに現実的なことではないと悟り、カシアンは小さく息を吐いた。どうにも報告書を受け取ってから頭痛が消えない。鈍く痛むこめかみを押さえながら、窓に顔を向ける。そこには精彩を欠いた男の顔が映り込んでいた。

 こちらを見る侍従の顔も映り込んでいることに気付いて、馬車の中に視線を戻す。


「いや、余計な手を出して痕跡を残すのは避けるべきだろう」


 幸いというべきか、カシアンが彼女に捨てられた証拠は手元にある。あの夜を知るのは当事者だけ。……ならば、リーナがカシアンを裏切っていても、いなくても、やりようはある。


「……賢い女性だった。少なくとも俺にはそう見えていた。俺が彼女を変えたのか、それともあれが彼女の本性だったのか……」

「建前と本音が食い違うことなどよくあることです」


 淡々と、しかしどこか含みのある声に、低い笑いが出ていた。


「お前に言われると嫌味にしか聞こえないな」


 モーリスはロンジェ侯爵家に仕える男だ。完璧な侍従として控えてはいるが、その眼差しには常に主人さえ値踏みするような鋭さが潜んでいる。

 本来、彼が仕えるべきだったのは兄のエドワードだった。文武に秀で、次期当主として非の打ちどころがなかった兄。カシアンにとって、兄は超えるべき壁ではなく、生涯を捧げて支えるべき存在だった。

 ──それを失った今、残されたのは予備である自分と、監視者のような侍従だけだ。


「……失礼いたしました」


 モーリスの瞳が微かに揺れた。鉄面皮な彼が見せた、一瞬の動揺。

 それを見たカシアンは、数日ぶりに胸のすくような暗い高揚を味わった。だが、それも一瞬だ。すぐさま泥のような虚しさが喉元までせり上がってくる。


「……いや、すまない。俺もまだ未熟らしい。どうすれば兄上のように振る舞えるのか……。お前には退屈な苦労をかける」

「滅相もございません。カシアン様はカシアン様であられればよろしいのです。……たとえそれが、エドワード様とは異なる道であろうとも。お諫めし、共に行くのが私の役目ですので」

「そうか……」


 深く頭を垂れたモーリスが浮かべた表情を、カシアンが確かめることはできない。

 馬車の中には何度目かの沈黙が降りる。だが宿に到着するまでの間、カシアンが手元の報告書を開くことはなかった。


 辺境の宿屋に一泊した後、翌日の夕刻前にカシアンたちはマルシャン領に入っていた。今回の旅程はロンジェ家の後継としてではなく、身分を隠してのものだ。そこで行うことを考えれば、マルシャン領に滞在する時間は最小限に抑えておきたかった。

 そうして訪れたマルシャン領の宿屋の一室で、カシアンはモーリスからの報告を受けていた。


「確認が取れました。今夜も食堂で働いているようです」

「そうか。では、営業後に向かうとしよう」

「かしこまりました。……お食事は部屋で摂られた方がよいでしょうね。身繕ってまいります」

「ああ、頼んだ。王都では屋台も利用していたから、何でも食べるぞ」

「それは助かります」


 冗談めかして告げたカシアンに、モーリスも慇懃に返して部屋を出て行く。

 あの会話から何か変わったのか、変わらないままなのか。それをカシアンが知ることはできないが、モーリスの家への忠誠だけは信じることができる。なら、それでいいだろう。

 ドアの傍に控える護衛に楽にするよう伝え、カシアンは椅子に深く体を預けた。


 モーリスが抱えて戻ってきた屋台料理を腹に収め、夜の帳が降りてしばらくするとカシアンは外套に身を包み、フードを深く被って顔を隠した。

 マルシャン領は職人の街と呼ばれており、供される食事もなかなかに凝ったものがあった。こんな時でなければ舌鼓を打ちながらどうやってこれを自領に生かせるか、モーリスと検討し合えたものだろう。

 だが現実は作業のように腹に詰めるだけのものだった。


 カシアンは深くフードを被ったモーリスと浅い頷きを交わし、静かに宿屋を抜け出した。通りのどこかでは賑やかな声が遠く聞こえてくるが、朝が早い者も多いせいか、周囲はしんと静まり返っていた。

 足早に歩く音だけが夜風に流れていく。


 そうして辿り着いたのは、活気を消して久しい食堂だった。残る灯りの中に客の姿は見えないが、片付けをしている人影は捉えることができた。

 リーナ、と。

 カシアンが無意識に洩らした呟きは、傍らにいたモーリスだけが聞いていた。


 現実に彼女を目にした時。カシアンは自分の決断が揺らぐことを恐れていた。一度は心から愛していた女性だ。まったくの情さえなくなったと言えば、それは嘘になってしまう。彼女と過ごした日々は懐かしむ過去の記憶となっても、忘れたわけではないのだから。

 報告書にもあった通り、彼女は長かった髪を捨て、やつれたように見えても、別れた当時とまるで変わっていなかった。

 その姿を目に映しても、カシアンの胸中は驚くほど凪いでいた。

 忘れたわけではなくともリーナはすでに過去の存在であり、そして今はカシアンが築き上げた地盤を揺るがしかねない脅威だった。


「おい」


 当初の予定通りに、モーリスが先に立ち、声をかける。

 テーブルを拭いていた女性──リーナが振り返り、入り口に立つ二人連れの男を見つけると警戒を滲ませた。


「……何の用? 見ての通りもう終わったわ。出せる料理なんて何もないわよ」

「ここの主人に用がある。どこだ?」


 モーリスが低く、有無を言わせぬ声で問う。リーナはなおも不躾な視線で二人を値踏みしていたが、モーリスの纏うただならぬ空気に気おされたのか、不承不承といった体で奥へ声をかけに行った。

 さほど待たされることもなくリーナと共に現れた食堂の主人は、その顔を困惑に曇らせていた。


「主人、しばらくこの場とそこの女を借りるぞ」

「は、いえ、しかし……」


 男は困惑を浮かべたまま、数か月前に雇い入れたばかりの従業員の娘と、フードで顔を隠した男たちを見比べた。リーナが無関係を示すように小さく首を振り、男が決断しようとする前に、モーリスが男の手に革袋を押し付ける。

 じゃら、と硬く重い響きが食堂内によく響いた。

 男はぎょっとして手の中の革袋を見下ろし、取り返されまいとするように大事に胸に抱え込んだ。「ウーゴさんっ!?」とリーナの悲鳴のような声が上がる。

 ウーゴ、と呼ばれた男は先ほどまでの心配の色を消し、代わりに今にも舌打ちが聞こえてきそうな疎ましげな顔を見せた。

 その変わりように血の気を引かせるリーナを気にかけることもなく、ウーゴはモーリスに媚びるような笑みを見せる。


「わっ、私は奥で帳簿をつけていたため何も聞こえておりませんし、知りませんので!」


 そう言い残し、ウーゴはドタドタと足音も騒がしく奥へ下がっていく。その途中、通路で心配そうに顔を出していた女に何かを耳打ちすると、女もまたリーナに憎悪の顔を見せ、ウーゴと共に消えて行った。


 その場に残されたリーナが、静寂に小さく体を震わせる。しかしすぐに、睨みつける顔を向けてきた。


「ウーゴさんを脅して何のつもりよ!? 私はアンタたちなんて知らないわ!」


 リーナの叫びが食堂に木霊する。

 ロジェたちが消えた建物の奥でひそりと息を潜め続ける気配を感じ取りながら、カシアンはゆっくりとフードを下ろした。リーナの顔が驚愕に染まっていく様子を見ても、カシアンの胸は何の感慨にも揺れなかった。


「久し振りだな、リーナ」

「カ、シアン……? カシアン! 本当に……!? 驚いたわ、こんなところで会えるなんて! それならそうとどうして先に……、あぁっ、ウーゴさんたちの誤解も解かないと……!」


 感動の再会を果たしたようにリーナの声が弾み、場違いに明るい声が夜の静寂を破るように響き渡る。急いで奥へと駆け出そうとするリーナを先回りしたように、モーリスが通路を塞いでいた。

 リーナはすぐに、縋るようにカシアンを振り向いた。


「ねぇカシアン。この人はあなたの連れなのよね? 説明してあげてちょうだいよ」

「何をだい」

「何って……。そんなの、私があなたの――、あなた、の……」


 まるで三年という年月も感じさせずに振る舞い、饒舌に動いていたリーナの口が勢いを失くす。無理に浮かべようとした笑みはひどく強張り、頬が引き攣っていた。


「ごめんなさい、カシアン。黙ってあなたの前から消えてしまったことは謝るわ。だけど私、どうしてもあなたが貴族のお嬢様と結婚しなければならないことが耐えきれなくて……」

「俺もだ、リーナ。あの頃は君以外の誰かとの結婚なんて考えられなかった。だから君に待っていて欲しいと、そう手紙を送った。だが、手紙は最初の一通以外、すべて俺のもとに返ってきた。必ず君の元へ帰るから不甲斐ない俺を許して欲しいと、そう願った手紙だ」


 頼りないランプの灯りでもわかるほど、リーナの顔が蒼褪め始めていた。……それもそうだ。リーナは最初の一通が届いてすぐに家を、王都を出た。

 生家との縁すら切った彼女には、その後に届くはずだった手紙の存在など知り得るはずがなかった。

 その場に漂う沈黙に自分が責められていることを感じたリーナが、キッとカシアンを睨みつける。


「……だ、って! だって仕方ないじゃない! カシアンのお兄さんが亡くなったのならカシアンが跡を継ぐしかない! だからカシアンはロンジェ侯爵家の跡継ぎになって、お貴族のお嬢様と婚約したんでしょう!? そんな人から待っていてくれ、なんて手紙を受け取っても、そんなの……愛人として迎えに行くとしか読めないわよっ!」


 私は悪くないわ! と、癇癪を起こして叫ぶリーナを、カシアンはずっと冷静な感情のまま眺めていた。しかし彼女の口から「愛人」という言葉が出た瞬間。ぴくりと眉を動かした。

 カシアンがリーナと過ごしてきた日々は、交わし合った想いは、たったそれだけの思い込みで崩れ去ってしまうようなものだったのだ。リーナはカシアンのことを、一途な男ではなく「愛人を作れるような男」だと、そう思っていたのだ。


 貴族の中には、婚姻した相手以外に愛人を持つ者も確かに存在する。それは男女どちらであっても変わりなく、だ。

 しかし表立って連れ合うことはなく、愛人は日陰の存在となり与えられた家に囲われるだけ。どれだけ周囲に隠し通そうとしても人の口に戸は立てられず、当人に隠れて噂は出回る。

 目の前で笑みを交わす相手が、表面は愛妻家を気取りながらその裏で愛人を囲っていることを知っている――なんていうことはざらにある。真実隠すことができている人物など、何人いることか。


 そんな本音と建前が交錯する貴族の高慢を、リーナが相容れないと何度も嘆いていた姿を知っている。その度にリーナは「あなたは違うとわかっているわ、カシアン」と笑んでくれていたが、その笑みの裏で彼女もまた「カシアンも同じだ」と思っていたのだ。


 それは、なんて、悲劇にもならない喜劇だろうか。

 リーナにとってのカシアンとは、恋人ではなく道化師だったのか。


 黙り込んだままのカシアンにリーナが不貞腐れた子どものように顔を背ける。恋人時代にも見かけていたその仕草を見ても、やはりカシアンの腕は動かなかった。以前ならば、すぐに抱き締め、慰めていただろうに。

 そんな感情すら湧き起こらない。


 先に折れ――沈黙の気まずさに耐えきれなくなったのは、リーナだった。

 一歩、カシアンへと近付き、顔を覗き込んでくる。


「あなたを誤解してしまったこと……謝るわ。本当にごめんなさい。だけど、私も混乱していたし、あなたがいなくなって……寂しかったの」

「だから君は家との縁を切られてまで、ラポルト商会の息子と王都を離れたのか?」

「……知っていたの」


 リーナの顔が寂しげに翳る。……生家が国を離れたことも知っているのだろう。

 頼りなげに俯く姿は、事情を知らなければ庇護欲をそそるものだったかもしれない。まだ、カシアンの中にリーナに対する情があれば、慰めの言葉をかけていたかもしれない。


 だが、彼女はこうしてカシアンが過去を調べたことを伝えても、一向にそれを切り出そうとしない。

 リーナにとってはその程度のものなのか。失望と落胆が同時に押し寄せてくる。


「それで、どうしているんだ?」

「え? あ、あぁ……。ティエリとは王都を出た後、二つ目に辿り着いた領地で商隊から降ろしてもらってから会ってないわ。彼とはそういう契約をしていたのよ」


 まるでカシアンが嫉妬することは何もなかったと言わんばかりに、リーナが穏やかに告げる。

 たしかに恋人だった頃。カシアンが監査に追われて寝る間も惜しんでいた間に、リーナがティエリと食事をしていたことに拗ねて見せたことはあったが。だがカシアンもリーナの仕事を理解していないわけではない。同じ商人同士、関わりがあれば夕食を兼ねての情報交換の場も持っただろう。貴族も似たようなものだ。

 だからあれは単に、恋人としての甘えに過ぎなかった。

 リーナとティエリとの関係を本気で疑ったことなど、一度もないというのに。


「違う」


 なぜ否定されたのか分からない顔をするリーナに、カシアンは苛立ちを抑えず切り出した。


「子どもを産んだんだろう?」

「っ、そこまで……」

「俺の子だろう? なぜそれを話してくれないんだ。それとも……俺との子じゃないのか?」


「違うっ!!」


 絶叫に近い叫び。

 血の気が完全に失せた顔でリーナは一瞬顔を歪めると、すぐに笑みを取り繕った。だがその微笑はどこか歪で、これまでの記憶からは想像もできないほど不自然なものだった。

 リーナはカシアンを向いているが、その目はカシアンの背後にある闇を必死に探っていた。まるでそこに、彼女を救う何かがあるように。

 カシアンは目線だけをモーリスに向け、モーリスが小さく首を振って返す。当たり前だ。カシアンの背後には何もないのだから。


「い、いきなり子どもの話をしても、あなたに信じてもらえないかと思ったの。ちゃんとあなたの子よ」

「だろうな。君はその子に、父親は貴族だと話しているんだろう?」

「な……にか間違ってる? あの子、ノーランは間違いなくあなたとの子。産んだ私が言うのだから間違いないわ。そう……そうよ。それであなたは私たちを迎えに来てくれたのね! 嫌だわ。それならそうと言ってくれればよかったのに。あなたって意地悪だったのね」

「どうして俺が君たちを迎えに来たと思うんだ? 俺は結婚を控えた身だ。それはどうあがいてももう覆らない。君だって貴族の愛人になるのは嫌なのだろう?」


 カシアンの言葉に、リーナの肩がびくりと跳ねた。侮辱されたという怒りよりも、何か想定外の出来事が起きて困惑しているように瞳が大きく見開かれている。ただ開閉を繰り返し空気を吐き出すだけの唇が、拒絶ではない何かを主張しようとわなないている。

 やがてその何かを諦めるように息を吐いたリーナが、殊更不思議そうに首を傾げた。

 カシアンはリーナのその幼げな仕草に、目の前の彼女が自分の知るリーナではない何かになってしまったような、そんな気配にゾッと背中を震わせた。


「何を言っているの? あなたは私を迎えに来たのよ……? だから、わざわざ私を探して、見つけてくれたんでしょう? 嬉しい、カシアン。私もずっと、あなたを待っていたの」


 まるでつい先ほどのカシアンの言葉など聞こえていなかったように、リーナが幸せそうに微笑む。

 だがそう思っているのは彼女だけだ。浮かべられた笑みはぎこちなく強張り、一歩、また一歩と距離を詰めてくる足取りはふらつき、それでいて妙な必死さがあった。

 眉を顰めるカシアンのことにも、気付く様子もない。


 カシアンは苛立つ感情を抑え込むように、ゆっくりと息を吐いた。


「違う。君は俺を待っていてはくれなかった。今回君を探すことになったのも、迎えに来るためじゃない」


 リーナの目がほんの僅か、見開かれた。そしてそっと悲しげに伏せられる。


「……だって王都にはあなたとの思い出が溢れすぎているんだもの。あのまま居続ければ私はきっとおかしくなってしまっていたわ。だから……仕方がなかったの。でも、私の心はずっとあなただけのものよ……!」

「だったらなぜ、君は最近になってこのマルシャン領に移住してきたんだ?」

「それは……」

「仮にも商人の娘だ。ロンジェ侯爵家とマルシャン伯爵家、そしてゴベール侯爵家。三家の繋がりを見れば、自分がどこにいれば俺が必ず現れるか、簡単に予測がついたんじゃないか? 実に商人らしい、打算的な判断だ」


 そこにあるのは称賛などではなく、侮蔑だということが理解できたのだろう。リーナの顔が悔しげに大きく歪んだ。唇を噛むその姿は、紛れもなく策謀が読まれてしまった者の顔だった。もっとも、それを表に出すのは商人としては未熟な証で、貴族の中に入れば嘲笑われてしまうものだが。


「違う……、違うわ。本当はあなたの近くに行きたかった。だけどノーランのことが知られれば、あなたに迷惑がかかるかもしれないと……。だからここを選んだのよ。少しでもあなたの傍にいたくて……、本当よ。信じて、カシアン」

「君は知らないのか? いいや、知らないはずはない」

「な……んのこと?」

「マルチェ商会の商会主の娘と、王宮の役人とのロマンスだ。俺たちの間に疚しいものは何もなかった。確かに身分差はあったが、それも俺が家を出れば関係なくなる話だった。だから俺たちは隠れて付き合うこともなく、隠されることもなく人の口に乗り、商人の一部の間でも知られた話だった。……そうだ。ロンジェ領とマルシャン領にも出入りする商人の耳に入るほどにな」


 密やかに語られていたロマンスは、けれど相手男性に意図せず降って湧いた家督継承の話と婚約話に、悲恋へと成り代わった。その後しばらくして相手女性も消えたとなれば、人々は好き勝手に噂をした。

 幸いだったのは、当人のどちらにも瑕疵がなかったことだ。悲劇的な別れという結末を迎えた恋人たちに周囲は同情的に語り合い、それから少しして王都で連続不審火という事件が発生すれば、他人の色恋を噂する余裕もなくなっていた。


 当人たちは王都を離れ、女性の生家もいつの間にかいなくなっている。

 悲劇の恋人たちの話はそれで収束したはずだったのだ。

 ロンジェ侯爵家が贔屓にする商人が、マルシャン領で悲劇の恋人と語られた女性と同じ名をしたリーナという女性の存在を知り、未婚の彼女が貴族の子を産んだという噂を聞くまでは。


「その商人は噂を安易に鵜呑みにし、結び付けてはいけないと慎重に動いてくれた。そして確信を得てから、ロンジェ侯爵家に極秘に問い合わせてくれたんだ。――この食堂で働くリーナと自称する女性が、密かに悲劇の恋人を騙り、ロンジェ侯爵家の隠し子という子どもを育てている、とね」

「騙ってなんかないわ! それは私よ! ――ッ!」


 怒鳴るように叫び、すぐにハッとしてリーナが口を押さえる。

 それだけでもう十分だった。


「ち、が……、そんな、こんなつもりじゃなかった……。こんなことになるためにあの子を産んだんじゃないッ! だって……、だって、カシアンは私を愛してくれているんでしょう!? あなたの息子だっているのよ!」


 カシアンが突き付ける現実を否定するようにリーナが大きく腕を振り、どこか焦点の合わない瞳でカシアンを見つめ続ける。

 その顔に浮かべられた表情は無理に笑っているようでもあり、泣いているようでもあり。

 もはやリーナ自身ですら、自分が何を言っているのか理解できていない様子だった。


「私は何も間違えてないわ……」


 静かなその呟きに、それまで静観を続けていたモーリスが僅かに眉を動かす様子が見えた。

 カシアンは錯乱した様子のリーナから距離を取るように一歩下がり、視線を逸らさずに口を開いた。


「君も貴族の血がどういうものか、理解しているだろう。それは決して安易に扱っていいものではない。君は、君が間違えていないと信じる選択のせいで、自分の子どもの運命も決めてしまったんだ」

「……ど、いう……。――嫌よッ! ノーランは関係ないっ。あの子は何も関係ないじゃない!!」


 半ば呆然とした様子を見せていたリーナが、次の瞬間には弾かれたようにその顔に生気を取り戻し、カシアンに縋りついてくる。だが、その指がカシアンのシャツを掴む間際、外で待機していた護衛たちがなだれ込み、リーナの体を木張りの床に組み伏した。


「大丈夫ですか、カシアン様」

「ああ、問題ない」


 傍へと移動してきたモーリスに応えながら、カシアンはその冷めた目で床に這うリーナを見下ろした。


「貴族と関わるということは、こういうことだ。今の君は商家の娘でも、侯爵家次男の恋人でもない。ただの平民だ」

「カシアン……」

「この場での無礼な振る舞いは俺の過去の不始末と相殺としよう。……連れて行け」

「ちょ、っと! 離しなさいよ、離して! カシアンっ。お願い私の話を聞いて! カシア――!」


 手荒な腕に起こされたリーナが、そのまま引きずるように食堂から連れ出されていく。叫ぶ声は途中からくぐもった呻きに代わりながら遠ざかり、やがてカシアンの耳にも届かなくなる。

 外の通りでは、騒ぎを確かめに顔を出し、声をかける者は誰もいなかった。誰も彼も厄介事には関わりたくないのだ。それが彼ら平民たちの処世術でもある。


「ノーランの回収は任せる。どこまで吹き込んでいるかは知らないが、俺は顔を見せない方がいいだろう」

「それがよろしいかと」


 慇懃に頭を下げるモーリスを眺め、カシアンは手近の椅子を引いて腰を下ろした。

 深く息を吐き出し、凝ってしまった首を軽く鳴らす。


「これからだな」


 今はまだ過去の負債を回収したに過ぎない。

 カシアンが対処しなければならないことはまだいくつも残っている。


 椅子に体を預け思考に耽るように目を閉じると、それまで纏わりつくようにあった頭痛が消えていることに気付いた。



* * *



 その日、カシアンはゴベール侯爵家を訪れていた。

 季節の草花に彩られた庭園を眺めながら、のんびりと婚約者との時間を過ごす。それは煩雑なことが多い王都での暮らしとは異なるものだった。

 最初の頃はその違いに慣れなかったものだが、今は違う。


 カシアンはアイリスが話す紅茶の種類や産地についての話題に耳を傾けつつ、ふっと笑うように息をこぼした。


「カシアン様……?」

「いや、すまない。アイリス嬢。ようやく日常が戻って来たのだと思ってな。……婚儀の準備で慌ただしい中、君にも迷惑をかけてしまった」

「構いませんわ。慌ただしくしているのは周囲ばかりで、私は退屈しておりましたもの」


 音もなくカップをソーサーに戻す所作に目を奪われていたことを自覚して、カシアンは慌てて視線を庭園に向けた。


「あぁ、そうだ。君にも報告をと思ったのだが」

「えぇ」


 穏やかに微笑み、促すアイリスにカシアンは軽い咳払いの後、話し始めた。

 アイリスの膝の上に置かれた手が、きつく扇子を握り締めていることにカシアンが気付くことはなかった。離れた場所に控える侍女たちの中に、カシアン自身には気付かれないようにそっと、きつく睨み据える者がいたことにも。


 カシアンがまず触れたのは、リーナとノーラン母子についてだった。

 あの夜以降、すっかり正気を失ってしまったリーナは、その療養のために東の修道院へ入れられることとなった。そこはリーナと同じように様々な事情により、会話すらままならなくなってしまった者たちの終の棲家と呼ばれる場所だった。

 リーナも彼らと同じく、死を迎えてなお、修道院の敷地から出ることは許されていない。リーナは生涯をそこで過ごすことになる。

 だが、リーナが誰の子とも知れぬ子を高位貴族の子だと詐称し、侮辱した行いに対する罪の対価としては、慈悲のあるものだ。平民が貴族を謀れば、その場で斬り殺されても文句は言えない。


 一方ノーランについては、ゴベール侯爵家の遠戚となる家に養子として迎えられることになった。それから先どうなるかは、ノーラン次第だ。だが、彼が真実カシアンの子であると名乗れることはない。彼はゴベール侯爵家が見つけた身寄りのない孤児として、遠戚家に送られた。

 適切な時期に子を成さぬよう処理され、いたずらにロンジェ侯爵家の血が流出することもない。使える者に育てば使われ、そうでなければ……。


 子の将来を憂うというよりも、将来の危機を未然に防いだ安堵にカシアンは息をこぼし、喉を潤すように紅茶を飲み干した。すぐに、モーリスが新たに淹れ直してくれる。

 カップの中で揺れる水面をぼんやりと眺め、カシアンはアイリスに軽く頭を下げた。


「君の助言のお陰でマルシャン家とも穏便に片がついた。感謝する」

「おやめくださいな、カシアン様。私はほんの少し囁いただけにすぎませんもの」


 そう言って浮かべられる控えめな笑みに、カシアンは緩く肩の力を抜いた。相変わらずカシアンを見るアイリスの目は冴え冴えとしているが、リーナという狂気を見てしまった後のせいか。可愛らしいもののように見えてくる。


 マルシャン伯爵は静観の構えを続けていたが、かといって放置することもできなかった。自分の領内で、他領の跡継ぎに騒ぎを起こされたのだ。内々に片を付けたといえ、ウーゴを始めあの食堂に通っていた者はリーナという女性の存在を知っている。

 ウーゴ夫妻には口止め料を渡しているが、身分も怪しい者を庇う理由は彼らにはない。

 下手に捜索され、カシアンとの関係を探られる前に、マルシャン伯爵に話を通しておく必要があった。無論、すべての事情を馬鹿正直に話すわけではない。

 カシアンの慶事を理由に、数年間の通行税の引き下げと、一部の希少鉱石の独占流通権を渡すことで話はまとまっている。その後は予定通り、徐々に取引をゴベール侯爵家に段階的に移行させ、完了と共にマルシャン伯爵家はゴベール侯爵家の下請けとして組み込まれる。


 多少の損失とスキャンダルの露呈とを比べれば、どちらが浅い傷で済むか。

 モーリスの現実的な助言と、アイリスの慈悲深さがなければ辿りつきもしなかった案だ。王都で財務を学んでいたとはいえ、領地経営はまた別物であると深く身に染みた出来事だった。

 だが、これからもカシアンは見極めを繰り返しながら、領地を守り、富ませていかなければならない。


 カシアンの目が、ふと遠くを追うように彷徨った。


「カシアン様?」

「今回の件を片付けながら、ふと兄上のことを思ったんだ。……あの日、あの視察の朝に兄上の馬が不調を訴えていなければ。俺が自分の馬を譲らなければ。そうであったらあの時事故に遭っていたのは……」


 カチャン、と。

 微かに食器の触れ合う音に、カシアンは遠い過去から現実へと目を移す。ティーカップを握るアイリスの手が微かに小刻みに震え、音を立てていた。


「……アイリス嬢?」


 その頬は、陽光に照らされているというのに死人のように蒼白だった。カシアンはすぐに己の無神経さを恥じた。

 アイリスは元々はエドワードと婚約を結んでいた。

 エドワードとも政略の関係ではあったが、兄からの話を聞く限りでは二人の間には信頼関係が築かれていた。そんな信頼する相手を死に追いやった皮肉な運命を聞かされ、耐えられるはずがない。

 あるいは、アイリスはただの落馬事故とだけ知らされ、馬の交代を知らなかったのかもしれない。


「すまない、アイリス嬢。俺が無神経だった」

「……いいえ。カシアン様のせいではありませんわ。今も、当時も。カシアン様に非などありません」


 震える声を必死に抑え、令嬢としての仮面を被り完璧に微笑むアイリスの姿に、カシアンは席を立つと静かに彼女の足元に跪いた。そっと掬い取った手は滑らかで、だが、指先まで冷え切っていた。

 冷えた指を温めるように両手で包み込みながら、カシアンは誓う。


「君は俺にはもったいないほどの人だ。しかしどうか、俺が貴方の隣に立つことを認めて欲しい」


 ……当時は、リーナの少しパサついた髪も、丁寧ではあるがそれだけでもある所作にも愛おしさを覚えていたが、生まれた時から貴族令嬢として育てられてきたアイリスを前にすれば、それらは簡単に霞んでしまう。

 あの頃のカシアンは初めての恋に浮かれた道化師だった。

 本物に触れ、感性を養い直せば、路傍の花を愛でる滑稽な笑い者だった過去に身を捩りたくなる。

 あんな本性を持つ女の血を、危うくロンジェ侯爵家に連ねるところだったのだ。


 アイリスは小さく震わせた唇を引き結ぶと、一呼吸を置いて穏やかに微笑んだ。


「……本当に、あなたは私には過ぎた方ですわ」

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