凍てつく日記
テレビの青白い光だけが、薄暗い部屋の輪郭を縁取っていた。
画面の中では、司会者が深刻な顔で、現代社会に蔓延る病理について言葉を並べている。
《いじめ動画の拡散が相次いでいます》
《問題視されていますが——そもそも、いじめそのものを減らさなければ根本的な解決にはなりません》
「最近、多いな。こういうニュース」
誰に言うでもなく、蛍は呟いた。画面の中の正論は、かつて助けを求めた者の耳には届かず、ただ空虚に響くだけだ。
場面は、夜の静寂へと切り替わる。
仕事帰りのマンション。天は、ドアポストの隙間に、場違いな白さが挟まっていることに気づいた。
差出人のない封筒。中には、簡素な地図と一枚の紙。
『——◯◯道場にて、お待ちしております。紙谷学』
天はしばらくその名を見つめ、感情を読み取らせない瞳のまま、紙を静かに折りたたんだ。
約束の日。
道場の重い扉を開けると、張り詰めた空気の中央に、紙谷学が正座していた。
彼の前には、二振りの真剣。
「お待ちしておりました。どうぞ、そちらへ」
天は促されるまま、もう一振りの前に腰を下ろした。
障子の隙間から、冷たい雪の匂いが微かに入り込んでいる。
「きっかけは、空ではありません。本当にどうでもいいような、些細な出来事でした」
学は、畳の目を見つめたまま語り始める。
「私たちは、ある一人を『存在しないもの』として扱いました。話しかけない。目を合わせない。それだけで、人は簡単に一人になる」
静寂が、雪の音を強調する。
「そんな中、空だけは止めに入りました。……それが原因で、空が次に一人になった。私たちは空を外に出した。存在しないものとして扱った。それで、終わるはずだった」
学の視線が、天を射抜く。
「だが、連中は違った。白山、埜上、志鷹……。あいつらが加わったことで、無視では済まなくなった。私は止められなかった。……いや、止めなかった。空の隣に立つ勇気が、私にはなかった」
指先が震え、畳を掴む。
「全ては、私が原因です……」
天は何も言わない。その沈黙は、肯定よりも深く重い。
「風の噂で、白山が死んだと聞きました。数ヶ月後には埜上も消えた。……これが偶然ではないのなら、次は志鷹だ。私は長い年月をかけて待ち、そして、あなたを見つけた。あの日の出来事に、終止符を打つために」
次の瞬間、空気が弾けた。
畳を踏み込む鋭い音。学が刀を抜き、天へ迫る。
火花が散る。天は受ける。かわす。下がる。
真剣同士が削り合う不気味な音が、道場に響き渡る。
数合の打ち合いの末、天はあえて一歩踏み込み、左腕を差し出した。
肉を断つ鈍い衝撃。
白木のような腕に赤が走り、畳に血が落ちる。
その隙を、天は見逃さなかった。学の懐へ深く入り込み、鋭い切っ先をその喉元に突きつける。
静寂。屋根を打つ雪の音だけが、世界のすべてになった。
「…………」
学は、静かに目を閉じた。覚悟していた最期を受け入れるように。
だが、天が取り出したのは刃ではなく、一冊の古いノートだった。
「これを見ろ」
学の手が震えながら日記をめくる。
綴られたいじめの記録。削られていく弟の命。
だが、天は「初めの方を見ろ」と低く告げた。
そこには、10年前の純粋な日常があった。兄と笑い合った旅の記憶。
そして、ページをめくる手が止まる。
空が描いた拙い絵。その隣には、学の名前があった。
『今日は学くんと遊んだ。……僕の一番の親友だ』
学の視界が、瞬く間に滲んでいく。
道場に響くのは、もはや刃の音ではなく、一人の男の壊れたような啜り泣きだけだった。
天は何も言わず、立ち上がった。背を向け、出口へと歩き出す。
その時。
背後で、畳を擦る微かな音。
そして、肉の深くまで刃が沈み込む、鈍い音が響いた。
天が振り返ると、学は自らの胸に刃を立てていた。その手は、もう震えていなかった。
血が静かに広がり、雪がすべての音を奪っていく。
天は歩み寄り、自分が着ていたコートを脱いで、静かに学の骸にかけた。
しばらくの間、彫像のように立ち尽くす。
やがて、踵を返した。
扉を開けると、そこには無慈悲なほど白い世界が広がっていた。
天の刻む足跡は、降り積もる雪にすぐさま飲み込まれていく。
雪は、音を奪う。
まるで、最初から何もなかったかのように。
読んでくださりありがとうございました。




