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止まらない教室


 第四章から三年後。


 梅雨の湿った空気が、教室の隅々にまで溜まっていた。

 窓は閉め切られ、換気扇の低い音だけが、絶え間なく耳に残る。


 白い壁には、拭っても消えない黒ずみがあり、

 机の脚には、いつ付いたのか分からない傷が幾重にも刻まれている。


 雨粒が窓を叩くたび、教室の空気は、わずかに重さを増した。


 古賀透吾(こがとうご)は教卓の前に立ち、無意識に教室を見渡す。


 「今日は、紹介したい人がいます」


 透吾の声は、雨音に溶けることなく教室に落ちた。


 透吾はそう言って、教室の扉の方へ視線を向けた。


 がらり、と音を立てて扉が開く。


 「今日からしばらく、このクラスで教育実習をすることになった遠野天(とおのそら)です」


 一瞬。

 教室の空気が、わずかに揺れた。


 それは誰かがざわついたわけでも、

 声を上げたわけでもない。

 ただ、ほんの一拍だけ、間が空いた。


 透吾自身も、その違和感をはっきりとは掴めなかった。

 名前を口にしたあと、胸の奥に引っかかるような感覚が残っただけだ。


 ——気のせいだ。


 教室のあちこちから、小さな反応が返る。


 「はーい」

 「よろしくお願いしまーす」


 無関心と形式的な礼儀が混ざった空気。


 天は軽く微笑み、教室を一度だけ見渡した。

 その視線は誰か一人に留まることなく、均等に流れていった。


 授業は、問題もなく進んでいった。


 天は教室の後方に立ち、ノートを取りながら静かに板書を追っている。

 質問を振られることもなく、必要以上に口を挟むこともない。

 実習生としては、ごく無難で、模範的な態度だった。


 透吾は授業を続けながら、時折、教室全体に視線を巡らせる。

 騒がしい生徒はいない。

 露骨に授業を妨害する者もいない。


 ――それでも、どこか落ち着かなかった。


 梅雨の湿気のせいだけではない。

 教室の空気が、微妙に歪んでいる。


 数列の問題を黒板に書きながら、透吾は一瞬だけ視線を落とした。


 若草千春(わかくさちはる)は、窓際の席で黙々とノートを取っていた。

 背筋を伸ばし、前を向き、表情は淡々としている。

 教師から見れば、何ら真面目で問題のない生徒だ。


 だが。


 机の下で、彼女のスマホが一度だけ震えた。

 千春はそれを見ない。

 通知が来たことを知っていながら、何事もなかったようにペンを動かし続ける。


 数分後、また震える。

 それでも、彼女は無視を貫いた。


 休み時間。


 教室のあちこちで、生徒たちはスマホを覗き込み、笑ったり、顔を寄せ合ったりしている。

 千春の周囲だけ、妙に距離があった。


 「ねえ、見た?」

 「やばくない?」

 「さすがに引くんだけど」


 ひそひそ声は、決して千春に直接向けられていない。

 だが、視線だけが、何度も彼女の背中を刺していた。


 千春はそれに気づいていないふりをする。

 椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めている。

 雨に濡れた校庭には、誰もいない。


 天は、教室の隅でその光景を見ていた。


 午後の授業は、滞りなく終わった。


 終礼を告げると、生徒たちは椅子を鳴らしながら立ち上がり、それぞれ帰り支度を始める。


 「若草」


 透吾は、教卓の前から静かに声をかけた。


 「悪いが、少しだけ残ってもらえるか」


 教室がざわつく前に、透吾はすぐに言葉を添える。


 「プリントの件だ。すぐ終わる」


 千春は一瞬だけこちらを見たが、特に驚いた様子も見せず、軽く頷いた。


 「はい」


 生徒たちが次々と教室を出ていく。

 天も、透吾に目配せすると、他の生徒に紛れるように廊下へ出た。


 やがて、教室には二人きりの静けさが落ちる。


 雨音だけが、窓の向こうで続いていた。


 透吾は千春の机の前ではなく、少し距離を取った位置に立った。


 「最近、何か困っていることはないか」


 声は低く、穏やかだった。


 千春は椅子に座ったまま、透吾を見上げる。

 少しだけ首を傾げる仕草。


 「別に」


 短く、きっぱりとした声。


 「大丈夫です」


 透吾は、すぐに言葉を重ねなかった。

 

 「……何かあったら、いつでも相談してくれていいからな。

 それだけは覚えておいてくれ」


 千春は一瞬、目を伏せたが、すぐに視線を戻した。


 「はい」


 透吾はそれ以上、踏み込むことはできなかった。


 教室の扉が閉まる音が、遅れて響いた。


 千春と透吾が廊下へ出ていったあと、教室には誰もいなくなったはずだった。


 天は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 雨音と、換気扇の低い唸りだけが残る。


 やがて、ゆっくりと教壇の前へ歩み出る。


 黒板の上。

 教室の隅々まで見渡せる位置。


 天は、一度だけ天井を見上げた。


 表情は変わらない。

 焦りも、ためらいもない。

 ただ、確認するような視線だった。


 そのとき。


 がらり、と扉が開く。


 「……あ、あれ」


 振り返ると、別のクラスの男子生徒が、廊下から顔を覗かせていた。


 「古賀先生いませんでした?」


 天は一瞬だけ瞬きをし、すぐに穏やかな表情を作る。


 「古賀先生なら、さっき用事で出られたよ」


 「そっか……何してたんですか?」


 天は何でもないことのように、天井を指差した。

 「照明の調子が悪いと聞いてね。少し見てほしいと頼まれたんだ。でも、問題なさそうだったよ」


 「あー、なるほど。じゃあ探してきます」


 生徒が立ち去り、再び静寂が訪れる。

 天は最後にもう一度、誰もいない席、濡れた窓、何も語らない空間を見渡すと、静かに教室を後にした。


 夜の校舎は、昼間とは別の顔を見せる。

 

 職員室の一角。透吾は、翌日の授業で配るプリントの束をホッチキスで留めながら、隣の天に指示を出していた。


 「……このプリントの右下、余白をもう少し取っておいてくれますか。計算スペースは広い方がいいので」

 

 「分かりました。調整します」

 

 天は慣れた手つきでプリントを揃えていく。二十八歳という年齢のせいか、その所作には実習生とは思えない落ち着きがあった。


 「古賀先生」


 不意に天が顔を上げた。


 「……指導教官としてではなく、先輩として、聞いてもいいですか」


 「なんですか?」

 

 「……どうして、教師になろうと思ったんですか」


 透吾はプリントを置いた。開いたままの指先がわずかに震える。


 「中学の頃、いじめられていた私を助けてくれた子がいました。でも、彼が私の代わりに標的になったとき、僕は怖くて動けなかった。彼が壊れて、消えていくのを……私はただ、見ることしかできなかったんです」


 天はホッチキスを打つ手を止め、黙って聞いている。


 「だから、自分を許せないまま教師になりました。二度と『見ないふりをする大人』にはならないと決めたんです。……でも、今の自分を見ていると、結局何も変わっていないんじゃないかと怖くなります。私はまた、同じ過ちを繰り返すんじゃないかって」


 天は黙って聞いていた。遮ることも、相槌を打つこともなく。

 

 透吾がふいに口を開く。


 「遠野さん、君が来た初日、少し驚いたんだ。名前が、昔知っていた子と同じだったから」

 

 天の表情が、一瞬だけ静止する。


 「その子の名前も、そらだった。雰囲気も、少し君に似ている気もして……」

 

 「……そう、ですか」


 天はわずかに笑った。


 「偶然、ですね」


 その声は、どこまでも穏やかな実習生のものだった。


 天の実習最終日。

 雨は上がっていたが、窓にはまだ湿った景色が滲んでいた。一人で昇降口へ向かう千春の背中に、天が声をかける。


 「若草さん」


 千春は足を止め、振り返った。


 「今日が最終日ですね」

 千春が先に口を開いた。天は小さく頷き、彼女の隣まで歩み寄る。


 「はい。……少しだけ、話しませんか」


 「別に、いいですよ。どうせ最後ですし」

 千春は肩をすくめ、視線を昇降口の向こう、まだ濡れているアスファルトに向けた。


 並んで歩き出す二人の間に、静かな空気が流れる。


 「若草さんは、強いですね」


 天の不意な言葉に、千春は眉をひそめて鼻で笑った。


 「……そんなことないです。強がってるだけだって、自分でも分かってますから」


 突き放すような物言いを、天は優しく受け止めた。


 「うん、そうかもしれない。でも、『強がり』を貫き通せるのも、一種の強さだと思いますよ」


 慰めでも励ましでもない、どこか自分を俯瞰しているような独特の視線。


 「……僕には、兄弟がいました」


 天の声が、少しだけ低くなる。


 「もう、いません。あの子は……一度だけ、僕に助けを求めようとしたことがありました。でも、当時の僕は自分のことで手一杯で、あの子の声を突き放してしまったんです」


 千春の歩みが、わずかに遅くなる。天の横顔には、実習生としての笑みはもうなかった。


 「……あの子が死んだのは、そのすぐ後でした。僕が一度、あの子の手を握ってさえいれば、未来は変わっていたかもしれない。だから僕は、一生自分を許せない」


 千春の指先が、わずかに震える。


 「だからね、若草さん。誰かに助けを求めるのは、決して弱さじゃありません。……それに、どうしても辛くなったら、そこから逃げてもいい」


 千春の瞳が、一瞬大きく揺れた。


 「逃げるなんて……そんなの、あいつらの思うツボじゃないですか」


 「戦うことだけが正解じゃない。場所を変えて、自分を大切にできる道を選ぶことも戦う手段の一つだと思うんです」


 千春の瞳が、少し揺れた。強がりの表面に、小さな、ひびが入る。


 「……先生って、ずるいですね。最後の日に、そんな話するなんて」


 「悪い。……でも、何も言わずに去る方が、もっと卑怯かなと思って」


 千春はしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。


 「……覚えておきます。一応」

 

 「それだけで十分です」


 昇降口が見えてくる。


 天は、そこで立ち止まった。


 「じゃあ」


 千春も、立ち止まる。


 「……ありがとうございました」


 はっきりとした声だった。


 天は、軽く頭を下げる。


 「お元気で」


 千春は返事をせず、

 ただ一度だけ、小さく頷いた。


 それぞれが、別の方向へ歩き出す。


 廊下には、もう二人分の足音は残らない。


 それでも、確かに、言葉はそこに残っていた。

読んでくださりありがとうございました。

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