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陽炎に溶ける

 

 うだるような夏の陽光が、公園の地面をじりじりと焼いていた。

 蝉時雨が空気を震わせる中、人気のない遊具広場の奥、

 手入れされなくなった茂みの陰で、彼は子犬と戯れていた。


 捨てられた段ボールの中から這い出てきた子犬は、

 不安そうに周囲を窺いながらも、

 彼の指先に触れると、そっと尻尾を振った。


 子犬の頭を撫でながら、

 彼は昔のことを思い出そうとした。

 だが、何も浮かばない。

 胸の奥は、不思議なほど静かだった。


 腹を見せて転がる子犬に、

 彼は屈託のない声を上げて笑う。

 その姿は、どこにでもいる穏やかな青年に見えた。


 だが、茂みの外、

 陽の当たる遊歩道の端に、男が立っていた。


 男は無機質な瞳で、

 その笑い声が「誰のものか」を確かめるように、聞いていた。


 それがこの世で聞く最後の音になるとも知らず、

 彼はまだ、自分の平穏がその瞬間に終わったことに気づいていない。


 翌朝、ニュース番組が冷徹な事実を報じた。


 『深夜、炎上した乗用車から男性とみられる遺体が発見されました。

 車は東京都内に住む、羽間輝はざまひかるさんの名義で……』


 画面に映し出されたのは、無残に焼け焦げた黒い鉄屑だった。


 「嘘……」


 バーのカウンターで、

 蛍はスマートフォンの画面を見つめたまま固まっていた。


 脳裏をよぎるのは、

 数日前に輝と酌み交わした酒の味。

 そして、彼が少しだけ照れくさそうに語った近況報告。


 ——「教員免許、取ったんだ」——


 蛍の胸に、鋭い棘のような疑問が刺さる。


 (死ぬ人間が、教員免許を取るはずがない。

 輝は、誰かに殺されたの……?)


 警察は事件性のない事故、

 あるいは自殺の可能性を視野に捜査しているという。

 だが、蛍だけは拭い去れない「矛盾」を感じていた。


 蝉の声が一段と激しさを増した四十九日。


 焼香を終えた蛍は、

 輝の父・(てつ)の姉である森野恵(もりのめぐみ)と、二人きりになった。


 「ごめんね、蛍ちゃん。

  輝くんの歯科カルテや身元確認も、全部済ませて法要を開けたの」


 恵は、喪服の袖で目元を拭った。


 輝は高校生の頃から、家の事情でよく働いていた。


 「もう、間違いなく……輝くんよ」


 恵は自分に言い聞かせるように語り、蛍の手を握った。


 「あの子、一人でどれだけ苦しんでいたのかしら。

  徹が死んでから、私がもっと気にかけていれば……」


 その後悔に満ちた言葉を聞きながら、

 蛍は遺品整理の手伝いを申し出た。

 輝が遺した「答え」を、その部屋から見つけ出すために。


 同じ頃。

 焼けつくような夏の日差しの中、

 男はとある老夫婦の家を訪れていた。


 古びた門扉の横。

 表札に刻まれた「埜上」という二文字を、

 男は一度だけ確かめる。


 玄関先に現れた老夫婦は、

 まるで何かを悟ったかのように、その場に座り込んだ。


 「……息子さんは」


 男は名乗らない。

 声には感情も、ためらいもなかった。


 「埜上仁(のがみじん)は、多額の借金を作り、行方をくらませています。

 もう、この家に戻ることはないでしょう」


 「この件は、こちらで処理します。

  ご両親が関わる必要はありません」


 男はそう言いながら、

 名刺も書類も、一切取り出さなかった。


 しばしの沈黙。


 やがて、老夫婦の顔から力が抜ける。


 「……やっと、終わったのね」


 妻が、吐き出すように呟いた。


 彼らにとって、その名は希望ではなく、

 長い「地獄」だった。


 男はそれ以上、何も言わない。

 ただ、その安堵の表情を見届けると、

 陽炎の揺れる道へと静かに背を向けた。


 四十九日法要から数日後。

 蛍と恵は、輝の家を訪れた。


 法要前に少しだけ触れた段ボールを、今度は丁寧に整理しながら確認する。


 段ボールの中から出てきたのは、

 輝がかつて情熱を注いでいた剣道三位の賞状と、銅メダル。


 そして、古い写真立て。


 そこには、凛々しい剣道着姿の男の子と、

 彼を誇らしげに指差して笑う、幼い日の空が写っていた。


 「空君……」


 蛍は写真のもう一人の少年に、

 ほんの一瞬だけ視線を滑らせた。


 だが、その違和感は、すぐに胸の奥へ沈んだ。


 (何か、

 「死ぬつもりのなかった証拠」があるはず——)


 必死に部屋の隅々まで目を凝らす。

 しかし、部屋はあまりに綺麗に片付きすぎていた。


 生活感はあっても、

 これからの「生」を予感させるものは、何一つない。


 「……本当に、いなくなっちゃったんだね」


 落胆した蛍は、

 ついに彼の「不在」を認めざるを得なくなる。


 老夫婦が買い物から戻ると、

 家の前に一匹の子犬が捨てられていた。


 段ボールの中を覗くと、

 子犬は怯えたように身を縮めながら、

 それでも尻尾を小さく振った。


 「……この子?」


 妻が、首をかしげる。


 「人に慣れてるわね……」


 夫にそう言いながら、

 なぜか視線を逸らした。


 ——あの子は、

 いつから変わってしまったのかしら。


 老夫婦は、見捨てることができなかった。


 子犬を抱き抱え、

 そのまま家の中へと連れて帰る。


 まるで、仁への怒りや後悔が行き場を失い、

 名もない温もりへと、

 静かに流れ込んでいくかのように……。


 駅前の巨大交差点。


 大型ビジョンでは、連日このニュースが繰り返し報じられていた。

 『羽間輝さん、乗用車内で死亡。警察は現場状況から自殺の可能性も視野に……』


 蛍は涙を堪え、人混みを歩いていた。


 その時。


 眼鏡をかけ、髪を整えた、

 落ち着いた雰囲気の男が、

 蛍のすぐ横を通り過ぎた。


 「――車内から見つかった遺体は……」


 人の流れに押されるように歩き出したとき、

 蛍は、ほんの一瞬だけ足を止めた。


 何かが、すぐ横を通り過ぎた気がした。


 だが、振り返ったときには、

 もう誰もいなかった。


 蛍は過去に、

 男は未来に、

 それぞれの視線を向けたまま。


 交差点の真ん中で、

 二人の影は一瞬だけ重なり、

 決して交わることのないまま、

 永遠に離れていった。


読んでくださりありがとうございました。

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