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桜散る家


 第二章から二年後。

 輝は、二十五歳になっていた。


 輝はワンルームの机に向かい、問題集のページをめくっていた。フリーエンジニアとしての仕事もあるが、今は教師になるための勉強中だ。数字や言葉が頭の中を行き交う。集中していれば、少しだけ心の奥の痛みを忘れられる。


 だが、ふと、問題の中に「蛍」という名前が出てきた瞬間、手が止まる。

 その響きに呼び覚まされたのは、あの日の空の日記のページ。無邪気に笑う弟の顔、些細なことで喜ぶ姿。五年前の冬の終わり、蛍と二人で空の部屋を整理したあの日のこと。


 胸の奥に、熱く痛い感覚が広がる。

 「……変えられるものなんて、何もないのに」


 教師になろうと決めたのは、空のような子が二度と辛い思いをしないようにしたかったから。誰かの悲しみを少しでも減らしたかった。

 でも、現実を思い返すと、教師になったところで世界は変わらない。

 空はもう戻らない。あの夜の惨劇は、誰も償えやしない。


 ある日、輝は企業の外部案件で、若手社員・白山司(しらやまつかさ)と出会う。

 司は21歳、まだ社会人としても不慣れな様子。隣には上司が同席しており、少し緊張している。

 初対面のはずなのに、どこかで見たような顔。

 だが、どうしても思い出せない。

 「白山司です」と名乗ったとき、心の奥で微かに波が立つ。

 ――白山。どこかで、見た苗字だ。


 打ち合わせが終わり、司が握手を差し出す。

 「これからよろしくお願いします、羽間さん」

 その瞬間、指先に触れた感触。

 そして、ふっと蘇る日記の記憶。

 〈今日も白山くんたちに「消えろ」って言われた〉

 〈廊下ですれ違うとき、わざと肩をぶつけられた〉

 〈先生は見てたけど、何も言わなかった〉


 心臓が、ひとつ、大きく鳴る。


 「……羽間輝です。はざまあきら、です」

 咄嗟に、偽の読みを口にする。

 かつて空が「にいちゃん」と呼んでいた、あの温かい名はもう捨てた。目の前の男を地獄へ引きずり込むのは、別の生き物でなくてはならない。

 冷静な表情を崩さず、司の瞳をまっすぐに見返した。

 その瞳の奥に、日記の言葉が連れてきたあの日の残酷さを感じた気がして――胸の奥が軋んだ。


 仕事を終え、オフィスを出る司。

 輝は自分の車へ向かいながら、キーを握りしめた。

 無意識のうちに、その後をつけるように、車を走らせた。

 夕暮れの街を抜け、司が住宅街へ入っていくのを、距離を保って追った。

 玄関の前で司を迎えたのは、若い妻と、小さな息子だった。

 三人の笑い声。

 幸せそうな光景。


 輝は遠くの街灯の下から、その光景を見つめていた。


 「……ずるいな。何もかも」


 春風が頬を撫でる。

 拳を握り、歯を噛みしめる。胸の奥に湧き上がるのは、怒り、悲しみ、羨望が入り混じった重い痛みだった。

 涙が、ひとすじ、滲んだ。

 空の笑顔が、また心の中で遠ざかっていく。


 後日、輝は外部案件で司と再び顔を合わせた。

 司はまだ不慣れな手つきで資料をまとめている。細かい計算や資料の配置など、少しでも間違えると上司に叱られるのは、想像に難くなかった。


 「ここ、数値が違ってますよ」と輝が指摘すると、司は少し顔を曇らせた。

 「え……あ、すみません、羽間さん」

 手元の資料を確認するが、明らかに司ひとりでは対応が難しいミスだった。


 輝は資料を直しながら、司が混乱しないよう、そっと手を加えた。

 「こうすれば大丈夫です。あとは主任に提出してください」


 司は安堵の表情を浮かべ、初めて心から笑ったように見えた。

 「……羽間さん、助かりました。ありがとうございます」


 数日後、外部案件の打ち合わせを終えた夜、会社の簡単な打ち上げが開かれた。

 司は少し緊張しながらも笑顔を見せていた。 

 輝は一歩距離を置きつつ、その様子を観察する。


 司はまだ慣れていないのがよくわかる。……そういえば、俺も最初はこんなだったか。


 ちょうど打ち上げの雰囲気が和らいだころ、司が隣に座った。

 笑い声やグラスの触れ合う音が耳に残る中、まだ少し緊張した表情を浮かべている。


 

 「羽間さん、この前は本当にありがとうございました。

 僕ひとりじゃ絶対処理できませんでした」


 輝は微笑み、軽く首を振った。


 「気にしなくていいですよ。誰だって最初は失敗しますから」


 話題は仕事の軽い愚痴や、昔の思い出話に移った。

 司は肩の力が抜けたように笑い、少しほっとした表情を見せる。

 そのままふとポケットからスマホを取り出した。


 「……あの、見ます? 昨日、息子が三歳になって。

 これ、僕が撮ったんですけど……ほんと、バカみたいな顔で。

 でも、可愛くて」


 画面には、まだ幼い(はる)が笑っている写真。

 隣には妻の(あかね)が写り、明るい雰囲気が漂っていた。


 輝は写真を覗き込み、自然な声色で言う。


 「……かわいいですね。奥さんにそっくりだ」


 司は嬉しそうに頬を緩めた。

 「やっぱりそう見えます? 保育園の人にもよく言われるんですよ」


 ふと司が問いかけてくる。


 「羽間さんは、ご家族は……?」


 輝は微かに笑みを浮かべ、答えた。

 「ええ、妹が一人います。親元を離れてからは、あまり会えていませんけど、昔はよく一緒に遊んでました」


 輝もスマホを取り出した。幼い頃の自分と蛍の写真が写っている。

 明るく柔らかな笑顔だが、どこか寂しげに映る輝の表情。


 「……いいですよね。やっぱり、家族がいると安心するっていうか」


 司はそう言いながら、陽の写真を名残惜しそうに閉じた。


 「……実は、僕も色々ありまして」


 少し言葉を濁しながら、輝は視線を伏せる。

 

 「両親はもう他界してて……親元を離れることになったのも、そのせいです」


 言葉は淡々と、表面的には真実のように告げる。しかし、その中には巧みに混ぜられた虚構もあった。

 司は少し驚いたように眉を上げるが、深く詮索せず、静かに頷いた。


 飲み会が終わり、司は少し千鳥足で帰路につく。

 輝は距離を置き、静かに後を追った。街灯に照らされる司の背中、足取りのリズム、立ち止まる角度――すべてが次の計画の手がかりになる。


 司が立ち止まる癖のある場所、視界から消えやすい路地、監視カメラの死角――

 輝はそれらを一つずつ、無意識に記憶へ沈めていった。


 自宅の手前で司が小さな陽を抱き上げ、茜と話す姿を遠目に見ながら、輝は動きを止めずに視界を広げる。住宅街の路地を抜け、自分の車に戻る。観察したポイントを一つひとつ頭に刻み、次の行動に備える。


 ハンドルの上に置かれたタバコに火をつけ、煙を一息吸い込む。指先で灰を落としながら、夜風に流れる煙を見つめ、冷静さを取り戻す。


 それから数日後──

 外部案件も終わり、帰り支度をしていた司のところへ、輝は軽く声をかけた。


 「白山さん、ちょっといいですか」


 司は少し驚いたように顔を上げる。


 「え?はい、なんでしょうか」


 輝はゆっくりとスマホを取り出し、画面を司のほうへ向けた。


 「……これ、心当たりあります?」


 暗いテーブルの上に、ぽつんと浮かぶ液晶の光。


 画面に映っていたのは――


 司の妻・茜と、男性が自宅前で談笑し、そのまま家の中へ入っていく瞬間だった。


 司の表情が一瞬で強張る。


 「……これ、どういう……?」


 輝はあくまで“困っているように”眉を寄せ、気まずそうに視線をそらした。


 「いや……見てはいけないものを見てしまった気分で……

 言うべきか迷ったんですけど、黙ってるほうが余計に悪いのかなって思って」


 司はスマホを持つ手が震え始める。


 「この日……確か妻は“女友達と買い物”って……」


 「僕も偶然この前を通りかかって……。

 誤解かもしれませんが、気になってしまって……」


 司はしばらく黙ったまま画面を見つめた。

 唇は震え、目の奥が揺れている。


 「……いや、こんなのあり得ない……」


 「無理に反応しなくていいです。

 でも、知っておくべきことだと思っただけです」


 静かな声。

 感情ではなく事実を告げる声――しかし、それが司の心にもっと鋭い疑念を残す。


 「……ありがとうございます。教えてくれて。

 ……どうするかは……考えてみます」


 輝は軽く頷く。


 「無理はしないでくださいね」


 表面上は優しい言葉をかける。

 司は少し表情を崩したが、すぐに元に戻った。

 輝はその変化を静かに見守る。


 夜、二人きりのリビングで、司は少し戸惑いながら、茜に尋ねる。

 「そういえば、先週は友達と何してたの?」


 茜は一瞬驚いたような表情を見せるが、すぐに微笑みを取り戻し、自然な口調で答えた。

 「え……友達と会っただけで、特に何もしてないよ」


 司は軽く微笑む。だが、その瞳の奥にはわずかな影が差す。


 「そっか……」

 声は穏やかだが、少しだけ確認するような響きが含まれている。

 「……まあ、楽しめたならいいんだけど……」

 言葉の端にほんのわずか、疑念がにじむ。


 茜は安心したように肩を緩め、笑顔を返す。

 「もう、司は心配性なんだから」


 司は微笑みを返すが、胸の奥にはまだ、完全には消えない疑念が残っていた――。


 昼休み。

 司はスマホを開いたまま、ぼんやりと画面を見つめていた。


 ふと――指が、数日前に送ってもらった“映像”の上で止まる。

 自宅の前で談笑する茜と、男の姿。


 (……どこかで、見たことある)


 写真を冷静に見返すと、その男――(つとむ)の横顔に記憶が重なった。

 高校時代、いつも一緒にいた親友。卒業後も年に何度か連絡を取り合い、会うこともあった。茜とは一度だけ、軽く顔を合わせたことがある。


 (なんで……力が、うちの前に?)


 胸の奥に、嫌な熱が広がる。

 “茜と談笑しながら家に入っていく力”

 その光景が、刃のように胸を刺した。


 (……ふざけんな)


 司はスマホを握る手に力を込めた。

 だが次の瞬間、別の感情が湧き上がる。


 (いや……勝手に勘違いしてるのかもしれない。

 力は、そんな……)


 言い訳を探すように、司は何度も写真を見直す。

 しかし、写真の力と茜の距離は、どう見ても親しいものに見えた。


 (……確かめるしかないか)


 司は震える指先でメッセージアプリを開く。

 力との高校時代からのやり取りや、卒業後の軽い連絡が並ぶ。

 笑い合った文章の間に、今は冷たい不信感が重なっていく。


 司は力の名前をタップし、文字を打とうとするが――指が止まった。


 「……何してるんだよ、僕は……」


 誰に聞くべきか、どのタイミングで確認すべきか。

 自分でも答えがわからない。


 ただひとつ確かなのは――

 “自分の知っている親友が、妻の傍にいた” という事実だけだった。


 「……白山さん?」


 背後から声がした。振り返ると、輝が立っている。


 「顔色が悪いですよ。何かありました?」


 司は慌ててスマホを隠した。

 「……い、いえ。なんでもないです」


 輝は優しい目で司を見つめる。

 その視線が、司の揺れた心をそっと落ち着かせる。


 「無理に言わなくていいですけど……

 本当に困ったときは、相談してくださいね」


 司は小さく息を吐き、かすかに頷いた。

 知らず知らずのうちに――輝を、唯一の味方として意識し始めていた。


 夜、寝室で寝息を立てる陽を見つめる司。

 柔らかい髪、すやすやとした仕草、時折笑う顔――

 どれも愛おしく、自然と胸が温かくなる。


 しかし、ふと違和感が胸に芽生える。

 (……どこか力に似てる……?)


 冗談めいた微笑み方、仕草のひとつひとつに、大学時代の親友・力の面影を重ねてしまう。

 いや、気のせいかもしれない――

 それでも、胸の奥に小さな不安が静かにくすぶる。


 眠れぬまま夜が更け、翌日。

 会社の昼休み、司は心のざわめきを抑えきれず、輝の前に座った。


 「……羽間さん、ちょっと相談したいことが」


 司は声を震わせながら言った。

 「実は……昨日、息子を見ていて気づいたんですけど……僕に似てない気がして」


 言葉を選びながら続ける。

 「もしかしたら……茜が……浮気していたかもしれない、って考えてしまうんです。陽が本当に僕の子なのか、自信が持てなくて……」


 輝は黙って聞き、頷く。

 そして落ち着いた声で提案する。


 「……白山さん。もし不安なら、ちゃんと調べられる病院がありますよ」


 司は驚いたように顔を上げる。


 「病院……?」


 「きちんとした病院のほうがいいです。

 結果の信頼性も、手続きの記録も残りますから」


 輝はスマホを取り出し、病院名を見せた


 司は感謝を込めて頭を下げる。


 「……ありがとうございます。本当に助かります」


 輝は首を横に振り、柔らかく笑った。


 「白山さんが変な誤解で苦しむの、嫌ですから」


 司は深く頷く。


 あの日から数日後の夕方、輝は郵便配達員が毎日バイクを止める“癖のある位置”を確認していた。


 マンション裏手の死角。

 ポスト回収のあと、必ずそこで仕分けをする――

 数日間の観察で分かった習慣だ。


 近くの公園では、4~5人の小学生が遊んでいる。


 輝は柔らかく笑いながら近づいた。

 「ねえ、お願いがあるんだけどさ。お兄さんの友達の郵便屋さんに、ちょっとしたドッキリをしたくてね。手伝ってくれる? 手伝ってくれたら500円あげるから」


 子どもたちは一瞬で食いついた。

 「いいよ!」「なにすればいいの?」


 「郵便屋さんが来たら、ちょっとだけ話しかけてほしくて。引き留めてくれるだけでいいんだ」


 やがて――郵便バイクがいつもの位置に停まる。

 子どもたちが「お兄さん!」と声を上げ、注意を引く。


 一瞬、郵便配達員がこちらを振り返った。

 輝は反射的に視線を落とし、息を止める。

 まずい。


 しかし視線はすぐに子どもたちへ戻した。


 封筒を滑り込ませる。一瞬で、影のように気配を消し、音も立てずに――

 偽造したDNA鑑定結果の封筒を、“投函済み郵便”の束の間へスッと滑り込ませる。


 紙を滑り込ませる指先に、わずかな緊張が走った。


 封筒は完全に、何の疑いもない“郵便物”として収まった。


 昼下がりの書斎。

 司は机の上の封筒を手に取り、呼吸を整えようとした。手がわずかに震える。

 中にはDNA鑑定書――数字と文字だけの紙に、胸の奥がざわついた。


 「……大丈夫……」


 紙に目を落とした瞬間、司の心に重い何かが落ちる。


 父子関係:不一致

 確率:99.0%


 冷水を浴びたような感覚が全身を駆け抜ける。


 「……え……」


 声にならない声が漏れた。再度見返しても数字は変わらない。視界が揺れ、膝から力が抜けそうになる。

 胸の奥で、怒り、悲しみ、疑念、恐怖が入り混じる。

 「……嘘だ……こんなの……」


 一人では支えきれない。

 誰にも話せない。

 家族や、友人にも。


 どれだけ頭を振っても、不安の隙間に入り込んでくる名前はひとつだった。

 羽間さん。


 “あの人なら、少しは状況が変わるかもしれない”――

 そんな曖昧な期待に縋るように、スマホを掴んだ。


 震える指で連絡先を開く。


 「……羽間さん……すみません……今から、家に来てくれませんか……?

 どうしても……一人じゃ、耐えられなくて……」


 電話口の向こうで、輝は少し驚いた後、穏やかに応じる。


 「わかりました。すぐ向かいます」


 その声を聞いた瞬間、司の膝から力が抜けた。

 本当は、ただ誰かにそばにいてほしかっただけなのかもしれない。


 ピンポーン。


 司が玄関の扉を開けると、輝が心配そうな表情で立っていた。


 「白山さん……顔色、悪いですよ」


 司は返事もできず、膝から力が抜けた。

 しかし、少しずつ落ち着きを取り戻すと、静かに立ち上がり、輝に向かって手を差し出した。


 「……書斎に行きましょうか」


 輝はその手に軽く応え、司の後に従う。

 二人は階段を上がり、書斎の扉を開けた。


 机の上には、ぐしゃりと折れてしまった鑑定書。


 「……これを、見たんですね」

 輝の声は落ち着いていた。司は唇を噛み、何度も喉を震わせる。


 「……羽間さん……僕……どうすれば……」


 「……まずは、深呼吸しましょう」

 輝がそっと肩に手を置く。

 「結果の見方や精度には幅があります。これは……あくまで“ひとつの資料”です」


 司は涙をこらえ、わずかに呼吸を整える。


 「でも……力と……茜の写真だって……全部......繋がって……」


 「焦るのが一番よくないです。落ち着いて、一つずつ整理しましょう」


 司の呼吸は荒いままだが、輝の声に少しずつペースが戻っていく。


 「……この結果を、奥さんに見せるのは危険です」

 輝は微かに笑み、机の上の本棚に目をやる。厚い一冊の間に紙を差し込み、外からは全く見えないようにした。


 「これで少しは安心できるでしょう。無理に反応しなくていいですが、困ったときはいつでも相談してください」


 胸の奥のざわつきはまだ消えない——だが、輝がそばにいることで、わずかに落ち着きが戻った。


 夕陽が窓を染める中、二人の間に静かな時間が流れた。


 翌日、司は仕事から帰宅し、陽の世話をしていた。


 ふと陽は自分の子ではないという言葉と共に力の顔が浮かび、無意識に抱き方が乱れる。陽が軽く泣き声を上げ、司は思わず「ごめん……!」と声を漏らした。胸の奥に、驚くほどの怒りと焦りが渦巻く。


 陽をベビーベッドに寝かせ、司は書斎からあの一冊を取り出す。本の間に隠していた、偽の鑑定書。「不一致」の三文字が、網膜に焼き付いて離れない。


 その夜、茜がリビングに入ってくる。

 司は紙を突きつけるように置き、声を震わせた。

 「……これを見ろ。説明してくれよ、茜」


 茜は紙を手に取り、目にした瞬間、息を呑んだ。

 「……な、何これ……うそ……そんなはず……」


 「嘘なもんか! 病院が出した結果だ。あの子は、僕の子じゃないんだろう!」

 「違う、司、信じて! 私はそんなこと……!」


 茜が震える手を伸ばすと、司はそれを弾くように奪い取り、書斎へ駆け込む。再び本の奥深くに鑑定書をねじ込む。


 (……どうして……どうして、僕だけが責められないといけないんだ……)


 胸の奥が焼けるように痛む。怒り、嫌悪、疑念、悲しみ——司の感情は限界に達していた。


 朝のオフィスは、静まり返っていた。

 司は浮かない表情のまま、自席に腰を下ろす。昨夜の胸のざわつきがまだ消えない。目の前の仕事に集中しようとしても、深呼吸を繰り返すしかなかった。


 突然、メールの通知音が静かな空気を裂く。


 「白山司さん、至急、会議室までお越しください」


 差出人は直属の上司。冷たい文字の向こうに、鋭い空気が漂っている。司の胸は、一瞬で締め付けられた。


 (……何事だ……)


 会議室に足を踏み入れると、上司とコンプライアンス担当がすでに座っていた。机の上には、昨日司が使ったUSBと同型の機器。


 部長は淡々と告げる。

 「白山君、昨夜、君のアカウントから会社の顧客データが外部に送信されていることを確認しました」


 司の身体が硬直する。鼓動は耳に届くほど早く、頭が真っ白になる。

 「……え……」


 コンプラ担当がサーバーのログを示す。

 「こちらが記録です。白山君のアカウントから送信され、USBを通じて操作されています。昨日、君がUSBを使用していたことも、部内で目撃されています」


 さらに手渡されたのは、ウイルス検知の報告書。

 『ユーザー操作による送信』――明確に、司の操作によるものと判断されていた。


 (……どうしろっていうんだ……)


 部長の声は冷たく、感情はない。

 「重大な注意義務違反による情報漏洩として処理します。懲戒解雇です」


 机の上には、『損害賠償請求通知書』。数百万円、場合によっては数千万円。顧客クレームの可能性を考えれば、司の個人資産では到底支払えない額だ。


 胸の奥に、息苦しい重圧が押し寄せる。思考がついていかない。

 昨夜、机に差し替えられたUSB――輝の手による仕掛け。その事実だけが、静かなオフィスに暗い影を落としていた。


 司は膝を抱え込み、頭を抱え込む。手も足も、全身の力が抜けていく。

 未来が断絶されたかのような絶望。心臓は痛むほど速く打ち、呼吸は荒い。思考は逃げ場を失い、視界の端が揺れる。


 (……どうして……どうして、俺だけが……)


 言葉にできない怒りと恐怖。絶望の淵で、司の意識はわずかに震えていた。


 司は重い足取りで自宅のドアを開けた。

 家の中は静まり返り、誰もいない。妻も子も、すでに実家へ帰っているらしい。


 リビングのテーブルの上に、一枚、白い紙が置かれていた。

 離婚届――その文字が司の視界に飛び込む。


 震える手でスマホを掴み、司は無意識に履歴を辿る。

 画面に浮かぶ名前――「羽間 輝」。


 通話ボタンに指を伸ばす。だが、直前で止まった。

 (……こんな時間に、迷惑だろ……)

 指先が離れ、画面は暗くなる。沈黙が、司の胸を強く締めつけた。


 怒りと悲しみが胸の奥で渦巻き、理性は徐々に崩れていく。

 机を叩き、椅子を蹴り、書類や書籍が次々と床に散らされる。

 廊下を駆け上がれば、本棚から本が雪崩のように落ち、部屋中に紙と本が散乱する。


 司は叫ぶ――誰にも届かない怒りを、ただ暴力に変えて。

 キッチンへも手を伸ばす。器やカップが倒れ、割れる音が家中に響き渡る。

 かつての穏やかな日々は、もうこの家には存在しない。


 膝をつき、額を床に押し付ける。

 「……どうして、こんなことに……」

 震える手で離婚届を握り締めるその時、玄関のポストが乾いた音を立てた。


 一通の封筒が、誰も取りに来ない冷たい床へ滑り落ちる。

 病院の刻印――本物の鑑定通知。

 先に届いた「偽物」によってすべてが壊されてしまった後で、真実は、もう誰にも届かない。


 数日後、輝を含む五人は、司の家の前に立っていた。

 会社を追われた後の司の様子があまりに自暴自棄だったことを心配し、かつての同僚たちが「一度様子を見に行こう」と声をかけ合ったのだ。輝もまた、心配する友人の一人としてその輪の中にいた。


 スマホで何度も連絡を試みたが、既読はつかない。やむを得ず、静かにチャイムを鳴らす。応答はない。


 扉を押すと、驚くことに施錠はされておらず、軽く押すだけで開いた。

 中に入ると、家の中は荒れていた。キッチンやリビングの物は散乱し、何かが起きたことを告げている。


 「……なんだ、これ……」

 一緒に来た同僚が小さく息を漏らす。

 輝は静かに光景を見つめた。


 「僕と一緒に二階を探しましょう。残りの三人は一階をお願いします」

 上司は頷き、輝は階段を駆け上がる。


 書斎に辿り着くと、床には散乱した本が山のように積まれ、封筒を探す手を阻む。

 一冊ずつめくりながら焦りが募る。階下から悲鳴が聞こえる――


 「……急がないと……」


 ようやく本の山の間に見覚えのある封筒を見つけ、胸に抱える。

 遅くなったことを痛感する。しかし今は、これを確保することが最優先だった。


 階下では、上司と三人がリビングやキッチンの荒れた様子に気を動転させ、互いに声をかけ合っていた。

 輝は誰にも気づかれず、静かに階段を降りる。


 ふと視線を上げると、バスタブに静かに横たわる司の姿が目に入る。

 水面には桜の花びらが点々と浮かび、司の髪にも小さな花びらが絡まっている。


 重苦しい光景の中、輝は封筒を守った現実だけを力にして、深く息を吐いた。


 警察が到着し、家の中は騒然となった。

 輝と上司他三人も簡単な事情聴取を受けたが、司の精神状態と現場の状況を前に、深く追及されることはなかった。


 季節は少し流れ、桜の花びらが舞う中、茜と陽は司の墓前に立っていた。

 茜の頬には涙が伝い落ちる。その横で、陽はまだ幼く、無邪気に墓地の周りを走り回っている。

 遠くからその光景を静かに見守る輝。

 胸の奥に込み上げる思いを押し殺し、ただ二人を見守るしかなかった。


 場面は変わり、居酒屋の賑やかな空気の中、輝は同僚数人と飲んでいた。

 ひと息つくために外に出てタバコを吸おうとしたが、ライターを持っていないことに気づく。


 「ライター、使います?」

 声の主は、近くにいた女性だった。輝は驚きつつも感謝し、ライターを借りる。


 顔を上げた瞬間――その女性の瞳に、見覚えのある懐かしい光を見つけた。

 

 「……輝……?」


 「……蛍……」


 二人の間に、一瞬の静寂が落ちる。

 胸の奥で、昔の笑顔や話した日々の記憶がざわめき、時間が一瞬止まったように感じられた。



読んでくださりありがとうございました。

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