五年の沈黙
白と黒に覆われた斎場。
線香と花の香りが、静かに重く漂っていた。
輝は母の棺の前で、無言のまま立ち尽くしている。
白い菊を一輪取り、そっと胸元に添えた。
すれ違う弔問客の衣擦れの音が耳に触れ、ふいに遠い記憶が呼び覚まされる――
――五年前。空の葬儀。
白い花々に囲まれた棺の上、小さな遺影の中で空は微笑んでいた。
けれど、その笑顔はどこか冷たく、現実のものとは思えなかった。
「兄ちゃん、話したいことが――」
あの声が、今も耳の奥でこだまする。
輝は喉の奥が熱くなり、その場で膝をついた。
なぜ、もっと早く気づけなかったのか。
なぜ、助けることができなかったのか。
胸の奥が焼けるように痛む。
五年間、決して消えることのなかった――あの夜の、苺の匂いと共に。
悲しみの只中で、斎場の隅に見覚えのある人物の姿が映った。
紙谷学。
誰にも気づかれぬよう深く頭を下げるその姿に、一瞬、言葉にできない感情が湧き上がり、輝はそっと目を逸らした。
現実に引き戻される。
母の棺には花が静かに手向けられている。
頬を伝う一筋の涙。
五年間、押し殺してきた痛みが、少しずつ溶け出していくようだった。
葬儀が終わる頃、夜の冷たい風が斎場の外を撫でていた。
参列者が次々と帰っていく中、輝は会場の片隅で一人、立ち尽くす。
「……輝、大丈夫?」
ゆっくりと顔を上げると、日恵野蛍が立っていた。
幼い頃からの幼馴染で、かつて恋人だった女性だ。
少しやつれた輝の顔を見て、蛍の瞳に憂いが宿る。
「……蛍。来てたのか」
「おばさんには昔、お世話になったから。
それに、輝がここ数年、一人で大変だったのも知ってるし」
言葉を選ぶように、蛍は続けた。
「……おばさんの部屋、もう見たの?」
「ああ、数日前に。母さんのものは、ある程度片付けた」
輝は視線を落とし、少し間を置いてから静かに言葉を継ぐ。
「でも、空の部屋だけはまだでさ……勇気が出なくて」
「五年も前のことなのに、あの部屋だけは手をつけられなくて。
片付けなければ、まだ生きてるような気がして……
いつか帰ってくるんじゃないかって、そんな気持ちが抜けないんだ」
「前を向かなきゃいけないって分かってるのに、現実を見るのが怖い」
その瞬間、輝の脳裏に空の顔が浮かんだ。
頬に見えた、あの小さな赤い跡。
照明のせいだと思い込んでいたが、今思えば、あれは寒さでも影でもなく、傷だったのかもしれない。
なぜ、あのとき気づかなかったのか。
もし一言でも声をかけていれば――
その思いが、胸を強く締めつける。
蛍はしばらく黙って輝の言葉を受け止め、やがて静かに言った。
「……わたしも手伝おうか。空くんの部屋、片付けるの。
輝がよければ、だけど……
向き合えるときが来たら、私も一緒にやるよ」
輝は少し驚いたように蛍を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……ああ、頼む……」
その声はかすかに震えていたが、確かに決意の色を帯びていた。
蛍は微笑み、静かに頷く。
⸻
数日後の夜。
輝はスマートフォンを手に取り、思い切ってメッセージを送った。
〈蛍、空の部屋の整理、手伝ってくれないか?〉
しばらくして返信が届く。
〈うん。じゃあ今週の土曜に行くね〉
土曜日の昼、玄関のインターホンが短く鳴った。
深く息をつき、輝はドアを開ける。
「蛍……わざわざ悪いな」
「いいよ。気にしなくて」
蛍が微笑む。
ほんのわずかな緊張と、どこか懐かしい空気が交錯した。
二人は空の部屋へ向かう。
扉を開けると埃っぽさはなく、時折、輝自身が掃除した形跡が残っていた。
それでも、空の持ち物は当時のまま置かれている。
机の上の筆箱やノート、棚の上のおもちゃ。
蛍はベッド脇の棚に目を留め、一つのおもちゃを手に取った。
「これ懐かしい! 当時すごく流行ってて、私、手に入れられなかったんだよね」
「……ああ、これか」
輝はかすかに笑みを浮かべながらも、胸の奥に滲む痛みを抑えていた。
机の上にはカードやゲーム機も置かれている。
「あ、これ私と輝と空くんで一緒にやったゲームだよね。
ボスが強すぎて全然勝てなくて、輝のお父さんが倒したんだっけ」
蛍はそう言って笑った。
——画面の中では、勇者が剣を振り、狩人が矢を放ち、賢者が魔法を唱え、必死に戦っていた。
「おい、蛍! 回復! 回復!」
「無理! ポーションもうないもん!」
「ちょ、ちょっと逃げて! あっ、やられた!」
子供たちの笑い声が、鮮やかによみがえる。
『HIKALIGHT』『SORASORA』『HOTARU☆』
画面に並ぶプレイヤー名。
そして最後に表示される、“YOU DIED”。
「もう、全然倒せない! 父さん、やって!」
「お、父さんの出番か?」
優しい笑い声とともに、ボスが一閃で倒された。
⸻
その後、蛍は棚の奥から一冊のアルバムを見つけた。
「これ、見ていい?」
「いいよ」
アルバムを開くと、小学校の入学式の写真が目に飛び込んでくる。
「これ入学式だよね。空くん緊張してるし、輝のお父さん、目半開き(笑)」
「……ほんとだ。父さん、昔から写真写り悪かったんだよな」
思わず、輝の口元にも笑みが浮かぶ。
次のページには、泥だらけの空の姿。
「この日すごい泥だらけだね。何してたの?」
「雨上がりの公園でサッカーしててさ。滑って転んで……
母さんに、ものすごく怒られてた」
蛍の笑い声が、部屋の空気を柔らかくしていく。
さらにページをめくると、家族旅行の写真。
「これ、何の写真?」
「家族旅行のときのだよ。
空、すごく楽しみにしててさ。飛行機では寝てたけど、着いた途端にはしゃいで……」
写真に写る家族の笑顔を見つめる蛍に、輝は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
⸻
アルバムに夢中になっていた蛍の隣で、輝は一冊の日記に目を留める。
無意識のうちに手を伸ばし、そっとそれを手に取った。
前半のページには、遊んだ日の出来事がぎっしりと書き込まれている。
友達との他愛ない日々。
自然と、微笑みがこぼれた。
だが、ページをめくるにつれ、文字は詰まり、筆跡もどこか震え始める。
内容は断片的で、その行間から漂う重さが、胸の奥を締めつけた。
「輝……どうかしたの?」
「いや、なんでもない……」
輝はそう答え、日記をそっと閉じた。
そして思い出したように、微かな笑みを浮かべて言う。
「……飲み物、何かいる? コーヒーかお茶くらいしかないけど」
「じゃあ、コーヒーお願い」
輝は頷き、日記を手にしたまま空の部屋を後にする。
静かな空気が背中に残り、胸の奥のざわめきだけが消えないまま――
読んでくださりありがとうございました。




