冬の終わりに
夜の風が、まだ少し刺すように冷たかった。
街の角には雪がわずかに残り、溶けかけた氷がアスファルトに薄く光を落としている。
羽間輝は、仕事帰りの足を引きずるように歩いた。全身が重く、腰の奥には鉄でも貼り付いたような疲労感があった。
工事現場の灯が遠くで揺れている。
父さんは事故で亡くなり、母さんは意識はあるものの病院のベッドで暮らすようになった。
家族の中で唯一動ける自分は、この冷たい現実の重圧に、肉体も精神も押し潰されそうだった。
寒空の下、息を白く吐きながらアパートの階段を上る。
踊り場には、溶け残った雪がまだ少し残っていた。
鍵を回して部屋に入ると、ストーブの赤い光がぼんやりと灯っていた。
テーブルには弟の空が座っている。中学生の彼は、制服のまま少し真剣な表情で顔を上げた。
頬のあたりに小さな傷が見えた気がしたが、照明のせいかと思い、輝は気に留めなかった。
「兄ちゃん、話したいことが――」
輝はジャンパーを脱ぎ、ため息をついた。その息は、体の空気をすべて吐き出すかのように弱々しかった。
「悪い、今日はもう疲れた。明日にしてくれ」
言い終えると、風呂場へ向かう。
空は何も言わず、その背中を見送った。
夜、ベッドに沈み込む。
毛布の中には現場の鉄と土の匂いが残っていた。
天井の染みをぼんやり見つめながら思う。明日も、この重い現実から逃れられない。
――話って、何だったんだろう。
まぶたが落ちていく。
寒さのせいで、夢も見なかった。
翌朝。
窓の外は曇り、雪が降りそうな冷たい空気が漂っている。
「空、起きてるか? もう学校行く時間だぞ」
扉を軽く叩くが、返事はない。
「学校、サボんなよ。学費だって……ただじゃねぇんだから」
そう言い残して、コートを羽織り出勤する。
その日も仕事は変わらなかった。
冷たい風、うるさい機械音。
ただ、一瞬だけ弟の顔が頭をよぎる。
「昨日、もう少し話を聞いてやればよかったな」
帰り道、コンビニの灯りが目に入った。
空の好きだった苺のショートケーキを手に取る。
「……こんなことで、機嫌が直るとは思わないけど」
つい、口元が緩んだ。
夜。
アパートの前に立つと、窓の隙間から明かりが漏れていた。
鍵を差し込み、ドアを開ける。
冷気が足元から這い上がってくる。
「空?」
返事はない。ただ、静寂だけが返ってきた。
リビングへ足を踏み入れた瞬間――
いつもと違う、微かな冷気を感じた。
ガラスに何かが映る。照明の光に揺れる“影”。
天井から垂れたロープ。
その下で、首を傾けた弟の姿が淡い光の中に映っていた。
手の中のビニール袋が重く落ちる。
中のショートケーキの小箱が飛び出し、床に衝突。
蓋が外れ、生クリームと苺が無残に潰れ広がった。
輝は動けなかった。
息を吸うことも、声を出すこともできない。
――冬の終わりに、すべてが止まった。
読んでくださりありがとうございました。




