10 セックスしないと出られない村(8)
一本松の中州から村に戻る。
夕暮れのトコ村は血で濡れたように不気味な色をしていた。
というのは嘘だ。
日中ののどかさを残しつつ、昼が去っていく一抹の寂しさも感じる、そんな平和な夕暮れだ。
夕方は今日という日の卒業式だから背筋伸ばして歩け。
そう言っていたのは小学校の担任だったか。
まあ、誰でもいい。
初体験は惜しくも逃したが、初キスを無事すませたおかげか俺の背筋は自然と伸びていた。
ちょっと大人になったって感じ。
「……」
「……」
ルネは2メートルほどの距離を開けて俺の隣を歩いている。
昼間は咲いていた会話の花もいつの間にか散ったらしい。
帰り道は静かなものだった。
お互い別の方向を見て、固く口をつぐんでいる。
でも、不思議と嫌な雰囲気ではなかった。
「俺、キスなんて初めてだったな」
「どう……だった?」
ルネが不安げに訊いてくる。
「熱かった。例えるなら、あー、茹でたナメクジを食べたら、まだ生きていて口の中で這い回っている感じ、か?」
「私のファースト・キスを……。なんて例え方してくれてんのよ!」
ルネが奥歯をギリッと鳴らして顔を赤くした。
それは、怒りか?
それとも、羞恥心?
ファースト・キスで舌を入れてくる奴に羞恥心があるとは思えない。
つまり、怒りか。
「家まで送るよ」
村の中は安全だろう。
でも、ルネの様子が気がかりだ。
あまり一人にしないほうがいい気がして、そう申し出た。
ルネは了承とも拒絶とも取れるような曖昧な仕草で首を振った。
ノーじゃないなら、ついていこう。
ナビが目の前でくるくる回った。
『送り狼とは、さすがユーシン様です! その女の自宅に上がり込んで家族もろともにハメ殺す気ですね!』
違うわボケ、と表情で伝える。
『ユーシン様のいくじなしィ!』
狂ったイノシシみたいに体当たりしてくるナビ。
プンプンうるせえな。
ほどなく、村はずれにやってきた。
「そういえば、このへんは聞き込みしてなかったな。ルネの親御さんに2、3尋ねてみてもいいか?」
「やめて!」
悲鳴じみた声が返ってきた。
赤と黒の夕闇の中にあって、ルネの顔だけが青かった。
「わかったよ、ルネ」
「ごめんなさい、ユーシン」
日中、あんなに勝気だったルネが、日が傾くたびに弱気になっていった。
背中を丸めてトボトボと歩く姿が痛ましい。
どうも家に帰りたくないらしい。
どんどん歩幅が狭くなっていく。
「ここよ。私のうち」
ルネの家はこぢんまりとした一軒家だった。
玄関先にたたずむ女を見て、ルネは息を呑んだ。
「遅かったわね、フェルネちゃん」
くすんだ赤い髪。
尖った目尻。
一目でルネの母親だとわかった。
鼻筋の通った綺麗な人だ。
でも、化け狐じみた冷ややかなものを感じて背筋がぞくっとした。
「ねえ、フェルネちゃん。ママ、畑仕事を頼んだはずだけど。どうして言いつけを守れなかったのかしら」
「ごめんなさい、ママ」
「あら、責めてないのよ? どうして謝るのかしら」
「ごめんなさい」
「ママはね、質問をしているの。謝ってほしいなんて一言も言っていないわ」
「ご、ごめんなさい……」
毒親だ、と思った。
言葉遣いは丁寧なのに、言葉の端がカミソリみたいに鋭く、陰湿な響きがある。
ルネは縮こまって自分のヘソと睨めっこしている。
村を出ていきたい理由。
背中の鞭の痕。
いろいろと察しがついてしまった。
ルネママが冷めた目で俺を見た。
「わたくしはヴェレイノ・ヴェック・ヴェルフェンと申します。隣町を治めるヴェルフェン公の妻で、エンフェールネンの母です」
ルネママ――ヴェレイノは軽く膝を折って貴族風の礼をした。
礼儀正しいというより、肩書きを誇示するような尊大さがあった。
領主の妻がなぜこんな小村の東屋に?
と、疑問に思った。
だが、ヴェレイノの目には質問を許さない圧があった。
「どちらのお方か存じませんが、娘を送ってくださってありがとうございました。何かご迷惑をおかけしませんでしたか?」
「いえ、別に」
「そうですか。それでは失礼します」
ヴェレイノはルネの手を引いた。
「……っ」
ルネが顔をしかめる。
ヴェレイノの爪が深々と手首に食い込んでいた。
あれでは痛いだろう。
二人の関係が察せられた。
だが、外野の俺が憶測だけで口を挟むのは憚られる。
今日会ったばかりの間柄なら、なおさらだ。
ルネがちらっと俺を見た。
助けて、と目で言ってくれたら、俺にも介入する口実ができる。
が、ルネの目は、もう帰って、と告げていた。
ぴしゃり、と戸が閉まる。
俺はそれを見つめているしかなかった。




