第3話 お困り官僚、大原君
厚生労働省 医薬局監視指導・麻薬対策課
その日も夜10時を過ぎても、麻薬対策課のオフィスの明かりは消えていなかった。
主任の大原は翌日の会議に向けた資料を作っていた。
労働者を守るはずの厚生労働省が、不夜城のように灯りを絶やさない――世も末だなと、大原は思う。
彼の頭を悩ませているのは、異世界とのゲート、そしてそこから流入する薬物だった。
5年前に青森市に出現した通称「浅虫ゲート」。10メートル級の巨大な門だ。
異世界国家との不幸な衝突もあり、双方で数十人規模の死傷者が出た。だが客観的に見れば、衝突は抑制的に収まったと評価できる。
1年ほどかけ、相手国と暫定的に国交を樹立することができた。
異世界進出を望む国内外の経済界から強い圧力はあったが、最終的には不干渉を基本方針とする条約が締結された。
交渉相手はパドシャイ王国――封建的な国家で、不干渉を望んだのも当然だった。だがそれ以上に、互いの環境が「毒」になったことが大きい。
ゲートの向こうには空気中に魔力が満ちている。滞在が数ヶ月程度なら問題ないが、それ以上になると原因不明の体調不良を起こすことが多い。
逆に、向こうの人間がこちらに来ても同じだ。いや、むしろこちらのほうが深刻かもしれない。
実際、外交交渉に来た貴族が2人続けて急死する事件が起きている。
この出来事は一時、外交問題を局所的な武力衝突にまで発展させた。だが、事象の再現性が確認されると沈静化した。
異世界人は生命維持に魔力を必要としており、こちらの世界ではそれが満たされず突然死してしまう。そして魔力が少ない人間ほど生存期間は長いらしい。
現在は、適切な人員選定と定期的な帰還によって、二国間の外交関係は維持されている。
ゲートの管理は順調といえるだろう。問題は、それが無数に存在することだ。
大原はパソコンで現在確認されているゲートの一覧を眺める。五所川原ゲート、野辺地ゲート――大型で管理されているものはまだ良い。
問題は小規模なゲートだ。浅虫ゲートから離れるほど、ゲートは小さく不安定になる。
最も遠くで発見されたのは三重県鈴鹿市のもの。直径5センチほどしかなく、市街地の真ん中に突如現れ、数日後には消滅した。
青森からの距離とゲートの大きさは比例していると考えられている。
小さな無数のゲートから流れ込む大量の薬物――それが、この国を確実に蝕んでいた。
門が開いて1年ほど経ったころ、異世界産の特定の葉に向精神作用と筋力増強作用があることが広まった。
通称は「茶」。チャノキの葉に似ていることから、その名が付いたのだろう。
地下社会で流行したそれは、やがてスポーツ界にまで蔓延し、日本人が世界記録を次々と塗り替える事態に発展した。
厚生労働省は当初、既存の政令に基づく指定薬物として規制しようとした。
しかし、その作業は難航した。原因物質を同定できなかったからだ。
質量分析、核磁気共鳴、ラマン分光――どんな方法で調べても出てくるのはセルロース、デンプン、デキストリン、糖……要はただの植物成分ばかり。セルロースの比率が低い、いわば「ちょっと変わった野菜」にすぎない。
最終的に、異世界産の植物を包括的に指定することになった。
とはいえ実効性は乏しい。試薬が存在しないものを、どうやって「所持」と断定するのか。
ここまではまだ良かった。
異世界で比較的容易に採取できるといっても、そのリスクは極めて高い。
行方不明者が大量に出る探索の末、少量だけ持ち帰られる「茶」。そのため流通量は限られ、価格は市場原理で高騰した。
ごく一部のトップアスリートがドーピング目的で使う程度なら、まだ問題は小さかった。
だがWADAからの圧力は強まり、異常な記録が続出する日本では公式記録が一時停止される事態にまで発展した。
そこまで考え、大原は気分転換に外へ出ることにした。
世間の喫煙者への風当たりは強い。厚労省のビル内にも一応喫煙所はあるが、使用時間が細かく制限されていて事実上ほとんど使えない。結局、日比谷公園まで歩くしかないのだ。
歩いていると、奇声を上げながら異常な速度で駆け抜ける男と、その後を必死に追いかける警察官の姿が目に入った。
――東京の治安は崩壊しつつある。
大原は思う。すべては、あの「猫茶」が出回り始めてからだ。
2年ほど前、従来の「茶」とは比べものにならない効果を持つ品が突然流通し始めた。
名前は売人から広まったもので、流通用の袋に猫のマークが焼印されていることに由来する。可愛らしい響きに反して、その効果は苛烈だ。鮮度の高いものを摂取した人間は、ショック死することさえある。
新鮮な猫茶を口にした者は、時速40キロで走り、銃弾すら通さないほどの強靭な肌を得る。
もっとも、その効果は三十分ほどで薄れ、やがて消える。
さらに問題なのは、その流通量だ。誰でも数万円で簡単に一枚を手に入れられる。
先ほどの男のように奇声を上げ、警察を挑発するだけならまだいい。だが、既に凶悪事件は何件も発生している。
拳銃程度では猫茶を飲んだ人間を制圧できない。逆上した使用者に警察官が殺害される事件も後を絶たない。
所持者や使用者を取り締まろうにも、原因物質が不明では限界がある。
結局のところ、それはただの葉っぱにしか見えない。証拠として押さえても「薬物所持」と断定できず、使用に関してはなおさらだ。状況証拠しか出せないのだ。
「被告人は25km/hで走り回っていました。だから薬物を使用していました」――そんな立証を見せられた裁判官が困惑したのも無理はない。無罪判決が相次ぎ、検察は猫茶関連の立件に極めて消極的になっている。
厚労省は誤りを認めていないが、立法自体に無理があったのは事実だろう。世論に押されて強引に起案された法律なのだから。もちろん「違法である」という周知の意味はあったのだろうが。
流通規制を試みても、この薬物は神出鬼没だ。
おそらく異世界側で組織的に供給されているのだろう。
ルートを潰しても、すぐに新しいルートが生まれる。売人を刑務所に放り込めないことも、それを後押ししていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
深夜の日比谷公園の喫煙所は、激務に追われる官僚たちのささやかな憩いの場だ。
足を踏み入れると、外務省の知り合いである下柳がすでに一服していた。外務省本庁からここまで歩くのは相当な距離だ。――どれだけタバコを吸いたいんだ、と大原は内心で苦笑する。
周囲に誰もいないことを確認してから、大原は声をかけた。
「よう。お前も明日の会議の準備か?」
「あぁ。うちは異世界のお姫様の誕生日祝いの贈り物を何にするかで大揉めさ」
異世界との正式な交易はまだ行われていない。だが、儀礼的な贈り物の交換を通じて、実質的な取引が成立している。
なかでも異世界産のポーションは、日本政府が喉から手が出るほど欲している品だ。怪我だけでなく、現代医学では治療困難な癌や難病にすら効果があると暫定的に確認されている。
「治験中」という名目で流通しているが、なぜか与党の重鎮が治験対象に選ばれていたことを週刊誌に暴かれ、厚労大臣が辞任に追い込まれた事件も記憶に新しい。
「いつもみたいにデカい宝石でも贈っときゃいいんじゃないのか?」
「それがな、向こうは最近お冠でな。外交交渉も停滞気味だ。日本が協定を破って文化侵略している……そう言ってきてるらしい」
大原は眉をひそめた。政府は異世界を刺激するなと厳命しているはずだ。
下柳は続ける。
「向こうの大使から、こっちの世界のAMラジオを見せられたんだ。電源不要のやつ。しかも大量に流通してるらしい」
異世界語の情報を政府が厳重に秘匿しているのは、異世界の国家の強い要請によるものだ。受信機を広めるのも困難なはずだし、送信機など到底無理なはず。現地で工事などできるわけがない。
実物を突きつけられたと言われても、大原にはまだ信じがたかった。
「ヤクザどもが異世界で新しく放送業でも始めたのか?」
大原が冗談めかして言うと、下柳は肩をすくめた。
「さぁな。ただ、その馬鹿のせいで俺はこんな時間まで残業するハメになってるわけだ」
ふぅ……。大原が吐き出した煙は、夜の空に静かに溶けていった。




