第15話 残業大好き、大原君
異世界の視察から帰還した以降、大原は情報整理と政策調整のために内閣府に詰めていることが多くなった。
依然として異世界産の麻薬は流通し、日本国内外の治安問題の一因となっている。
しかし、最近では政府は別の問題をより重要視していた。異世界東部で独立を宣言した勢力への対応である。
彼らは自称「ミナディア民主主義共和国」。かつて東部に存在した王国「ミナディア」の名を冠しているが、正当な継承関係は確認されていない。
民主主義を謳う一方で選挙の形跡はなく、統治組織は極めて未熟だ。実際、外務大臣として派遣されたのは10代の少女で、その体制の脆弱さを示していた。
内閣調査室の職員は彼らをこう切り捨てている。
「ミナディアではなく、民主主義でもなく、そもそも国ですらない」
大統領を名乗るのは「キットゥ」。現地語で「猫」を意味するふざけた偽名だ。
国旗は赤地に猫のイラストという異様なデザインで、組織の象徴性よりも奇抜さばかりが目立つ。
パドシャイ王国の宰相が言うように、この「国モドキ」は容易に崩壊するだろう。
王国と帝国の和平交渉は順調に進んでおり、前線の停戦も実現しつつある。
数週間後には正式に和平条約が締結され、パドシャイは軍事的フリーハンドを得る。そうなれば、この勢力が崩壊するのは時間の問題だ。
だが、大原が危惧しているのは崩壊後である。仮に政権が潰えても、彼らは森林地帯に逃げ込み、既存の密輸ネットワークを頼りに麻薬を供給しつつ、散発的な事件を起こし続ける懸念が強い。
自称大統領であるキットゥには数々の重大犯罪の疑惑がかけられている。
・異世界産麻薬の生産者(死者5万人以上)
・パドシャイ日本調査団襲撃事件(死者24人)
・ロシア沿岸州連続テロ(死者260人)
・ウラジオストク襲撃事件(死者6万人超、行方不明多数)
・駐パドシャイEU領事館爆破事件(死者115人)
しかし、現在までに提示された証拠はいずれも決定打に欠ける。
外務大臣を名乗る少女は、すべての疑惑について関与を否定していると報告されている。
現時点で彼らを国家として承認した国は確認されていない。
最大の懸念はパドシャイ王国との関係である。
日本を含む各国が危険を冒してまで異世界に職員を派遣している理由は、王国から供給される「ポーション」(魔力補充用の薬品)の存在だ。王国東部ではこのポーションが生産できないらしい。
ただ、利権を確保できていない中国などは新しくできた国家に関心を示しており、日米欧は神経を尖らせている。
一方、東部ではポーションの代わりに麻薬が大量生産されている。
だがこれは各国にとっては不要な代物だ。むしろ異世界交流の厄介な副産物であり、歓迎されていない。
「着払いで送り返したいほどだ」と大原は思う。
午後には、彼らの大統領を名乗る男との会合が予定されていた。会談の主題は、飢餓対策と農業害虫被害のための食料と農薬の供与である。
見返りに日本側が要求しているのは麻薬の取り締まりの強化。
大原の私見では、麻薬の生産に彼ら自身が深く関与している可能性が高い。彼らに麻薬の取り締まりを依頼するなど馬鹿げている。
それでも日本政府は国際的批判を回避するため、援助を引き換えとした協力要請を選択せざるを得なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
キットゥ大統領との会談は異世界側で行われる。魔法使いは地球では環境に適応できず長く滞在することができない。
そのため会談は必然的に異世界側で開かれることになった。
とはいえ、大原はロシアでの一件を踏まえ、彼らが何らかの回避手段を隠しているのではないかと疑わずにはいられなかった。
会議室に外務大臣の少女を引き連れて現れたのは、若々しい笑顔を浮かべた男だった。
こざっぱりとしたスーツに身を包み、完璧な日本語を操る。
その青い目は、かつて調査団を襲撃した男と同じ色をしていた。
しかし、大原には同一人物だと断じる確信は持てなかった。
彼は人懐っこそうな笑顔で握手を求めてくる。日本代表団の面々は肩透かしを食らったような気持ちになった。
テロリストの首魁と会う覚悟をしていたのに、目の前にいたのは、これまで出会ったどんな異世界人よりも印象の良い人物だったからだ。
日本国旗の掲げ方や座席配置に至るまで、細やかな国際儀礼に通じているようだった。
外交的な社交辞令が続いた後、本題である麻薬の取り締まりについて要請を行う。自称大統領は深刻な表情をつくり、約束してみせた。
「東部地帯ではルワハが文化の一部となるほど定着しています。それ自体をすぐに規制するのは困難ですが、加工工場や密輸出に使われる門の捜索には全力を尽くします」
事前に聞いていた通り、彼からも要請があった。食糧支援と農薬である。東部の状況はかなり深刻らしい。彼は痛ましげに被害を語り、実際に現場を視察してきた大原には、その言葉が嘘には聞こえなかった。
食料については甘い菓子パンを大量に求められた。
会談前にすでに準備されており、この後すぐに100tほどが贈られる予定だ。
農薬については、完成品ではなく原料の輸入を望んでいるようだった。その動機について、大原は理解できた。
農薬を直接輸入すれば体積が大きくなり輸送費がかさむため、量を確保できない。
実際にアフリカなどでは、中国から農薬原料を輸入し、現地でドラム缶を使って混合・製造する事例がある。
農薬の選定は日本に任せるという。これは慎重に決めなければならない、と大原は考えた。
異世界の農民のためではなく、日本の安全保障のためにだ。農薬は本質的には毒物であり、その原料は容易に化学兵器に転用され得る。
例えば有機リン系の殺虫剤。家庭でも使われる安価な殺虫剤だが、その原料の一つである三塩化リンは国際規制の対象となっている。
サリン、ソマン、VXガスといった化学兵器の材料になるからだ。
サリンやソマンは効果は比較的弱いものの、非常に容易に合成できる。化学系の学部生でも合成できるレベルだろう。
会談はにこやかに進んだ。ロシアでの件について質問しても、「魔法使いは異世界に行けませんよ」とかわし、真剣な顔で哀悼の意まで示してきた。
大原は手強いなと感じたが、思ったよりも話が通じる相手だと感じ、わずかに安堵した。
帰り際、彼は思い出したように言った。
「我が共和国は近日中にパドシャイ王都への大規模な攻撃を計画しています。できれば王都から退避していただきたいのですが」
アメリカやEUにも伝えてほしいという。明らかな離間策だろう。そんなことをすれば王国との外交関係は破綻する。
警告に対して礼を述べつつ、実行はできない旨を伝えると、自称大統領の目に一瞬だけ感情が浮かんだように見えた。
哀れみ…?
だが、すぐに彼は笑顔に戻った。大統領は外務大臣とともに代表団を見送ってくれた。
五所川原ゲートに戻ると、外交団の長を務めていた外務省の課長が大原に声をかけてきた。
「向こうの大統領は、なかなか話が通じそうだな。王国との戦争で滅びてしまうのが残念だ」
大原は思った。本当に滅びるのだろうか。彼ほどの知識人が、パドシャイ王国の強大な軍事力を知らないはずがない。
可憐な”外務大臣”によれば、大統領は偉大な魔法使いだという。それでも王都を単独で落とすことは不可能に思える。
王都には城壁内だけで50万もの人口が暮らし、その中には膨大な数の魔法使いが含まれている。
異世界最強の軍事都市とさえ言われる場所だ。さらに三つの軍団が常駐している。
二つは帝国遠征中だが、残る一つ――国王を守る近衛軍は王国一の精強さを誇る最強の魔法使い軍団である。
彼には何か切り札があるのだろう。地球側の事情にも精通しているように見えた。
もしかすると焦土作戦やゲリラ戦を意識しているのかもしれない、と大原は感じた。
それでも、彼は有能に見えた。食糧支援程度で機嫌が取れるなら安いものだ。
内閣府に戻れば、備蓄米の放出を提案しよう。備蓄米であれば、所定の手続きを経るだけで放出が可能だ。
国内相場に影響を与えない異世界への放出であればJAも反対はしないだろう。5万tを提案するつもりだった。
もし彼の国が潰えて支援が無駄になっても、人は残る。食料の供給で異世界住民の機嫌を取れるのなら、それは決して悪いことではない。
200万人が住む東部の飢饉に対しては到底足りないかもしれないが、幸い東部は米作が盛んだ。
送る米は精米されていなくても問題はないだろう。
大原は官房長官への報告書を作成し、同時に農水省への根回しも始めた。その日から一週間、彼が家に帰ることはなかった。