第12話 病み上がり大原くん
パドシャイ王国 王都
駐パドシャイ日本大使館
事件から一週間後、大原は日本大使館の一室で待機していた。
あの日の彼は、自分でも驚くほど冷静だった。現場の映像や写真を残し、牧本の遺体を馬の後ろに乗せて領都ウィナスの領主館へ助けを求めた。
パニックに陥って馬ごと逃げ去った外務省の山下の行方はいまだ分かっていない。
大原の救援要請を受けて現場に急行した兵士たちが目にしたのは、ただの何事もなかったかのような道だけだった。
森林には巨大な肉食鳥が潜んでおり、死体を持ち去ったのではないかと推測されている。
もし大原の記録と牧本の遺体がなければ、事件は迷宮入りしていたかもしれない。
牧本の遺体は、日本側の医師とパドシャイ側の専門家によって詳細に検視された。結果は驚くべきものだった。外見にはほとんど損傷がないのに、脳幹だけがピンポイントで破壊されていた。
即死だったと判断された。銃弾などの異物は一切見つからなかったが、鼻と脳を隔てる篩骨には小さな穴が開いていた。
報告書によれば、検視した医師は「こんな死に方は見たことがない」と首をひねったという。
日本の医師が困惑する中で、パドシャイ側の担当者は慌ただしくどこかに照会を始めた。
これは水魔法使いが用いる暗殺魔法の一種だと説明された。
日本政府は魔法使いを一括りにしているが、パドシャイ側の認識は異なる。
中央の魔術院で正規の養成課程を修了した者のみが「本物の魔法使い」とされ、地方の魔術院や民間の教育施設の出身者は自称扱いにすぎない。
手口から犯人は全人口の上位0.1%未満、中央魔術院で正規の教育を受けた存在だと推定された。水魔法や風魔法は一般的には戦闘向きではないとされるが、実際にはこのように暗殺に応用される。
今回の技術は軍が一般人には秘匿しているものだという。
理由は単純だ。魔力量が少ない者であっても、この方法なら格上の魔法使いを暗殺できてしまうからだ。皮膚がいくら強靭でも鼻腔の粘膜までは防御できない。
射程は短く精密な制御を要するが、それでも凶悪な魔法だった。
王国はこの事実を公表しないように日本政府に強く求めてきた。
なぜ隠すのか。それは軍事的な理由だけではない。政府や軍の上層部は全員が「本物の魔法使い」であり、そこには強い選民意識と連帯感が根付いていた。
彼らにとって、身内が犯罪組織に加担していると世に知れることは耐え難い恥なのだろう。
一方で、子爵の死因についてはパドシャイ側には心当たりがないという。
大原は銃声を聞いた事や、マズルフラッシュを目撃した事を証言し、銃撃による死亡の可能性を報告している。
しかし、パドシャイ側は懐疑的だった。彼らには「銃では魔法使いは殺せない」という固定観念が根強く残っているからだ。
さらに、大原が報告した「全身真っ赤な男」という外見の情報も否定された。
帝国の魔法部隊の典型的な装束だが、帝国人がこの高度な暗殺魔法を使えるはずはないという。
それは明らかな偽装工作だと断じられた。
調査を進める中で、領主館の使用人から情報が漏れていたことが判明した。酒場で異世界人全員に馬を提供したことや、行き先などを吹聴していたのだ。
襲撃者は何らかの理由で日本人を標的から外したかったのだろう。
牧本や森下は馬に乗っていなかったため、日本人ではないと判断され命を落としたと推測される。
大原の胸には、来月に結婚式を控えていた牧本の笑顔が蘇る。思い出すたびに胸が痛んだ。
そして、自分の肩に乗せられた重みを改めて意識する。三人の命と引き換えに得られたこの情報を、俺たちは、日本政府は決して無駄にはしない――。
◇◇◇◇◇◇◇◇
大原は日本大使館の一室で静かに待機していた。王都に滞在し始めてから二週間、その間に地球側ではかつてない規模の混乱が広がっていた。
ウラジオストクでの一連の攻撃は、もはやテロと呼ぶには規模が大きすぎる。
ウラジオストクの市街地は迫撃砲による無差別攻撃を受け、確認されているだけで死者は二万人を超え、行方不明者は五万人近いとされる。
現場に残されていたのはソ連時代の旧式兵器ばかりで、犯行に関わった人物は一人として捕らえられていない。
大原の胸中には一つの推測が浮かぶ。これほどの兵器や人員が突如として現れるなど常識では考えられない。――門が関係しているに違いない、と。
パドシャイ王国側の混乱も拡大している。
東部では大規模な抗議デモが発生し、鎮圧の過程で治安維持部隊が魔法を行使したため数十人の死者が出た。
違法ラジオ放送ではそのニュースが連日流されており、市民の抗議活動はさらに拡大している。
こうした混乱は周辺地域にも波及している。王国南部地域には、日本と繋がるゲートの一つが存在している。
このゲートは東部地域と比較的近い場所にあり、周辺の治安の悪化が著しい。このゲートがデモ隊に封鎖される事態が何度も起きた。
このため、日本政府は南部の領事機能を一時的に縮小する措置を取った。邦人がほとんどいないため実害は限定的だったが、外交上は重大な問題と見なされた。
大原がこの世界に残っている理由は、王国政府との会談に同行するためである。王国側は南部地域の領事機能縮小への不満を表明しており、日本側の対応に反発を示しているのだ。
王国政府からの抗議は当然だろうと、大原は思う。
外交においては面子を守ることが何よりも優先される。日本側が行った領事機能の縮小という措置は「あなたの国の統治機能に不安がありますよ」という宣言に他ならない。
指定された部屋でしばらく待っていると、パドシャイ側の担当者が入ってきた。日本との外交を担当する貴族に加えて、見たことがない一人の年配の人物が同席している。
大使は小さく息を呑み、書記官が困惑する大原に囁いた。「あの方はチャンダルル宰相閣下です」。
この程度の外交問題に、上位貴族の代表格である宰相が自ら出席するのかと、大原は疑問を抱いた。
パドシャイは貴族の連合といった国家体制で、王の権限は相対的に限定されている。
宰相は王と並ぶくらいの強力な権力を持っている人物だ。
宰相は淡々とした口調でまず謝罪を表明した。
外国使節団の警備に失敗し、多くの死者を出したことは外交上の大きな失点であり、その責任を重く受け止めているという。
続けて宰相は南部の領事機能縮小についての抗議を行った。そして説得するでもなく、事実を告げるように語った。
「帝国に遠征している主力軍が帰還すれば、平民の反乱は短期間で鎮圧されるでしょう」
帝国との戦況は優位にあるため、主力の帰還によって一気に東部での反乱を押しつぶせる見通しだと示唆したのだ。
大原は聞きながら、この国の統治構造に抱いていた違和感の核心を徐々に理解していった。
貴族たちは領民に関心を払っていない。
彼らの関心は、貴族同士の権力闘争にのみに向けられていた。
常に争っている貴族が一致団結するのは対外戦争か、あるいは貴族制そのものが脅かされたときだけだ。
宰相は長年にわたりその座を維持してきたことから、高い統治手腕と調整力を備えているのがうかがえる。
侯爵家の繁栄は、宰相の政略の成功を物語っていた。
しかしその努力は領民や国民全体のためではなく、ただ一族の繁栄のために向けられている。
調査に同行した子爵のように、国民を本気で案じる貴族はこの国では稀だった。だからこそ、大原は彼の死が国にとって大きな損失であると改めて痛感した。
会談の途中、出席していた一人の貴族が宰相に耳打ちをした。宰相の顔色は変わらなかったが、一瞬考え込んだ後に、退出していった。
その行動は緊急事態の発生を思わせたが、理由はその場では分からなかった。
その後、大原が大使館に戻ると、玄関で駆け込んできた事務官から事情を告げられた。「大変です! 大使。東部の領都ウィナスが陥落しました。反乱軍は“ミナディア民主主義共和国”を名乗り、独立を宣言しています」。