第六話
深夜、そろそろ終電も終わろうかと言う時間。
繁華街から、少し外れた住宅街の奥。ちょっとした休憩スペースのある広場に設置されているベンチ上。
そこに、よれよれのくたびれたスーツを着て一人の男が、顔を赤く腫らしながらくだを巻いていた。
佐藤 信治 31歳
仕事帰りの同僚と一杯。気がつけば、二軒三軒と梯子を繰り返し、朦朧とした頭で最後の店を出た彼は。
それでも、迷うことなく自宅道への帰り道を、千鳥足でふらふらと進んでいたが。途中で力尽きて、自宅から数百メートルほど離れている、この公園へ誘い込まれるように足を向けた。
「けっ!やってられっかぁ!!」
ベンチに、どっかりと腰を下ろし。真っ赤に腫らした頬に眠たげな瞳で突然声を張り上げるその姿は、完全に泥水状態。
警邏中の警官にでも見つかれば、その場で職務質問されても誰も疑問を抱かないであろう。
幸か不幸か、その様な人影は近く見えず。公園に有る街灯に照らされ写るのは、彼一人だけの影であった。
「う~、まったくよぅ部長が、何様だっていうんだぁ?」
ぐったりと俯きながら、上司に対する不平を漏らす。
取引先とのと折衝で芳しくなかった結果を残した彼は、今日一日、上司による叱責を長々と受け。結果ストレス発散に、泥水状態に成るほどアルコールを摂取してしまっていた。
もし彼が、ほんの少しでもお酒を控え、もうほんの少しだけ正常な思考状態であったならば。
もし、この時間帯に公園に拠らなければ。
この後に起こる事柄は、また違った結果に成っていたかも知れない。
「う~?」
暫く、ぶつぶつを不平をもらしていた彼は。
ふと、自分が座るベンチに、もう一つのお客が居る事に気がついた。
「なんだぁ??」
どっかりと、のけぞる様に座り。空を仰いでいた顔をふと右下に向けると、盛り上がる様にベンチ上に見える黒い影。
直径30㎝高さは10㎝ほどのソレは、街灯に照らされるベンチの上に有っても、まるで光を吸い取る様に漆黒であった。
時折、ゼリーの様に、ぶるぶると震えている。
「ああん?猫かぁ?」
泥水して正常な思考状態でない彼は、明らかに異質な其れを見ながらも。猫か子犬でも寝ているのであろうと思い、臭いを嗅ぐ様な仕草でソレに顔を近づけた。
「・・・?」
暫く覗き込む様に見ていると。
ボゥ。
と、まるで血に濡れた様な赤い光が、ソレの中心から漏れだした。
「なんだよ、気持ち悪いなぁ」
呟くと彼は、その光の元が何なのかを確かめようと、アルコールで霞んだ目を細めて、さらに顔を近づけた。
そして、彼は。
漆黒の中に赤く輝くその物体と。
ぬ・・・ぎろ。
『目』を合わせた。
「ひっ!ななななんだぁ!」
其処には、直径5㎝ほどの血に濡れた朱を思わす『眼球』があった。
驚いて身を退いた彼は、手足をもつれさせ座っていたベンチから転げ落ちる様に、地面に尻餅をついた。
そのまま、両手足をかき乱すように暴れさせれ、少しでもベンチから遠ざかろうとずりずりと後ろに下がる。
が、彼に出来たのは其処までだった。
『テ・・・ケリ・・・リリ・・・テ・・・ケリ』
びゅる!
びちゃり。
「ひぃぃ!げぶごぼあぁぁ!」
ベンチに蟠っていたソレは、突然耳障りな『音』を発すると、まるでゴムのように伸び上がり。
不快な水音を立てて、彼の顔を覆い尽くした。
「ぐもっ、ごぼぼぼぼ!げはぁう!」
まるでアメーバーの様に顔面に張り付いたソレの下から、くぐもった声が漏れる。
(何だ此は!何だ此は!)
目、鼻、口、を完全にふさがれ、呼吸困難に陥った彼は、掻きむしる様に両手を顔面に這わせ、狂ったように地面を転がるが。
ソレは粘着力の高い接着剤の様に強力に張り付いて、一向に剥がす事が出来ない。
(息が!だれか助けてく・・・ひぃぃ!)
このまま、口を塞がれて、呼吸困難に拠る死亡・・・もし其れだけなら、彼はまだ幸せだったであろう。
しかし。
悪夢は其れだけでは済まなかった。
(ひひぃひひひひひ!はっ入ってくる!入ってくぅるぅうううううう)
口から、鼻から、目から、耳から・・・さらには毛穴から。
氷のように冷たく劫火のように熱い感覚が、脳を刺激する。
それに合わせる様に、顔面に張り付いていた其れは、ズルズルと顔面に潜り込む様にその体積を減らしていった。
(うひゃっ、ひゃははははははははははは!)
眼球を包み込む、ねっとりとした熱く冷たい不快な感覚。
口内を犯す異常な味覚は、人が対応出来る範疇を遥かに超え。
表皮の下を、大量のミミズが這いずり回る様な気味の悪い感触に合わせて、ぼこぼことまるでCGで合成したかの様に顔が膨らみ波打つ。
その異常体験の中、彼の精神はあっけなく崩壊した。
(ひゃははははははは・・・ひゃは?)
そして、その異形が溶け込む様に、脳に達し。
この夜、佐藤 信治と呼ばれた一人の男性は、誰にも知られると無く。
世界から『消滅』した。
図らずも、百合疑惑と言う名の不名誉な伝説を作ってしまった、一月遅れの入学から早一週間。
本日最後の授業を終えた私は、椅子に座ったまま両手を重ねて頭の上でぐっと伸ばして、慣れない授業で溜まった疲れをほぐす様に、軽いストレッチをした。
「う~、つかれたぁ」
そして、ため息一つ付き、ぐったりと机につっぷす。
「おつかれ様、翼!」
耳慣れた声に続いて、かるく背中を叩かれた感触を感じて、伏せていた顔を上げてみると。
「ほんとに疲れたよ、由美・・・」
其処には、幼なじみにして親友の顔。
「大丈夫?また熱とかだしてない??」
心配げに話掛けてくる由美に、突っ伏していた身体を固い椅子の背もたれに預け、私は返事を返す。
「う~ん、大丈夫、平気」
其の答えに、「翼の『平気』はあんまり当てにならないからねぇ」と笑いながら由美は、私の額に手を当ててきた。
少しひんやりとした手の平が、吸い付くように額に当てられる。
冷たくて気持ち良いい・・・
うっとりと目を閉じると。
『おぉ・・・』
何故か此方の様子を伺っていたらしい、クラスメイト達から低いざわめきが起こった。
何なのかしら?
「うん、熱はなさそうね」
しっとりとした手の平が額から離れる感触に、閉じていた瞼を開けて、椅子に座る私の横に立つ由美を煽るように下から見上げる。
うん、なんだろうね?納得が行かない・・・
由美といい、夏美先生といい、私に喧嘩売ってるのかしら?
微妙に不満げな私の雰囲気に気がついたのか、いぶしかげに眉を顰めると由美は不思議そうに言葉を発した。
「どうかしたの?」
「ねえ、由美?」
「なに?」
「なんでそんなに、育っちゃったの?」
「はぁ!?」
素っ頓狂な声を上げる由美を見上げながら思うのは、まだ私が入院中だった頃、頻繁にお見舞いに来てくれた由美の姿。
その頃は。
「こんなに、自己主張激しいプロポーションしてなかったのに」
「自己主張って・・・」
今の由美は、とても同い年とは思えないほど良いプロポーションをしている。160㎝を少し越えるくらいの身長は、今148㎝しかない私よりも15㎝近く高い。
うん、それはまあいい、同じくらいの身長の子はほかにもクラスに居るし、高校生女子の平均身長を少し越えてる程度の話なのかもしれない。
でもね?
「そのバストは、レッドカードだと思うの」
「反則扱い!?」
本来、学校指定の制服は、身体の線が出にくい様に作られているのに。由美の場合は上着のブレザーを、ソレと判るほど下から盛り上げている。
「2年前は、私とどっこいだったのに。いったい何がどうなってこう成ったの?」
「そんな不思議そうに聞かないでよ・・・あたしだって、こんなに成るとは思ってなかったし」
むう。
「Eくらい有りそう・・・」
「まだ、Dです!」
『なにぃ!まだDだとぉ!』
『くっ!まだ育つというのか!』
『なんて、戦闘力なのかしら!わたくし、わくわくしてきましたわ!!』
あ、まだ聞き耳立ててたのね・・・
と言うか、最後の呟き女子よね?大丈夫かしらこのクラス。
そんな中、由美は「自爆した・・・」と、猫を思わせる少しきつめの目を伏せて、がっくりと項垂れた。
肩を落とした仕草にあわせて、腰まで届くストレートの黒髪が、さらさらと柔らかに広がる。
「相変わらず綺麗な黒髪だよねぇ」
色素が殆ど無い私にとって、腰まで届く濡れた様に艶のある其の黒髪は、昔から憧れだった。
「ありがとう。でも翼の髪も取っても綺麗だよ?」
私の呟きに、由美は顔を上げて、2年前と変わらぬ柔らかな笑みで、あの頃と同じようにコンプレックスのある私の髪を褒めてくれる。
こんな処は、昔から変わってないな。
「それに、翼はほら『スレンダー&ロリフェイス』って感じで相変わらず可愛いじゃない?」
うん、一言多いのも、変わってませんでした・・・
「ロリって、どうせ私は成長してませんよぉだ」
思わず唇を突き出すようにして文句を言ってしまう。
「なんの話をしてるの?」
などと、最近は殆ど日課に成っている放課後のおしゃべりを2人でしていると、聞き覚えのある女生徒の声が話に加わってきた。
「ああ、翼はロリフェイスで可愛いよねぇって話だよ」
「ちょ、由美ぃ!」
「あはは、それは言えてるわ」
割り込んできたのは、保健委員の『倉田 和美』さん。ポニーテールがよく似合う元気が取り柄の女の子。
「今日は、体調崩してなさそうだね?」
「みんな、同じ事聞くし・・・」
入学してからの初めての一週間、実は3回ほど保健室のお世話に成っている、初日も合わせると4回
そんな理由で、保健委員の倉田さんとは当然のように仲良く成った。
3人で話をしている中、教室に残っていた(一部聞き耳を立てていた)クラスメイト達が次々にクラブや委員会に出て行く。もちろん帰宅部の人もちらほら居るみたい。
「市ノ瀬さん、倉田さん、お先ににね。由美ぃ!クラブ遅れるよ!」
そんな中、由美と同じ弓道部に所属している時田さんが声をかけてきた。
「あ、御免、今行く!じゃあ翼、夜にでもまた電話するね」
「うん、クラブ頑張ってね」
由美は私の言葉に「まかせなさい!」と軽く左手でガッツポーズをすると、教室備え付けのロッカーから必要な荷物を取り出して、手を振りながら教室を出て行った。
そんな由美の姿に、自然と微笑みがもれる。
スタイルの良い由美が弓道着に身を包んだ姿は、きっと絵に成るんだろうなぁ・・・
それにしても、由美がこの学校に居たのは、本当に驚きでした。
私がこの学校に通っているのは、良子おばさんのお陰でも有るけれど、もう一つの大きな理由がこの街に私が入院していた病院が有ると言う事。
そう言う意味では、この学校の立地条件は色んな意味で渡りに船だった。
以前住んでいた街に有った家は既に取り壊されていて、今はこの街に新しく家がある。
由美も同じ街出身だけど、如月付属の寮生に成っていて、学校から少し離れている寮から通ってると話してた。
徒歩で5分もあれば着くから「遅刻の心配が無くて良いよ」と笑って言っていたのが一寸羨ましい。
因みに、全校生徒の三分の一くらいが寮住まいって話。
と、取り留めも無く考えていると、隣りに立っていた和美さんが、私に話しかけてきた。
「翼っちは、クラブは入らないの?」
「う~ん、今は無理かな・・・倒れたりしたら迷惑かけそうだし」
「そっか、うちも帰宅部だから人の事は言えないけどね」
「和美さんは、家の手伝いがあるのでしょう?」
和美さんの家は小さな喫茶店を経営していて、学校が終わるとウェイトレスとして接客をしているって話だったはず。
「まぁ、そうなんだけどね」
からからと笑いながら、手を振ってそう答える。
「翼っちは、もう帰るよね?」
「うん、暫くは学校が終わったらまっすぐ帰る事って、お母さんに言われているしね」
私の家までは、学校から2キロ弱の距離がある。
今の私にとっては結構な運動量だけど、体力を付けたいからと私が無理を言って、今は徒歩で登校している。
ただ、やっぱり心配だからと、お母さんから登校時にちょっとした条件を付けられた。
「お出迎え、来てる?」
お出迎え、それが無理を言った私の意見に譲歩したお母さんが付けた条件。
万が一の事があっては心配と、お父さんの会社から1人、警備員が行き帰りに付き添いをする事になった。
勿論、本当に体調崩した時は、「車で迎えをよこす」って言っていました。
「うん、ほらあそこ」
教室の窓から見える学校の正門に、警備会社の制服を着た体格の良い男性が1人立っているのが見える。
「相変わらず、制服着てるんだね・・・」
「うん、返って目立つから、私服にして欲しいって頼んだけどね・・・」
直立不動で立つその人を見て、私は一つため息をついた。
渡る世界・幸せの祈り 第六話 完
結構間が空いてしまいましたね・・・
文才欲しいなぁ OTL
実は、第六話を書いている最中、セーブせずにエディタを修了してしまって、折角書いた文章が丸ごと消えると言う事態が(汗)
がっくり落ち込みました(笑)