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記憶の食事 〜帰れない僕と、帰りたい誰かの物語〜  作者: えびなま
味噌汁の記憶、希望を継ぐ娘
8/26

2-3.継がれた味と、開かれる扉

雨のように静かに時が流れる。

湯気の立つ味噌汁の香りが、ふたりの間をやわらかく包んでいた。


彼女は、両手で椀を包み込むように持ちながら、ひと口、ゆっくりと味わった。

舌の上で広がる旨味に、彼女の眉がかすかに動く。

それは驚きでも、感動でもない。ただ、遠い記憶をなぞるような……そんな表情だった。


「……この味、やっぱり……少し違う。けど……限りなく、近いです」


そう口にした彼女の瞳は、まっすぐに悠真を見ていた。


「誰かの味を探してるんだな」

静かにそう問いかけると、彼女は微かにうなずいた。


「はい。私の先祖……きっと、“稀人”だった人が作っていた味。私の母も、その味を目指して味噌を作ってきました。でも……どこかで違ってしまった。私が継いだ時点では、もう確信が持てなくて……」


手にした椀から視線を落とし、彼女は唇を噛んだ。

その肩はかすかに震えていた。


「だから、私は……本当に“あの味”を継げているのか確かめたかったんです。もしかしたら、あなたなら……って、どこかで思ってしまった」


その声には、迷いと、そして覚悟があった。


悠真は黙って、流しの端に立っていた。

湯気が天井へと立ち上り、店の中にかすかな湿り気を与えている。


彼はそのまま、空になった椀を受け取りながら、そっと息を吐いた。

それは、自分の過去――そして、帰れないという現実への、諦めの呼吸でもあった。


「……俺は、もう帰れない」

ぽつりと漏れたその言葉に、彼女の目が見開かれた。


「けど、もし料理が――この味が、お前にとって何かの“きっかけ”になるなら、協力したいんだ。それだけだよ」


悠真の声は、優しく、しかしどこかで擦り切れたような響きを帯びていた。


「……“帰る”って、ただ場所に戻るだけじゃない。思い出や、心や、何かと繋がるってことなんだと思う。そうじゃなきゃ、俺だって……とっくに帰れてたはずだから」


ふと、自分の記憶に刻まれた“あの朝食”が脳裏をよぎる。

味噌汁の香り。白米の湯気。漬物の塩気。

そして、母の姿――。


けれど、もうその姿すら、はっきりとは思い出せない。


彼は顔を上げる。

彼女はまだ黙っていたが、どこか表情が柔らかくなっているのがわかった。


「……ありがとうございます」

ぽつりと、彼女は呟いた。


その言葉は、これまでに幾度も聞いてきた感謝の言葉とは、何かが違っていた。

それは――未来を繋ごうとする、灯火のような響きを持っていた。


この瞬間、悠真の心に、彼女の姿が刻まれた。

希望を繋ぐ者。

失われた味を追い求め、次代へ継ごうとする姿――まるで、かつて帰還できず、味を遺していった稀人たちの意志そのもののように思えた。


(……そうだ。まるで“希望を継なぐ娘”のようだ)


そう心の中で名付けたとき、彼女がほんの少し笑った気がした。

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