2-3.継がれた味と、開かれる扉
雨のように静かに時が流れる。
湯気の立つ味噌汁の香りが、ふたりの間をやわらかく包んでいた。
彼女は、両手で椀を包み込むように持ちながら、ひと口、ゆっくりと味わった。
舌の上で広がる旨味に、彼女の眉がかすかに動く。
それは驚きでも、感動でもない。ただ、遠い記憶をなぞるような……そんな表情だった。
「……この味、やっぱり……少し違う。けど……限りなく、近いです」
そう口にした彼女の瞳は、まっすぐに悠真を見ていた。
「誰かの味を探してるんだな」
静かにそう問いかけると、彼女は微かにうなずいた。
「はい。私の先祖……きっと、“稀人”だった人が作っていた味。私の母も、その味を目指して味噌を作ってきました。でも……どこかで違ってしまった。私が継いだ時点では、もう確信が持てなくて……」
手にした椀から視線を落とし、彼女は唇を噛んだ。
その肩はかすかに震えていた。
「だから、私は……本当に“あの味”を継げているのか確かめたかったんです。もしかしたら、あなたなら……って、どこかで思ってしまった」
その声には、迷いと、そして覚悟があった。
悠真は黙って、流しの端に立っていた。
湯気が天井へと立ち上り、店の中にかすかな湿り気を与えている。
彼はそのまま、空になった椀を受け取りながら、そっと息を吐いた。
それは、自分の過去――そして、帰れないという現実への、諦めの呼吸でもあった。
「……俺は、もう帰れない」
ぽつりと漏れたその言葉に、彼女の目が見開かれた。
「けど、もし料理が――この味が、お前にとって何かの“きっかけ”になるなら、協力したいんだ。それだけだよ」
悠真の声は、優しく、しかしどこかで擦り切れたような響きを帯びていた。
「……“帰る”って、ただ場所に戻るだけじゃない。思い出や、心や、何かと繋がるってことなんだと思う。そうじゃなきゃ、俺だって……とっくに帰れてたはずだから」
ふと、自分の記憶に刻まれた“あの朝食”が脳裏をよぎる。
味噌汁の香り。白米の湯気。漬物の塩気。
そして、母の姿――。
けれど、もうその姿すら、はっきりとは思い出せない。
彼は顔を上げる。
彼女はまだ黙っていたが、どこか表情が柔らかくなっているのがわかった。
「……ありがとうございます」
ぽつりと、彼女は呟いた。
その言葉は、これまでに幾度も聞いてきた感謝の言葉とは、何かが違っていた。
それは――未来を繋ごうとする、灯火のような響きを持っていた。
この瞬間、悠真の心に、彼女の姿が刻まれた。
希望を繋ぐ者。
失われた味を追い求め、次代へ継ごうとする姿――まるで、かつて帰還できず、味を遺していった稀人たちの意志そのもののように思えた。
(……そうだ。まるで“希望を継なぐ娘”のようだ)
そう心の中で名付けたとき、彼女がほんの少し笑った気がした。