2-2.受け継がれた味、語られる記憶
店「Tsumugi」の扉が開かれたのは、午後も傾き始めた頃だった。表通りの喧騒から離れたこの静かな場所に、陽の光が優しく差し込んでいる。
カウンターの一番奥、壁に寄せた席に座った彼女は、背筋を伸ばし、しかし緊張を隠しきれない様子で、ゆっくりと息を吐いた。
悠真は、彼女の目の前に湯気の立つ茶を置くと、厨房に戻りながら一言だけ言った。
「味噌汁から始めよう」
鍋に火をかける。出汁をひき、味噌を溶かすその手順に、悠真はひときわ慎重になっていた。目の前に座る彼女の持つ“何か”が、確かに自分の過去と繋がっている気がしてならなかった。
やがて、味噌の香りが店内を満たすと、彼女の肩がふわりと緩んだ。
「この匂い……やっぱり、どこか違う」
カウンター越しに置かれた椀を見つめながら、彼女は小さく呟いた。
味噌汁を口に含むと、彼女の表情がほんの少しだけ和らぐ。
「……これは、私の味噌汁じゃない。でも、きっと……祖先が思い描いていた“本当の味”なんだと思います」
悠真は、静かに彼女の言葉を待った。
「母が小さい頃に聞いた話なんです。曾祖母——もっと昔のご先祖様が、どこからか“味噌”という不思議なものの作り方を持ってきて……ずっと、家で受け継がれてきたそうです」
彼女は、遠い昔を思い出すように目を細めた。
「そのご先祖様は“帰りたい”といつも言っていたと。でも、何を望んでいたのか、何処に帰りたかったのか、誰もわからないままでした。ただ、味だけが受け継がれて……」
「……味噌が?」
「ええ。味噌と、ほんのわずかな料理の記憶。私の母も、それを“伝えなきゃいけないもの”だと信じていた。でも私は、ただの古い習慣なんじゃないかって、ずっと思ってて……でも、さっきの匂いに気づいたあなたがいて、やっぱり、この味はどこかに繋がってるんだって……そう思えたんです」
その語り口には、迷いと、それでも失いたくない何かへの誠実な想いが宿っていた。
悠真は、静かに彼女を見つめていた。
――繋いでいるんだ、この人は。
遥か昔、帰りたかった誰かの想いを。たとえ形が曖昧になっても、言葉で伝えられなくても、この味を手放さずに抱いてきた。
「……君が継いできたものは、きっと“味”だけじゃない。想いも、記憶も、全部だ」
そのとき、悠真の胸の奥に、ふと一つの言葉が浮かんだ。
——希望を、継なぐ者。
そう、彼女はきっと、絶えかけた灯を繋ぎ続けてきた。“帰れなかった誰か”の想いを、今もこの世界に残している。
「……“希望を継なぐ娘”。俺には、そう見えるよ」
思わず洩れた言葉に、彼女は小さく驚いたような顔をしたが、すぐに照れたように微笑んだ。
「……なんだか、もったいないくらいの呼び名ですね。でも……ありがとうございます」
味噌汁の湯気は静かに揺れ、その香りが二人の間に、見えない記憶の糸を紡いでいくようだった。