1-5.ただいまを紡ぐ場所
『Tsumugi』の扉が、静寂の中で小さく軋む。
陽が落ちて、街灯の明かりが窓から漏れ入る頃、悠真はゆっくりとその扉をくぐった。
長い旅の後、心身からまとわりついていた森の匂いも、もう薄れている。
それなのに、どこからか吹き抜けた風が、あの『転移石』の神殿で感じた寂寥を蘇らせた。
(……俺は、もう帰れない)
それは疑いようのない現実だった。
だが、だからといって、意味がないわけじゃない。
それどころか、帰れないからこそ、できる役目がある。
「……次、鍋の用意をしておくか」
呟きながら、悠真は火をおこし、鍋をかけた。
出汁の香りが立ち上り、味噌の風味がそれをまとってゆっくりと広がる。
『紡ぎ』という名の小さな店の中で、確かな温もりとなって満ちていく。
その瞬間、心の奥で、微かに芽吹いたものがゆっくりと葉を伸ばした。
『ここから旅立つ誰か』のための、たった一杯の味噌汁。
それが、帰りたくても帰れない自分が紡げる、せめてもの糸なのだ。
「……できたよ」
呟きながら、できあがった一椀をそっとテーブルへ。
それは、これからやってくるであろう『稀人』のためのもの。
過去から受け取った味と、未来へ紡がれる想いを、温かな湯気の中へと宿した一杯。
『紡ぎ』という名の小さな扉が、また次の『旅人』を迎え入れる。
それが、浅海悠真という男が辿り着いた、たった一つの『意味』だった。
•
次の朝。
『紡ぎ』の前で、まだ名も知らぬ若い旅人が立ち止まり、看板を見つめていた。
その横顔から滲み出るのは、どこから来たのかわからない、不安と迷い。
何かを求め、何かを失って、彷徨う『稀人』の姿。
悠真は、厨房からその姿を見つめながら、静かに微笑んだ。
(……きっと、こいつも『帰りたい』という想いを、どこかで落としてきたのかもしれない)
『紡ぎ』の扉を、ゆっくりと押し開ける旅人。
その瞬間、木と木がこすれる、やわらかな音が店内に響いた。
「いらっしゃい。よければ、味噌汁でもどうだ?」
そう声をかけたその声だけが、どんな魔法よりも確かで、温かな力をまとっていた。
帰りたくても、帰れない男の小さな店。
『紡ぎ』という名のその場所で、また新たな糸が紡がれていく。
それが、浅海悠真の、確かな『ただいま』となる。