1-4.神殿での絶望と、変わり始める役割
森の奥、苔の生えた神殿の中で、悠真はその石に触れていた。
『転移石』と伝えられる、淡い光をまとった石の表面。
その輪郭だけが、夜明けの暗がりの中でぼんやりと白く輝いている。
掌を当て、額を預け、身も心もその冷たさに預ける。
だが、何も起きない。
何も応えない。
何年も、何十年も同じことを繰り返してきた。
「……やっぱり、そうだよな」
呟きが、低い声となって神殿の奥に落ちる。
転生してから二十年、求め続けた『帰還』の扉。
その鍵となる『転移石』は、もう、悠真を“異郷”へと連れ戻してはくれない。
それだけ、心も体も、この世界のものとなってしまったのだ。
その意味が、痛いほど身に沁みる。
「それでも、まだ……『帰りたい』って、思っちゃうんだよな……」
呟きながら、固い石畳の上に膝をつき、拳を握り締めた。
その手の中には、昨夜旅の途中で手渡された、古びた漆塗りの椀がある。
それは、かつての『稀人』が遺したもの。
遠い過去、ここで『帰りたい』と願いながら、叶わずに朽ちたであろう、名もなき旅人の証。
その重みが、心臓の奥をぎりりと締めつけた。
(……俺だけじゃない。俺だけが、帰れないわけじゃない)
そう思えたとき、胸の中で、何かが微かに動いた。
その『何か』は、悲しみに似た、諦めとは違う、ほんの小さな芽吹き。
それが何であるか、まだ言葉にはできなかった。
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陽が昇り、森の影が神殿を覆う頃、悠真はゆっくり立ち上がった。
『転移石』が、ほんの一瞬だけ、温もりをまとったように見えたが、次の瞬間には、元通り、静寂と冷たさの中へと沈んでいった。
それでも、悠真の心の中で、確かなものが芽吹き始めていた。
「……俺は帰れない。でも、他の『稀人』たちなら、まだ……」
その言葉が、声となり、森の空気へ解き放たれる。
「俺は、もう、帰る側じゃない。『帰る理由』を、思い出せないやつの『糸』を紡いでやれば、いい……そうだよな?」
問いかけた相手は、神殿の静寂だけだった。
それでも、どこからか吹き抜けた風が、森の葉をさらさらと鳴らした。
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『Tsumugi』へ続く森の小径を、悠真はゆっくりと歩き出した。
その背中から、ほんのわずかだけ、影が落ちた。
帰りたくても、帰れなかった旅人たちの影。
その影が、ほんの一瞬、ほんのわずかだけ、陽の当たる側へと身を投げた。
(そうだ……もし、次に『帰りたい』やつが現れたなら、俺ができるのは、そいつの『理由』を紡いでやることだけだ)
その覚悟が、心の中で確かな輪郭となる。
『転移石』も『神殿』も、ただの石と建物となって、森の奥へと姿を消していった。
それでも、悠真の心の中で芽吹いたものだけは、静かで、確かな温度をまとっていた。