1-3.旅と情報と、希望の破片
『Tsumugi』の扉を一旦固く閉め、悠真は旅支度をしていた。
ここから一日、東へ向かえば、森の奥に古い神殿があるという。
もう何年も使われていない、朽ちた遺跡の一角。
噂では、そこに「帰還の石」があるという。
「……どうせ、また同じだろうよ」
そう呟きながらも、荷を背負う手が止まることはない。
確率など関係ない。ただ、何もせずにはいられないだけだった。
旅の途中、小さな村に立ち寄れば、行商の老婆が声をかけてきた。
「あんな森の中、何しに行くのかねえ」
「……神殿があると聞いて」
「へえ、まだあんなところへ行く若いのがいるとはねえ。もう、何もないよ」
そう言いつつ、老婆は古びた籠から何やら布で巻かれたものを取り出した。
それは、漆の塗りが剥げ、角が欠けた木椀。
日本から来たであろう、器の面影があった。
「……これ、どこで」
「聞いた話じゃ、何代も前、どこからかやってきた旅の若者が遺していったそうだよ。
『帰りたい』、そう呟きながらも、結局ここで命を終えたとな。
もし、あんたも同じなら、こいつを供えに行ってやんなさいよ」
そう言って、老婆はその椀を悠真の手に握らせた。
漆の手触りが、ほんの一瞬だけ、日本で過ごしたあの日々を蘇らせた。
その温もりが、指先から胸の奥へ静かに広がる。
(……そうか、ここで生きた『誰か』も、同じものを求めてたのか)
その夜、森の手前で焚火をしていると、手元の椀が火影でゆっくりと照らされていた。
それを眺めながら、悠真は呟く。
「俺だけじゃ、ないのか……。帰りたがって、帰れなかったやつが、たぶん何人もいて。
それでも、何かを遺していった、ってことなのかな」
その呟きが、夜の風の中へと消えた。
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次の日、古い神殿の石段を一歩一歩登る。
苔の生えた石畳、蔦の巻きつく柱。
その奥で、淡い光をまとった『転移石』が、静寂の中に佇んでいた。
悠真は、そっと手を伸ばした。
その表面に触れた途端、心臓がどくりと跳ねる。
(……でも、何も起きない)
何度も、何年も、同じだった。
強く願えど、石からの応答はない。
それが意味しているものも、わかりきっていた。
──もう、自分の『糸』は、この世界と固く結ばれている。
それでも、なお手を離せず、額を石の表面へと押し当てた。
「……帰りたいよ」
呟きが、喉からこぼれた。
それだけが、まだ彼自身であることの、確かな証のようだった。
その夜、神殿の外で一晩を過ごした。
小さな焚火の側で、手元の椀を撫でながら、空を仰ぎ、呟いた。
「帰りたい。でも、もう帰れない。だからせめて……」
その先の言葉は、森の静寂へと呑まれていった。
ただ、握りしめたその器だけが、夜の暗がりでほんのりと温もりを宿している。
それは、遠い過去から紡がれた、名もなき『糸』の一端なのかもしれなかった。
次の朝、立ち上がる頃には、旅の荷も心も、ほんのわずかだけ、ほんのわずかだけ、軽くなっている気がした。
「……行こう。俺も、紡がないとな」
神殿を後にして、森の奥へ、町へ、そして『Tsumugi』へ。
彼の旅は、まだ続いていた。