1-2.店と異世界と、日本料理
昼の『Tsumugi』は、ゆっくりとした時間が流れていた。
通りから一本入った静かな路地、木の看板が風で小さく揺れている。
それがこの街で、数少ない“日本の味”を出す料理屋の印だ。
「よし、今日はこれでいこう」
悠真は、火を入れた鍋から立ちのぼる湯気を眺めながら呟いた。
味噌、出汁、そして漬物。どんなに年月が経っても、これだけは身体から抜けない。
異世界へ転生してから二十年が経つが、心のどこかで、まだその味を求め続けている。
この街の料理といえば、塩や胡椒、香辛料たっぷりの肉料理が主流。
日本の味など、ほんの一握りの好奇心から口にされるだけで、決して華々しいものではない。
それでも、『Tsumugi』の扉をくぐる客たちは皆、何かを求めてやってくる。
「よお、やってるか」
姿を現したのは、常連の商人だ。
肩を叩きながら、笑みをこぼしてくる。
「もちろん。今日は焼き魚もあるよ」
「おっ、楽しみにしてたぜ! この、身がふっくらしてて、塩だけで勝負できる味……たまらないよな!」
そう言って席につく商人の姿を見ながら、悠真は小さく笑う。
(そう、塩だけでも、十分うまい)
日本で当たり前だったその一言が、ここでは何より新しく、何よりも懐かしく響く。
それが、彼自身をこの世界へ繋ぎ止めてもいる。
肉と香辛料の強い味の中で、白身魚の優しい旨味、出汁の豊潤さ、漬物の爽やかな酸味が、静寂の中でじわりと口へ広がる。
それを求めて、毎日のように『Tsumugi』の扉が開く。
ある日、旅装の男が店に入ってきた。
異国の服を身につけ、どこから来たのかわからないが、どこへ行くのかわからない表情をしている。
「……これが、噂の“日本風”というやつか」
「そうだよ、日本の味。まぁ、口に合うかわからないが、よければどうぞ」
そう言って出したのは、炊きたての白米、焼き魚、そして湯気立つ味噌汁。
旅人が一口、箸を運ぶたび、表情が少しずつ和らいでいった。
「……不思議だな。どんな豪華な料理より、心が落ち着く」
「そう言ってもらえると、作り甲斐があるよ」
旅人が席を立つとき、ほんの一瞬だけ、何かを思い出したような目をしていた。
それが、何であれ、悠真にはわからない。
それでも、自分の料理が、どこから来たかわからない旅人の心の片隅で、何かを紡いでいることだけは、確かだった。
『Tsumugi』の看板の意味を知る者は、この街にはそう多くない。
それでも、風の吹く静かな通りで、ほんの一瞬だけ、日本の味が、どこからか来た旅人の記憶を照らしている。
(……それで、十分なのかもしれない)
そう思えた夜、悠真は鍋の火を止め、静寂の中で一息ついた。
遠い日本の、あの一瞬の温もりが、ここでまた芽吹いている。
その確信だけが、帰れない男の心を、ほんの少し救うのだった。