1-1.異世界の朝、変わらぬ味噌汁
第1話「異世界の朝、変わらぬ味噌汁」
朝霧が石畳の道に薄く流れ、屋根の上で鳥がさえずっていた。
目を覚ました浅海悠真は、静かな深呼吸を一つして、厨房に向かう。
木の床に足を踏み出す音は、今日も変わらない。
火を起こし、湯を沸かす。味噌をとき、干し野菜の出汁がじわりと溶けていく。
——それは、あの朝と同じ動作。彼が最後にいた世界の、最後の記憶。
「……あの時の味噌汁、もうどんな味だったかも分かんねえな」
呟いた声が、鍋の湯気に吸い込まれていく。
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ここは異世界。文明は中世から近世への過渡期にあり、魔法は日常の補助程度。
料理文化は基本的に“肉と塩”に傾いており、日本のような“だし”の文化はない。
そんな中に、ぽつんと存在する小さな店がある。
——『Tsumugi(紡ぎ)』
異世界語で綴られたその看板の意味を、現地人は知らない。
けれど、もし日本人がいたら、きっとこの言葉に立ち止まるだろう。
(帰れなかった俺が、それでも紡いでる)
悠真は、開店準備をしながらそう思う。
この世界に来て、もう20年。
15歳のとき、目を覚ましたらこの世界にいた。記憶は曖昧で、「学校に行くために家を出た」ところまでしか覚えていない。
でも、不思議と、最後に食べた朝ご飯の味だけは、やたらと鮮明だった。
白ご飯、味噌汁、漬物、そして前日の晩ご飯の残りの野菜炒め。
質素で、どこにでもある、けれど彼にとっては“帰りたい味”の象徴だった。
(……だから、ここに作ったんだ。日本の味を)
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『Tsumugi』は、街の大通りから一本外れた、静かな通り沿いにある。
客席は10〜13人程度しか入らない。けれど、それで十分だった。
「よう、今日も味噌の香りが漂ってるな」
朝一番の常連が声をかけてくる。小柄な老人、現地の言葉しか話さないが、通じ合う部分はあった。
「今日は、焼き魚。脂の乗った白身だ。いい香りがするぜ」
「いいねえ。お前の焼き加減は、魔法よりも信用できる」
悠真は笑った。
かつては言葉の壁に苦労した。だが今では、料理が“共通言語”になっている。
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昼になり、一見客がふらりと入ってきた。
「珍しい料理」と噂を聞きつけた旅人だろう。
「これは……豚の衣揚げ? ……う、うまい。なにこれ」
「トンカツってやつだ。こっちの油じゃうまく揚げるの難しいが、コツがあるんだよ」
客は何度もうなずきながら、皿を空にした。
こうして、料理を通して誰かと繋がる時間が、悠真の心を少しずつ支えていた。
けれど——
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夜になり、灯りを落とした店の中で、悠真はひとり神殿の地図を見つめていた。
——この街から、徒歩で一日。
山道の奥にある、古びた神殿。その奥に、転移石がある。
かつて彼は、何度もそこに足を運んだ。
「帰れるかもしれない」という淡い希望を抱いて。
だが——
(駄目だった。……20年も経てば、もう魂が“こっち”の世界のものになっちまってるらしい)
転移石は、想いの強さに応じて“繋がり”のある世界へと導く。
だが今の悠真にとって、現代日本はもう“異邦”なのだ。
それでも。
それでも、帰りたいという想いは消えない。
(帰りたい。……帰れなくても、“帰りたい”って思い続けることだけは、捨てたくない)
その想いを、鍋に込めて、今日も味噌汁を作る。
味は——少し、しょっぱくなっていた。