第8話 悪喰姫と影の暗殺者
朝食を終えたあと、たまには婚約者らしい事をしようとルーと一緒に庭を散歩することにした。
最近は様々な事件が起きていてゆっくりする時間もなかったし、丁度良く今日は空が澄み渡っていて、心地よい風が吹いている。
「シェリー、手」
「ん?」
私が不思議そうに手を差し出すと、ルーはそれをそっと握り、指を絡めてきた。
「……っ!」
「こ、こうすると、もっと仲良しに見えるって」
「だ、誰に聞いたのよ、そんなこと」
「侍女が教えてくれた」
「……もう…」
そう言いつつも、ルーの手の温もりがじんわりと伝わってきて、私は顔を上げられなくなる。
ルーは私の反応が面白いのか、くすくすと笑った。
「シェリーって、意外と純情だよね」
「意外とって何よ!? ルーが変なこと言うからでしょう!」
「変なこと? 」
ルーは私の手をぎゅっと握る。
「俺は……シェリーのこと……」
「……っ!!」
ちょっ!? 待って待って! もう無理! 顔が……可愛すぎて死にそう……
「ごめん、ちょっと鼻血……鼻血が出そう……」
私はルーの手を振りほどいて、一人で先に歩き出した。 一回落ち着かなければ……どうしよう……とりあえずエルマの顔を思い出して……
ルーは「えぇ……大丈夫?」と困ったように笑いながらも、すぐに追いかけてきた。
◇◆◇
その時だった。
突如、地面に伸びる木の影が不自然にうねり、黒い刃が私へと向かってきた。
「——っ!?」
避ける間もない。そう思った瞬間——ルーが私を強く抱き寄せた。
「ルー!?」
「危ない!」
影の刃がすぐ横をかすめ、地面をえぐる。
「シェリー、俺の後ろに!」
ルーの青い瞳が鋭く光る。
すると、影の中からゆらりと黒装束の男が現れた。
「姫様!!」
「殿下!」
少し離れた位置で警護していたジルベールとエルマが駆け寄ってくる。
「何者だ!」
「我は影なる刃、カシム」
ルーの問いかけに名乗った暗殺者は再び影へと沈み、次の瞬間には別の場所から攻撃を仕掛けてきた。
「ちっ……!」
ルーは私を庇いながら、何とか攻撃をかわしている。
ジルベールとエルマが武器を構えたが、暗殺者はするりと影に溶け、攻撃の機会を与えなかった。
相手は影を自在に操り、影の中を自由に移動し攻撃してくる。 避け続けるだけではいずれ限界がくる……
「ルー! 私が悪喰で──」
「駄目だ!」
ルーは珍しく強い口調で制した。
「俺が……シェリーは俺が守る」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
(ルー……)
しかし、暗殺者は不敵な笑みを浮かべながら低く囁いた。
「くくくっ、お前達に我を捉える事は不可能だ」
ルーは手を握りしめる。
「くっ……!」
周囲の影がまるで生き物の様に私達を囲むと、一斉に襲いかかってくる。
「きゃっあ!」
ルーもエルマもジルベールもそれぞれを襲う影に対処している。 私を襲った影は私の両手を拘束すると徐々に人の姿に変わっていく──
「くくくっ、チェックメイトだお姫様」
目の前の男は鈍く光るナイフを振り上げ、私の胸元へ突き立てようとする。
(大口の発動が間に合わないっ!!)
『やめろッ!!』
ルーの声が響いた。
「なっ……に!?」
突然、暗殺者の動きが止まる。
『──跪け』
空気が一瞬にして重くなり、圧倒的な力を持つ言葉が場を支配する。 まるで見えない鎖が絡みつくように、男の体がびくりと震え、無理やり膝をつかされた。
「ぐっ……!? 何を……!」
『貴様はもう動くな』
「ぐっ……がぁッ!?」
暗殺者は必死に抗おうとするが、ルーの命令に逆らえないみたい。 全身が小刻みに震え、抵抗しようとするも、そのたびに苦しげに呻く。
(これって……まさか……恩寵の力?)
ルーはゆっくりと私の方を振り返る。
「……シェリー、もう大丈夫」
彼の手が、そっと私の頬に触れる。
気づかぬうちに震えていた私の身体が、ルーの手の温もりで少し落ち着く。
「ありがと」
「ん。 よかった」
安堵したように微笑むルーの顔を見て、胸が締め付けられる。
──その時だった。
影が再び動き、刃となって襲って来た。 暗殺者本体は動けなくても影は動かせたみたい。 だけど、大口はスタンバイ済みだ──
私の意思に応じて大口が息を吸い込み、周囲の空間ごと影を虚空へと飲み込んでいく。 影の力を奪われた暗殺者は、抵抗する間もなくビクッと跳ね、口から泡を吹いて倒れた。
静寂が訪れる。
「はぁ……」
戦いが終わったと実感し、私は大きく息をついた。
「シェリー、大丈夫?」
ルーが心配そうに私を覗き込む。
「うん、ルーこそ……無茶しないでよね」
「無茶、かな……?」
ルーは少し困ったように笑う。
その笑顔が可愛くて、私は思わず顔を赤らめた。
「あ、ありがとう、シェリー。 それと……」
ルーが少し恥ずかしそうに顔を逸らす。
「それと?」
(うふふ、恥ずかしそうな顔とか可愛い……)
「……鼻血でてるよ?」
言われて鼻を触ると、確かに何か温かいものが……。
「へっ? ちょっ!? これは……ち、違うのよ?」
「もしかして怪我した?」
ルーの瞳から一瞬でハイライトが消えると、泡を吹いて倒れている暗殺者に向かっていく。
「えっと、ちがっ……違うの! これは怪我じゃないの」
「じゃあ、何?」
「あうっ……ちょっと……気分が高揚して……」
「姫様、とりあえず鼻血を止めましょう」
私が言い淀んでいるとエルマが鼻にティッシュを突っ込んでくる。
「ふがっ!? ちょっと何するのよ!」
「殿下、ご覧の通り姫様のお召し替えが必要ですので先に失礼させて頂きます」
エルマが優雅に一礼すると私をヒョイと抱えてその場を後にする……
「エルマ……アナタ、やれば出来るじゃない!」
自室に戻ると、それまで真剣な面持ちだったエルマが途端に締まりのない顔になる……
「姫様! えへへへ、どぉして鼻血出しちゃったんですかぁ? そこら辺詳しく知りたいなぁ? 皇子とイイ雰囲気だったじゃないですかぁ? ね〜ね〜、一体ナニ想像して鼻血が出たんですかぁ?」
一瞬でもエルマを見直した自分がバカだったわ……
鼻息荒く聞いてくるエルマを無視して私は一つ溜め息を吐くと、鼻を押さえて目を閉じるのだった。