台風
台風はまだ来ていなかったが、雨がさあさあと降り始めた。雨とは思えん程、幾町先の山のてっぺんが明瞭であった。山の中腹には薄い雲がかかっていて、これには大いに感動した。この美景で、ただの雨であれば、いずれ来る台風の姿は頗る美しいのだろうと思った。それから突然心臓が高鳴ってじっとしていられんようになったから、足早に下宿へ帰った。
下宿に着いても尚、私の心の中で台風が、祭囃子の如く騒いでいたから、至極台風のことが気になって、ついには下宿の亭主に、台風はいつ来ます、と訊いた。すると亭主が、台風は明日来ることは来るが、君何故そんなに興奮しているのかね、と言った。自分では気づかなかったが、私はその時、高揚のあまり息切れをしていたらしい。床に就いても私の台風は収まらなかったので、なかなか寝付けなかった。
びゅうという音で目が覚めた。
太陽を遥か遠くへ投げつけて、その代わりに海よりも深き靄を寄越したような空であった。
台風が来たのだ。
がらんと戸を開けて外に出た。雨に打たれながら見た空は、台風らしき渦状の雲ではなく、ただ、どこまでも続くような一筋の雲であった。
私はそれに失望するどころか感動さえ覚えた。渦状である台風が一筋にしか見えないのである。つまり、ここからは台風のほんの一部しか見えんのである。なんという大きさだ。自然の壮大さを目の当たりにして、私はこの下宿一軒、この台風に献上してもよいとさえ思った。大きさに感動したら、次は台風の真中へ行ってみたくなった。台風の真中には台風の目というのがあるらしく、そこには一切の風雨が存在しないらしい。台風の目に居ることを想像した私は悟った。
光差す所には影が浮かぶ。台風は強大な風雨を纏うがその目には、穏やかな空が広がっている。愉快な時こそ、時は無情に流れ、美味い物を食えば、後が名残惜しい。なるほど、私は生きる意味などないと思っていたが、どうやらそういう訳でもないらしい。
そう考えていると亭主が出てきて、君、そんなに雨に打たれちゃあ風邪を引くよ、と言った。私は、ええ、と亭主に言って、久方ぶりに笑顔を見せた。