05
「ティエルぅ、ティエルぅ〜……もうヤダぁ、私も家に帰るぅ〜……」
「あーあー……とりあえずまぁ、落ち着きなさいよ。今はここがあんたの家なんでしょうが」
久方ぶりに顔を合わせたもう1人の幼馴染は、ティエルの顔を見た途端糸が切れたように幼児返りした。
エルサは兄とよく似たこっくりと濃い金色の髪の綺麗な女性だ。子供の頃は日焼けで目立っていたそばかすもすっかり薄くなり、抜けるような白い肌が際立って美しい。化粧係の腕も良いのだろう、流行の化粧を乗せた綺麗な鼻梁は垢抜けて一際美人になった。なっていた。今涙と鼻水で全て崩れたが。
「え、エルナ様……!?」
「い、いいからちょっと二人きりにして。変なことにはならないから」
恐らく人前でここまで泣き崩れるのは珍しいのだろう、狼狽えたセシルを部屋から追い出し、エルナの肩を抱いて二人でソファに腰かける。正直な話、ティエルも少し狼狽えていた。体調を崩してるとは聞いていたが、まさかここまで精神不安になっているとは。
ぐちゃぐちゃに崩れた化粧の下からは酷い隈が現れて、元々細い方ではあったがより肉が落ちたような印象も受ける。
「ティエル、私とんでもないことしちゃったのよ、身の程知らずだったの、せ、正室だなんて、私、わたしには無理なのよぉ」
泣きじゃくるエルサの為に湯を借りて暖かなハーブティーを淹れる。泣き過ぎて鼻声のエルサは、受け取ったカップの取手を震える指先でつまむが、慣れていないのかいつ落とすか心配になる所作だ。
「エルサ、普通に飲んでいいわよ。どうせここじゃどんなマナーで飲んだって見てる人いないんだから」
「でも、でもね、こうやって飲むのが普通なんですって。私の所作は下町くさいって……陛下のためにも笑われないようにならなきゃいけないのに、私……」
あぁ、また止まっていた涙が決壊してしまった。細い、けれども生まれつきの令嬢とは違う苦労の刻まれた硬い指先で涙を拭いながら、エルサは必死に言葉を紡いだ。
「あのね、ティエルは王族の話なんて興味がないから知らないでしょうけど、陛下もね、庶子なの。お兄様がお亡くなりになった12歳の頃まで城下町で暮らしていらっしゃったのよ。私、その頃から何度かお会いしたことがあって。でも陛下自身、その生まれでとてもとても苦労なさっているの。それに加えて私みたいな下町の女を迎えるとなると、周りの反対もものすごいのよ……。だから私も陛下も、今少しでも上げ足を取られることの無いように過ごさなければならないの。なのに私ったら、全然馴染めなくて……」
「そりゃあまぁ、いきなり貴族のように振舞えなんて言われてできる人の方がおかしいわよ。あんたは十分綺麗になったわ、頑張ってるわよ」
それだけ環境が変わり、更に周囲の助けも乏しいとなると気の病にもなるだろう。
「最悪その陛下とやらに泣きつきなさい。そもそも無茶を承知であんたを嫁にしたのはその男なんだから、苦労も覚悟の上でしょうよ」
「でも、迷惑かけたくないの。陛下のこと愛してるのよ」
化粧の崩れた横顔は、弱弱しいけれど凛とした美しさがあった。不意に、ティエルは目の前の人が知らない遠い世界の人になってしまったように感じた。たった五年で、彼女は私の知らない女性になってしまった。
ひとしきり泣いた後、ある程度落ち着いたのか憑き物が落ちたような顔でエルナは顔を上げる。
「聞いてくれてありがとうね、ティエル。少しだけ気が楽になった」
涙をぬぐって、にこりと笑うエルナにティエルは何も言えなかった。弱りながらも笑って、それでも好きだと言える愛をティエルは知らない。
「……結婚、取りやめる気はないのね。私としては、ここまで体調を崩す結婚なんて反対なんだけど」
「うん。どっちにしろ取りやめはできないわ。兄さんも陛下もそのつもりでいるだろうし、私も覚悟してここに来たんだもの」
でも弱音吐きたくなっちゃうの、ごめんね。へにゃりと笑うエルナを、ティエルは小さなため息とともに抱き締める。
「気分を鎮めるハーブをいくつか用意するわ。気分の高ぶり押さえてよく眠れるようなものをいくつか。それでもだめなら男達なんて放って帰ってきなさい。ギルだって、いざという時の逃げ道ぐらいは作れるはずだから」
「うん。ありがとうティエル。やっぱり会えてよかったわ」
「……礼を言われるようなことは、してないわ」
会って、実際自分が何をできただろうかと思う。ただ話を聞いただけ、泣いていた彼女の隣にいただけだ。それでも満足げなエルナの表情が会ってすぐよりも幾分柔らかくなったことに安心する。
「ティエル、いつまでこの街にいるの?また旅に出るつもり?」
「どうしようかな。とりあえず3ヶ月はこの街にいるわ。貴方の晴れ姿だけは見ていくわよ」
「よかった。ティエルにも見て欲しかったの。ティエルは私の家族だから」
扉が軽く叩かれる。振り向けば、微かに開いた扉の向こうでセシルがもの言いたげにこちらを覗いていた。
「そろそろ時間みたい。あんたも大変ね」
「こちらこそ、わざわざ来てくれてありがとうティエル。また良ければ遊びに来てね」
ひらり、と軽く手を振ってティエルは部屋を出た。どこか浮ついた、現実感のない足取りでセシルに案内されるがままに再び城の通路を歩く。数分歩き、ようやく元の部屋が見えなくなった頃、ティエルはぽつりと呟いた。
「変わるものね、人間って」
決して悪い変化ではないはずなのに、まるで一人だけ置いて行かれたようで、少し寂しい。
独り言はセシルにも聞こえていたはずだが、セシルは何も言わなかった。なんとなくティエルの不安定な感情を察していたのかもしれない。ただ無言で城壁の外までティエルを送り届け、最後に生真面目な声で「面会の同行、感謝する」と言う。
「最後にもう一つ、騎士団長より依頼状を預かっている。協力は任意だが、出来れば協力いただきたいとのことだ。受け取ってくれるだろうか」
「……あぁ、うん」
ぼんやりと、二つ返事で丸めた紙束を受け取る。セシルは少し心配そうに眉を下げ、けれどそのまま見送ってくれた。
城の周辺は、やはり人が多い。人ごみに流されるように、ティエルはゆっくりと帰路についた。
流される。流されていく。周りの人間は地に足を付けて歩き出しているのに、自分一人が浮草のように流されるだけの日々を送っている。自分の知らない場所で幼馴染たちは居場所を見つけ、愛を育み、評価を得て、しっかりと暮らしているのに。
「……今更、何気にしてるのかしらね、私は」
羨ましい、と思ってしまったのだ。少しだけ。
旅に出て、知らないうちにすべてが進んでいたのが寂しいと思ったのだ。
でもそれは全て、今更の話。旅に出ると決めた自分の選択の結果だ。
自分は、何か変わったのだろうか。この5年間でーー祖母を亡くしてから今までで。
『いずれちゃんと、あんたが生まれた意味を理解する日が来る』
それは希望であり、呪いの言葉でもある。
鬱々と考え込んでいたティエルは、故にその異変に気付けなかった。
キンと、耳鳴りがするような静寂。
気が付くと、ティエルは誰もいない路地裏に立っていた。うなじから背筋にかけて、違和感に鳥肌立つ。そこで初めて、ティエルは足を止めて辺りに視線を配る。指先から血の気の引いていく緊張感。今確実に、近づいてはいけない危険が自分のそばに忍び寄っていることを自覚する。
路地裏の奥、何かが蠢いていた。黒い泥のような、それでいて熊よりも大きい塊だ。それは見るだけで悍ましく、それに触れたらただでは済まないだろうと主張してくる。ぐちゃり、とそれが蠢いて、そこから白い棒のようなものが飛び出してくる。
人の手だった。
一瞬の躊躇ののち、ティエルは懐からマッチ箱を引き抜いて躊躇いなくそれを擦った。燃え上がる小さな炎を目の前の黒い塊に投げつけながら、ティエルは声を張り上げる。
「竈の女神ヘスティの名の下に希う、炎の精レグ=バスティ、今ここに浄化の炎を!」
瞬間、舐めるように橙色の炎が地を這い、黒い塊を飲み込む。それは不思議なことに塊から飛び出す手を焦がすことはなく、それ以外の泥のような闇だけを燃やし尽くして払っていく。
黒い塊は、その炎に声なき呻き声をあげてのたうち回った。ティエルはその様を食い入るように睨みつけながら、2本目のマッチに指をかける。
けれどそれを擦ることはなかった。炎に恐れをなしたのか、黒い塊はその体躯に似合わぬ機敏な動きで路地の向こうへと姿を消す。その場には崩れ落ちた人影と、ティエルだけが残された。
嫌な汗がじっとりと背筋を伝う。残された炎の欠片がティエルの足元まで這ってきて、小さな蜥蜴に姿を変えると嗄れた声を上げた。
『コノ街ハ厄介ナモンガ居ヤガルナ』
「助かったわ、レグ。貴方がいなかったら私も危なかった」
知識としてはティエルも知っている。けれど実物を見るのはティエルも初めてだった。魔女、妖精、そういったものと共に御伽噺の世界に足を踏み入れている、すでにほとんど使い手がいなくなったもの。
呪い。あれは、魔女の呪いだ。