今じゃない、いつかの未来に。
わたしの恋人は、「優良物件」だ。
収入はそこそこだけど、実家が遠いし次男だし、真面目で優しくて家事が得意。
ただし、セックスだけは逸脱している。
私だけが知る彼の秘密。かといって、全てを知っているわけではない。不透明なベールに隠された彼の本音を、知りたいのか知りたくないのか、いまいちわからない。わからないまま、同棲生活が続いている
私は美濃瀬 瑠夏。
画数が多すぎて、習字の度に舌打ちをした過去を持つ。運の悪いことに、習字が盛んな地方都市に生を受けたので、小中高と格闘する羽目にあった。
狭いスペースの記名に煩わされなくなった現在は、地元から離れた総合病院で管理栄養士をしている。
恋人の八木周志くんは、同じ病院に勤める理学療法士だ。画数の少なさに惹かれて恋をしたわけではない……と、思う。たぶん。
周志くんは、中肉中背でほんわかした雰囲気。コンタクトが苦手でメガネを愛用している。
目立つ外見ではないけど、そこそこモテる。女医、患者さん、看護師、出入りの業者さんなどに、ゆるやかに地味に、でも常にモテている。
話し方が優しいとか、出しゃばらないけど気さくだとか。
「近くで見ると整ってる! まつ毛ながっ!」っていう、隠れイケメンだとか。女性が安心できる要素で形成されている人だと思う。
彼女がいることは隠してないけど、私と付き合ってることは秘密だ。病院内は別に恋愛禁止じゃないんだけど、隠してるカップルの方が多い。公言するときは、結婚するときって不文律があるからかな。不倫の方が大っぴらかもしれない。変な職場だ。
「うーん」
子どもみたいに無防備に、彼が寝返りをうった。
カーテンの隙間から差し込む月の光が、裸の上半身に青白い線を描く。
付き合って5年。同棲をはじめて3か月。
4、5畳の寝室は、大きめのダブルベッドでいっぱいいっぱいだ。寝るためだけの空間。寝返りがうてないのは嫌だって意見が一致して買ったんだけど、正解だなって思う。
昼間の周志くんは、本当に優しい。重い荷物は持ってくれるし、管理栄養士の私より料理がうまいし、家事の分担も嫌がらない。
本人は凝り性だけど、ズボラな私に苛立つ様子はない。自分がやる分には完璧を求めるけど、同居人のズボラは気にならないらしい。
色白の頬を、指でつついてみた。
眠りが深い彼は、一度寝たら朝まで起きない。
たぶん、働き過ぎだろう。
昼は病院で働いて、夜はレザークラフトを製作している。
アマチュアのレザー作家なのだ。
私も、周志くんほどガチじゃないけど、趣味でレジンのアクセサリーを作っている。出会いは、クラフトマーケットだった。たまの休みがおこもりでも不満がないのは、ふたりして趣味がインドアだからだ。
周志くんの場合は、どっちが本業かわからない域だ。ボーナス月以外は、副業の稼ぎが本業をしのいでいる。
生活全般に、手を抜かない。ニコニコしながら根を詰める。そりゃ、疲れるよね。
多少ツンツンしたくらいじゃ、起きないよね。
見た目は草食系で実際に優しいけど、夜の激しさだけが、ちょっと常識的でない。
途中までは優しいけど、スイッチが入ると『メスを犯して貪り尽くすモード』になることがある。
彼らしい気遣いが消えて、飢えた獣みたいに、ひたすら貪られる夜が、ある。毎日じゃないけど。
そんな夜は、彼にまとわりつく不透明感が少しだけ薄まる……気がするのは何故だろう。
事後になると、すっごい自己嫌悪するんだけどね。
別に、私は嫌じゃないんだよ?
体力的にはきついけど。多分彼は「穏やかないい人」を演じている。意識的にか無意識か、両方か。
けっこうなアザが残ったりはするけど、本音をぶつけてもらえてる気がするのは、悪くない。自分が彼にとって必要な人間なんだって思えるから。
解せないのは、どれほど行為が獣じみても、避妊だけはおざなりにしないこと。絶対にしないこと。
まだ結婚してないから、大切にされているのだと思う。でも、むしろこちらの方に深い闇を感じるのはなぜだろう。
つんつん。
「ねえねえ。あなた、私と結婚する気、ある?」
ぷにぷに。
熟睡中の周志くんは、本当にガチで起きない。
子どもが生まれたら、夜中のミルクを手伝ってくれないパパ確定なのに。
それでも、なんでだろう。
この人の子どもを、授かりたいと思ってしまうのは。
◇
「昨夜は、ごめん!」
夜ご飯を食べ終わった頃に、インターフォンが鳴った。
古ぼけたモニターに、土下座しそうな勢いの周志くんが映っている。
合い鍵があるんだから、自分で開ければいいのに。
扉を開くと、夏の匂いがした。夜なのに、じっとり湿った空気。白衣も脱がずに帰宅した彼に、ギュッと抱きしめられた。
蒸し暑い外気と病院のにおい、彼自身のにおい。なぜだろう。胸がじめつけられる気がする。
「前も言ったと思うけど、謝らなくていいのよ?」
野獣モードの次の日、周志くんはこの世の終わりみたいな顔でケーキを買って、土下座の勢いで謝ってくる。確かに昨日は、いつもよりちょっとさらに激しかったかな。左手を捻挫しちゃう程度には。
「痛かっただろ? 」
全身のキスマークはあたりまえ。強く押さえつけられた両手首は、左が捻挫で右は青痣が残っている。痛みはないけど、同僚にはDVを疑われている。
「痛くはないよ。見た目、すごいけど」
恐る恐る体を離して、すがるように見つめられた。
「ごめんなさい」
視線が、手首に巻いた包帯から、首筋のキスマークに移動して、また手首に戻った。
「オレ……」
「そりゃ、毎日じゃ体がもたないから困るけど。イヤそうに見えた?」
「夢中になりすぎて、わからない……」
そんな状況なのに、なんで避妊を忘れないんだろう?
その一言を、わたしはなぜ聞けないのだろう?
聞いてはいけない気がする。でも、近く知らなくてはいけない気もする。
わたしは彼の背中に手を回して、肩に顎をのせて、ひとつだけ本音をささやいた。
「前も言ったと思うけど。夢中になってもらえて、嬉しいって言ってるでしょ? たまにならいいわよ。その……き、気持ちよかったし」
「……天使かよ」
天使か。そんな無垢じゃないなあ。
というか、周志くんは私が嫌がることはしないし、絶対に言わない。
口淫を断ると、即座に舌打ちした元カレの方が性的にイヤだったし。
さらに前の彼氏には『瑠夏みたいに、バカじゃないけど頭良すぎない女が、いちばん丁度いいよな』って舐めた笑顔で頭を撫でられたっけな。
……思い出しただけで、むかついてきたわ。
ただ、子どもが生まれたらやめてほしいな。子どもには、みせたくないもん。絶対に。
そう思った瞬間、少し先の未来が、真っ黒になった気がした。
「瑠夏?」
不安げな呼びかけで我に帰ると、さっきより強くギュッとした。今は、今だけを見ていたい。今は、今だけは。
悩みすぎの周志くんに、冷凍の餃子とフリーズドライのお味噌汁を出した。
周志くんは、また眉毛を下げている。叱ってないのに、叱られた犬みたい。
「ねえ。ほんと気にしすぎよ?」
軽くデコピンしたら、「やっぱ瑠夏は天使」と呟かれた。評価が甘すぎて、反応に困る。
つけっぱなしのテレビには、おもしろくもつまらなくもないバラエティ番組が流れていた。
周志くんが食べ終わる頃には、戦争の特番に変わっていた。夏だなあ。
病院に勤務するようになって、お年寄りと接する機会が増えたからだろうか。
この時期になると、やたら戦争の話を聞く、
いや、周志くんが、割と関心があるからかな。
患者さんたちと黙祷してるとこ、遠目に見たことあるし。
今も、さりげないようで割と熱心に、シベリア抑留兵だった老人のインタビューを聞いているし。
『兵隊に出た時に5歳だった息子が、知らんうちに成人しよってな。そりゃ、5年満州にいて、10年シベリアじゃあ、なあ。成人するわなあ。びっくりしたなあ。でも、他はみんな空襲で死んでて。なんで、ワシは生き残ったんか……』
食べ終わった食器を手に、周志くんが立ち上がった。
私たちは大抵、自分の食器は自分で洗う。洗濯物も。
いつのまにかそうなっていた。疑問を抱くことなく、自然に。
でも、何でだろう?
今日は、その自然が、不自然に見えた。
食器を洗う彼の、シャツの裾を掴んでみた。
「ねえ。何かあった?」
「……いや」
慣れた手つきで食器を洗い、水切りカゴに移してゆく。
「あ、うん。隠してもしょうがないか。俺、妹の話したよね」
「うん。施設にいるのよね。自閉症だったよね」
「……ああ。生まれつき病弱で、入退院をくりかえしてたんだけど、癌が見つかった。余命1年だって。……短命だって、覚悟はしてたんだけど」
テレビのインタビュアーは、別の老人にマイクをむけている。
『ヒロシマで被曝した母は、昭和35年に原爆症で亡くなりおってん。同じ頃に、あたしの姉も白血病で儚くなって。……あたしは、90の今になって癌じゃろ。関係ないって、お医者さんは言われはったけど……』
私は何も言えないかわりに、テレビを消した。
リモコンを掴んだままアイランドキッチンの向こう側に手をのばすと、後ろから抱きしめられた。
「あと1年って言われて、職業人の俺は納得してるんだよ。けど、兄貴としてのオレは、実感ないというか、嘘だろって思ってる」
「そりゃ……そうなるよね」
「オレのこと、ウーイくんって言うんだよ。シュウジって発音できなくて。仲良くはなかったし、妹のせいで旅行にも行けないってムカついてたのに。なんだろな」
「……」
人に優しいというか、気が利きすぎる彼のルーツは、そこか。ヤングケアラーとまではいかなくても、障がい児のきょうだいはわりと空気を読める子が多い……気がする。コロニーで看護師をしている妹の受け売りだけど。
「ピカのせいかな」
おもむろに、彼が自嘲した。
ピカ? ピカチュウ? なんでいきなり?
「同棲までしてるんだから、ちゃんと話さなくちゃだよな。ごめん、逃げてた」
罪を告白するような、深刻な声音だった。
生きていく上で、多少の秘密は誰だってある。わたしにも、ある。
ただ、彼の場合、その秘密がすごーく重くて、人知れず息切れをしている。家族とか、恋人とか、仕事とか、友達とか、自分以外の存在には癒せない傷。そういうものを背負っていて、下ろすことを諦観している……そんな印象は持っていた。いつの頃からかはわからないけれど。
セックスで解放できるなら、それもアリかなって思う。痛いのが好きなわけじゃないけど、こっちも夢中だから、最中は気がつかないし。
私たちはゆるゆると身を離して、なんとなくダイニングテーブルで向き合って座った。
「オレは、瑠夏と結婚したいと思ってる。瑠夏はどう思ってる?」
「私はしたいけど。周志くんは微妙かなって思ってた」
「そんな空気出してた?」
「ん。出さないように頑張ってた、的な?」
「そっか……瑠夏にはバレるんだよな。何事も」
「そう?」
「……結婚はしたい。一生一緒にいてほしい。けど、子どもが……いらないっていうよりは、こわい、かな。覚悟ができない」
きょうだいに重度障害児がいる人にとっては、わりとポピュラーな恐怖なのだろうか。
重度自閉は遺伝疾患ではないけれど、自閉症スペクトラムになるとどうだろう。発達障害児の周囲には、高確率で生きづらさを持つ身内がいるらしいし。
「母さんの祖父母……つまり、オレの曾祖父母は、ヒロシマの人、なんだよね。兄さんとオレと妹は、被爆4世っていうのかな」
「ピカって……」
「ん。曾祖父母は、被曝して10年くらいで亡くなったらしいよ。2世の祖父は今も元気だけど、弟をふたり小児がんで亡くしている。3世の母さんは3人きょうだいの長女で健康だよ。上の叔父さんも元気だけど、下の叔父さんは血液の癌で闘病してる。上の叔父さんの子は3人いて、長男がB型に通ってる。下の叔父さんの子は、今のところみんな健常。うちはオレと兄さんは健康だけど、妹は病弱な障害児。みんながみんな障害があるわけじゃ、ないんだけどさ」
「………」
「父さんの親戚には、病弱も障害児もいないんだよ。医学的に原爆症の遺伝性を否定されてても、オレにはピカとの因果がゼロとは思えん」
「……」
「……子どもが妹みたいだったら、たぶん愛せないと思う」
爆弾発言を連発した後、彼は「オレ、全然優しくないんだよね。そう見えるように生きてきただけで」と口の端を歪めて笑った。
なにもわからない妹に比べたら、いじめてくる奴も、理不尽な教師も、孤立しがちな同級生も、つきあいやすい部類だ。日本語が通じるし。少なくとも、オムツの中の排泄物は投げてこない。
学校の方が、断然楽だった。
毎日、家に帰りたくなかった。
就職して、家を離れて、呼吸がしやすくなった。
妹を邪魔には思わなくなったことで、罪悪感からも解放された。
何もかも順風満帆だったのに、なぜセックスだけが異常になったのだろう。
学生時代からの恋人に「無理」と別れを告げられた。
離れる方が普通だ。
でも、瑠夏は赦してくれた。受け入れてくれた。だからこそ愛しいけど、いつか壊してしまいそうでこわい。
彼の告白は、いつしか別れの方向に舵を取っていった。
わたしは逆に、自身のとまどいに、彼が持つ不透明感に、納得していたのだけど。
周志くんは何かに深く傷ついている。そんな疵の存在になんとなく気がつきながら、詳細を聞けなかった。
それを聞いたら、私たちの関係性は変わってしまうかもしれない。そんな予感がしたから。
別れるだけなら、まだいい。イヤだけどマシだ。
そうじゃなくて、周志くんが自分を消しちゃったら?
この部屋から、病院から、この街から、あるいは……?
この恋にはそんな不安が、危うさが、半透明のベールみたいにつきまとっていて、年々濃度を増していた。
今まではうまく言語化できなかったのだけど、そういうことだったのか。彼の告白より先に言語化できてなくてよかった。
話を聞くにも、聞き出すにも、タイミングってあるだろうから。
おもむろに、話題を変えた。
「私って、だめんずメーカーみたいなんだよね」
目の端に涙を浮かべていた周志くんが、まばたきをした。
「どうしたの? いきなり」
「付き合う男が、別れる頃にはたいていクズになるのよ。妹いわく、必要以上に甘やかしすぎるんだって」
「……言ったら失礼だけど、わからなくはない、かな?」
恋をすると尽くしたくなって、料理から身の回りのお世話から、なんでもかんでもやってしまう。もともとはズボラなめんどくさがりなのに。
だから、かな。それが当然になって命令とかされたり見下されたりし続けると、ある日突然に冷める。今までの献身はなんだったの? ってイキオイで冷める。そうなるともう、謝られようが態度を改めようが無理になって、一目散に逃げてしまう。
試し行動の一種なんだろうか???
そんな私を、周志くんがストップをかけてくれた。
「嬉しいけど、無理したら続かないよ」
「掃除はオレの方が得意みたいだけど、得意な方が全部やるのは違うから一緒にやろ」って。
確かにセックスは野獣だけど、体調不良の日は野獣モードに入る前に気がついて距離をおいてくれるし。
周志くんにとっては、当たり前のことをしてきただけかもしれない。でも、私は救われた。
だから、今度はわたしの番だ。
「私と付き合ってダメ男にならない周志くんは、私にとって、大変貴重な存在です。優良物件です。結婚してください」
「へ?」
「一生一緒にいたい気持ちがあるなら、返事は『イエス』か『はい』で」
「もしもし? 瑠夏さん???」
「次の週末に、お見舞いにいきましょ。義妹の顔くらい見たいわ。福知山だったよね?」
「瑠夏!」
「周志くんは、私と別れちゃダメ! 少なくとも今はダメ! ひとりにしたくないっ!!」
テーブルを叩きながら立ち上がると、つられたのか彼も立ち上がった。
シャツの襟首をつかんで引き寄せた。
「お願いだから、ひとりにならないで……!」
いつも優しく微笑んでいる茶色の目が、大きく見開かれた。
周志くんを、失いたくない。
近く訪れる妹さんの死が、彼にとって何かのトリガーになるかもしれないのに。
だって、妹だよ。家族だよ。私にも妹がいるし、高校生くらいまではそんなに仲良くなかったけど、あの子がいない世界には、きっと耐えられない。
「一緒に乗り越えることは、できない?」
抱きしめたら抱き返してくれたから、答えはイエスだ。それ以外、認めないし。
周志くんが、子孫を残したくないならそれでいい。その気持ちは尊重する。
だけどわたしは、周志くんが受けつぐ血の話を聞いても、彼の子を授かりたいと思う気持ちが変わらなかった。自分でも、不思議なくらいに。
私は天使なんかじゃないし、なんなら障害者に対する差別もある。担当した患者さんの中には、かわいいと思う人もいるけど、ムカつく人もいる。自分の子どもだったら、どうだろう。産んでみなくちゃわかんない。
ただ、周志くんの子なら、絶対的にかわいいし、愛せる。
これは思いこみじゃなくて、恒久的な事実だ。
後日、原爆資料館に行って、胃の中のものを全部吐いても確信が変わらないんだから。もう、認めるしかない。
この思いを、いつか打ち明けたい。
押しつけはしないけれど。
今じゃない、いつかの未来に。