第4話 僕とサチコさん
意に反して、次の日、いつもの日常が始まりました。
考えようとしていたことは、なんだったのでしょう。
手掛かりがないと、やっぱりというか、どこから着手していいのか分からないものです。
……あきらめよう。
午前中はだれ一人も来なく、場所柄なのか、波風の立たない水面のように、しーんと静まり返っていました。
日課でもある読みかけの電子書籍をARディスプレイで眺め読みながら、アールグレイの紅茶を全自動で淹れます。
これはボディを持った方をもてなす用で、やっているとその匂いを感じ取れ、ありありとイメージできそうだからです。
こうして、自分のボディを、少しでも認識しようとするのです。
そのまま時間は昼を過ぎ、あっという間に午後4時を回りました。
ネコの欠伸が聞こえてきそうでした。
そろそろかな……。
帰宅途中からなのでしょう、セーラー服姿のサチコさんが我が家さながら入店してきます。
端から端まで丁寧にじっくり見てまわっていく、いつものルーティン。
それでも慌ただしく映るのは、いかにもサチコさんらしい。
その姿を目の端で追っているうちに、ふと、うらやましいな……と思ってしまいました。
あんな風に生き生きと動き回れたなら。
サチコさんと一緒にだったなら、どんなにいいことなのだろう。
いけないいけない、いつまでも引きずってちゃ。
それともこういう感情は、大切な宝物みたく、大事にし続けるものなのかしら。
病気と診断されていないことが、逆にむずがゆく、もどかしい。
誰かとこの気持ちを共有したい――。
「溜め込むとよくないよ?」
目の前にサチコさんが、あきれ顔と心配顔をまぜこぜに、腕組みして立っています。
デフォルトのVR映像を投影していたはずなのに、どうやってこちらの心情を察知したのでしょう。
もしかして切り替え忘れていた?
「毎日店を開けているでしょ?たまには休んでもいいと思うんだよね」
「ありがとうございます。でも、身体は無いですけど、動いていた方が気持ちが楽なんです」
そこまで言って、これまでのことを一瞬にして思い返し、もしかしたらこの人ならと意を決して
「言ってましたっけ?僕、以前は生体義体を使っていまして」
くんくんくんくんくん。
「空気がよどんでるなー。だめだよ、生身じゃなくても、こんなんじゃコンポストじゃない、死の島行きの生ゴミになっちゃう」
センサーで常時感知はしているけれど、そんな感覚は新鮮だった。
「それに、カラダを意識しているなら、オシャレやメイクにも気を遣わなきゃ」
「でも僕はVR体で……」
「見た目の微調整はできるんでしょ?パラメータだっけ?色々変えて気分転換!……ふう。カラダの管理って大変だよ。元気な時はいいけれど、そうでない時に、なんでもっとちゃんとしとかなかったんだろう、って思っちゃう」
「違います!」
ハッと我に返り、たまらず俯いて赤面してしまいます。
「すみませんでした……感情を昂らせてしまって。でも……」
「そんなに身体が恋しい?」
「!」
「一度持たないものが味わってしまうと、失った後に、禁断症状に近いものが出るらしいよね。でもクロさんはどうも違うような気がする」
思わず身を乗り出していた。
「また生体義体をつくりだすのはとても簡単なこと。だってクロさんはつくるのを禁止された訳じゃない。それなのに、拒んでる。うーん。考え方が古いんだよ。それとも……前のカラダに恋しちゃった?」
したり顔で頬と頬を近づかれると、嫌ではないけれど、近すぎてどうも引け目を感じてしまう。ううっ……
――クオリアを検知しました。ん?
「わ、分かりません!ズルいです、サチコさんはっ。人の……いえ、というかそんなに表情パターンを豊かにしてないのに、よく機敏に読み取れるものですね」
「これでも人生経験長いからね~、マンモスを男どもと狩ったこともあるよ」
適当な相槌を返します。
「では生まれて十数年の僕なんか赤ちゃんですね。もしかして、サチコさんは35人のイヴのひとりなんじゃないんですか?」
もちろん冗談だった。こっそり検索して、35人のイヴの名前、アフリカ:レイラ、ジャスミン、アマラ、ルルワ、ニーナ……を一瞬にして引き出し、無いことを確認する。
(参考までに一部を抜粋します。
アフリカ:レイラ、ジャスミン、アマラ、ルルワ、ニーナ
アジア:エミコ、チョウ、サナ、ガイア、ミカ
ヨーロッパ:ウルスラ、カティア、タラ、ヘレナ、ヴェルダ
中東:ナスリーン、ウルムラ
オセアニア:ポリネシアン・イヴ
アメリカ:アイシャ、インカ)
サチコさんは、何とも言えない、まるでどこか遠くを寂しく望んでいるかのような様相を見せ、
「猛吹雪の中」
「?」
「いくら叫んでも、泣きわめいても誰にも届かない。あるいは、喉の潰れた体の不自由な透明人間」
「みんな前を通りすがるばかりで、何をしてもどうやっても何も通じ合うことはない。伝えたいことが、伝えられない。人は薄情だよね。理解できないものにはとことん無関心。というか、気づけないのかな。そういってしまうと、これはお互いにとって不幸なことなのかもしれない。そうなると人間ってけっこうタイトロープな生き物で、お互いを勘違いし合いながらこの地上を闊歩している――」
「待って、待って!いったい急に何を言っているの?今日のサチコさんはどこか変。まるで――」
「得たものからしっかり考えてみて」
そういうと、何事もなかったかのようにそのまま帰って行ってしまいました。
あとには、訳も分からずにいる僕だけがそこに取り残されていました。