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リーリエに対するいじめはますます過熱し、ジャガイモどもはそんなリーリエを守ろうとしてますますリーリエを疲弊させた。
そうして、ほぉら、気付けばリーリエの心安らぐ場所はあたくしとの逢瀬の時間だけ、あたくしのとなりだけ!
ああ、なんて甘やかな時間だったのかしら。
あたくしはしあわせだった。リーリエがあたくしのために作ってくれた焼き菓子を食べながら、彼女と一緒に本を読み、疲れた彼女を慰めて、そんなあたくしに嬉しそうに顔を赤らめて微笑んでくれるあの笑顔!
そう、リーリエが本当はとても美しい容姿をしていることに気が付いたのはそのころの話だったわ。
そのころのあたくしにとってはもう彼女が大根だろうがかぼちゃだろうがニンジンだろうがなんでもよかったのだけれど、長い前髪を分けてその奥に隠されていた金翠の瞳を見た瞬間、あたくしはまた彼女に恋に落ちて、そして同時にその想いがまた決して叶わない恋であるということも知ったの。
金翠の瞳。
ご存じかしら、現国王陛下の妹君、若くして亡くなられたリリス殿下。
あの方の瞳も、隣国から嫁がれてきた先の国王陛下のお妃様譲りの金翠の光を宿していらしたことを。
ええ、あたくしはたまたまそのことを知っていた。知らなかったらよかったのに、知っていたのだから、よっぽど運命とやらはあたくしの初恋を許してはくれないのでしょうね。だからあたくしだけが赦してあげるの、とは、先程も言ったことだったかしら。
少し調べさせればすぐに解ったわ。
リーリエの誕生日と、孤児院に預けられた時期。リリス殿下のご逝去の日付と、その十か月前にかの君に長く使え続けていたというとある護衛騎士の自殺。
そう、すぐに解ったの。リーリエは、リリス殿下の隠し子であり、王太子にとってはいとこにあたる、すなわち王族であるということに。
リーリエ。リーリエ。あたくしの美しい百合のひと。
あなたをあたくしだけのものにすることなんて、きっと簡単なことだった。王太子と結婚したって、現状として『孤児院育ちの平民』でしかないあなたを囲い込んでしまうことなんて、あたくしにはたやすいことだったのよ。
おわかりかしら。いいえ、きっと理解なんてしてくれないのでしょう。それでいいのよ。あなたはそのままでいて。あたくしの美しい百合のひと。
ふふ、いやね、感傷的になってきてしまったわ。あたくしらしくもないこと。
そう、あたくしは結局、リーリエを囲い込むことなんてできなかった。温室の中の百合も美しいけれど、野に咲く強き百合もまたとても美しいんだもの。リーリエにふさわしいのはあたくしの腕の中ではないことはもう解り切っていたわ。
だからあたくしは、もう彼女に会わないことに決めたの。卒業記念の夜会のために、彼女のためだけに仕立てた真っ白なドレスを贈り、ジャガイモどもにはリーリエの出生の秘密をほのめかして。
リーリエはなんとかあたくしに会おうとしてくれた。今まであんなにも細心の注意を払ってあたくしとの関係を隠していたくせに、ジャガイモどもや、小鳥さん達の目なんてもう構っていられないとばかりに、あらゆる機会を使って彼女はあたくしを求めてくれた。
あたくしはひどくてずるい女だから、リーリエが伸ばしてくる手を無視して、時には振りほどいて、ひとりになることを選んだわ。
それでもなおあたくしに伸ばされるリーリエの白い手に、どうしようもないほどの歓喜と絶望を感じながら。
そうやってどんどん日々は過ぎて、いよいよ明日、学園の卒業式が開かれる日になった。学生寮の自室で、あたくしは明日の夜のために用意させた黒のドレスを眺めていたの。
明日の夜、卒業記念の夜会。
すべてが終わる夜が来ることを、あたくしは誰よりもよく理解していたから、その覚悟を改めて胸に宿すための儀式だった。
その時よ。
窓の方から、コツン、コツンと、続けざまに小さな音が聞こえてきたのは。
気付かずにいればよかったのに、気付かなければよかったのに、気付くべきではなかったのに、そうでなかったら、気付いたとしても気付かないふりをすべきだったのに。あたくしは。
窓から差し込む月明りに導かれるように、その窓を開け放していた。
そうして見下ろした階下の中庭にいたのは、予想通り、リーリエだった。
明日の夜のために、ジャガイモども達がこぞって彼女を磨き上げたおかげか、彼女の灰色がかった白髪は白銀に輝いていて、綺麗に整えられた前髪は、もう彼女の金翠の瞳を隠してはいなかった。
いくら春先だとはいえ、夜は冷えるわ。それなのにリーリエったら、夜着にゆったりとした上着を一枚羽織っただけの姿でそこに立っていたの。
風邪でも引いたらどうするつもりだったのかしら。あたくしが看病してさしあげたいけれど、そんなこと許されないし、きっとリーリエだって望まないことでしょう。
それなのにね、リーリエは、あたくしのことを呼んだの。降りてきてください、って、お願いの口調でありながら、それはもうきっと強制力をはらんだ命令で、彼女への恋の奴隷と化したあたくしには逆らうすべはなくて。
そうしてあたくしも夜着の上にガウンを羽織って、わざわざ彼女の元まで走ったわ。
淑女にあるまじきふるまいよ。走ることだけじゃないわ、夜着で外に出ることも、いくら同性相手の元であるとはいえ、真夜中に護衛の一人も付けずに誰かと二人きりになることも、そして何より、決別したはずのリーリエ・ジェロニーの元へ赴くことも。
全部、全部、赦されてはいけないことだった。それでもあたくしはリーリエの元に走ったの。
初めてだったわ。まともに彼女の顔を見上げたのは。そう、見上げたのよ。いつも猫背だった彼女が凛と背筋を伸ばした姿は、あたくしよりも頭一つ分背が高いくらいだった。
月明りに浮かび上がるその姿は、まさに大輪の百合の花。直前まで黒のドレスに対して抱いていたはずの決意も誓いもすっかり忘れて、あたくしは彼女の姿にうっとりと見惚れてしまったものよ。
あのときのリーリエは、本当に美しかった。
けれど見惚れてばかりもいられなくて、あたくしはわざと冷たく彼女を突き放したの。
今更平民がこのあたくしに何の用かしら、そろそろご自分の立場を理解なさるべきではなくて? あたくしと貴女では生きる世界が違いましてよ、ってね。
リーリエはね、怒らなかった。怒ってくれなかったの。ただ、悲しそうにその長く濃い白銀の睫毛を伏せて、あたくしを見下ろしてきたわ。
リーリエのあんなにも悲しそうな顔、初めてだった。
……だめね、あたくしの決意も誓いも、リーリエのそんな顔を見たら、もうだめだった。
リーリエにはいつだって笑っていてほしかった。リーリエはどんな表情でもとっても魅力的だけれど、やっぱり笑顔が一番よ。その笑顔の中でも、あたくしに向けてくれる、頬を薄紅に染めたはにかんだ笑顔があたくしはいっとう大好きで……と、これは余談だったわ。そう、それで、結局あたくしが白旗を上げる羽目になったのよ。
もとより勝てるはずがなかったんだわ、惚れた方が負けとはよく言ったものね。
何の用かしら、と問いかけるあたくしに、リーリエはその白い手を差し伸べてくれた。幾度となくあたくしが無視し、振り払った手を、彼女はまたあたくしに差し伸べてくれたの。
ワルツを、と、リーリエは言ったわ。
卒業記念の夜会では、慣例として卒業生はワルツを踊ることになっている、とは、誰にも知れたことだったわね。
リーリエはどんな教科でも極めて優秀だったけれど、ダンスの授業の成績はあまりよろしくなくて、あたくしはここぞとばかりに「あたくしと練習しましょうね」と約束を取り付けたものよ。それが叶う前に、あたくしは彼女の手を放してしまったのだけれど、リーリエは、その約束を覚えていてくれた。
練習しましょう、と、それだけを言って、その美しい金翠の瞳であたくしを熱く見つめて、白い手を差し伸べてくる彼女に、やっぱりあたくしは抗えなかった。気付けばあたくしは、自らの手をリーリエの手に重ねていた。
そうして踊ったわ。ふふ、笑ってしまうのだけれど、リーリエったら、男性パートを踊るのよ? 女性パートはとびきりが付くくらい下手なのに、男性パートはあたくしが舌を巻くくらいお上手で、あたくしはずぅっとリードされっぱなし。
――――ああ、楽しかったわ。嬉しかったわ。しあわせだったわ。
夢のような時間だった。リーリエと二人きりで踊るワルツのステップ、そのひとつひとつが何よりもとうとい天のきざはしを登るかのようだった。
でも、夢はいつかは覚めるもの。永遠に続いてほしいと確かに願った時間は終焉を迎え、あたくし達はそれ以上は何も言わずに別れた。
もういいと思えた。あのワルツの時間がこの胸にあるのならば、あたくしはもう何も望むものはなかった。
そして、夜は更けて、後は知っての通り。
あの夜会で、リーリエは誰よりも美しく咲き誇り、あたくしの恋心のための喪服を着たあたくしは王族であるリーリエに対する虐待の罪咎を問われ、王太子との婚約を破棄され、こうして地方の修道院に護送されているというわけよ。おわかりかしら?
修道院、楽しみよ。きっとまた素敵な小鳥さん達がいっぱいいるわ。リーリエほどではないでしょうけれど、きっとみんな、さぞかしかわいらしいことでしょう。
リーリエはきっと、王宮で、誰よりも美しく咲き誇る。きっと恋もするのでしょう。そして王族として、誰よりも何よりも幸せになり、いずれ子供も……あ、あら、あらあらまあまあ、いや、いやね、何かしらこれ、どうして涙が出てくるのかしら。
もう諦めたつもりだったのに、もう大丈夫だと思ったのに、それでもまだリーリエ、彼女のことを想うと涙があふれるの。
ふふ、さすがリーリエだわ、いつまで経ってもこの心に咲き誇る、美しい百合のひと。
誤解しないでほしいのだけれど、あたくし、悲しくて泣いているのではなくてよ?
むしろ嬉しいの。だって何もかもうまくいったのだもの。
あたくしはよくやったわ。王太子妃になると定められていた運命を捻じ曲げて、本懐を遂げたんですもの。
これこそ誰もに認められるべきハッピーエンドと呼ばれるべき結末でしょう? 秘密の百合の姫君は晴れて王宮で咲き誇ることとなり、悪しき毒花の令嬢は断罪され修道院へ。
ほぉら、完璧なハッピーエンド!
ぜんぶ、リーリエのおかげよ。ああ、なんてすがすがしい気分なの――――あら?
ねえ、どうして急にこの馬車は停車し…………………………え?