5
そう、問題はその数日後だったわ。
久々に図書館ではなく中庭の東屋で、あたくしとリーリエは二人きりで過ごしていたの。
別に何かとくべつなことなんて何ひとつなかったのだけれど、ただ彼女が隣にいてくれて、同じ時間を共有することをゆるされている、それだけであたくしは不思議と満たされていた。
図書館の小さなテーブルが聖域だと言うのなら、その東屋はひみつの鳥籠とでも呼べばいいのかしらね。
世界にはあたくしとリーリエだけ。
せまくてもかまわない、あたくしだけの大切な鳥籠。
そこに無粋にも飛び込んできたのが、先日の暴漢だったわ。
逆恨み、とでも言えばいいのかしら。とはいえ刃物を取り出してきたとか、そういうわけではないのよ。そんな度胸なんて持ち合わせていない矮小な屑だったもの。
暴漢、もとい屑は、あたくしに泥水をかけようとしたわ。今時幼子でもそんな真似はしなくてよ。まったく短絡的なこと。
あたくしの大切な秘密の鳥籠を壊してくれたその屑のことが赦せなくて、あたくしは泥水をかけられそうになってもかまわずに、屑のことを叩きのめそうとしたのだけれど――そうさせてくれなかったのが、リーリエだった。
もう、あの子、どこまであたくしの予想を裏切ってくれれば気が済むのかしら!
リーリエったら、あたくしのことを庇って、頭から泥水を被ってしまったのよ!? もう、もう、なんなのかしらあの子!
呆然とするあたくしに捨て台詞を吐いて屑は逃げ去って、リーリエは泥水まみれで、もう、とにかく呆然とするしかなくて。
でもそのままでいられるわけもなかったから、あたくしはやっとの思いで正気を取り戻して、リーリエを学生寮の自室まで引っ張り込んだの。
学園の生徒は基本的に寮生活を約束させられていて、学生専用の公衆浴場が当然のものだったのだけれど、あたくしの部屋には特別に浴室が用意されていたから。
ぐちゃぐちゃの泥水だもの、一人じゃ落とせないでしょうから、まずは彼女が制服を脱ぐのを手伝おうとしたのだけれど、ね。
ああ、思い出すだけでぎゅうと胸が締め付けられるようよ。
あの時ね、あたくし、初めてリーリエに拒絶されたの。
一人でできるから、出ていってほしいって。
あたくしがどれだけ言葉を尽くしても譲ってくれなくて、最終的には突き飛ばされるような形で浴室から追い出されてしまって……ねえ、閉ざされた浴室の扉の前に座り込んで、リーリエが放つ水音を聞きながら、あたくしが何を考えていたと思って?
あたくし……そう、あたくしね、リーリエのことを心配しなくてはいけなかったのに、それよりも、ただ、ただ、リーリエに嫌われてしまったかもしれないと思って、それが怖くて怖くて仕方がなかったの。
あんな恐怖、後にも先にもあれっきりだわ。
だってそうでしょう、リーリエはあたくしのせいで屑に泥水をかけられたのよ? あたくしに怒って当然だわ。あたくしを嫌って当然だわ。
もう二度とあの聖域に帰れないのかもしれないと思うと、もう怖くて怖くてどうしようもなくて、気付いたら子供みたいに泣き出していた。
自慢ではないけれど、あたくし、泣いたのは赤子の時だけだったと評判でしたのよ?
それなのに、リーリエに嫌われたかもしれないと思ったら、それだけで涙が止まらなくなってしまって。
浴室の扉が開かれたとき、あたくしは確かに、断頭台の刃が持ち上げられる音を聞いたの。
みっともなく泣きじゃくるあたくしに、リーリエは、それはもう驚いて、それから、とっても慌てていたわ。
あたくしに視線を合わせるようにしゃがみこんでおろおろと取り乱すリーリエに、あたくし、なんて言ったと思う?
そう。きらわないで、よ。
お願いだからきらいにならないでと、あたくし、泣きながらリーリエにすがったの。
なんてみっともない真似をしたものかしら。社交界の紫薔薇が聞いてあきれるわ。
でもね、そんなあたくしにも、リーリエはやっぱり優しかった。
そおっとあたくしの頭を撫でてくれて、きらいませんよ、あなたがすきですよ。そう、言ってくれたの。
ああ、なんて優しいリーリエ! あたくしの美しい百合のひと!
きらわないで、なんて、ずるい言い方よね。そんな言い方をされたら、優しいリーリエの答えは一つしかなかったのに。
ええ、あたくしはずるい女だった。リーリエの優しさを利用して、あたくしは途方もない安寧を手に入れたの。
そして気付いたわ。そう、やっと気付いたの。きらわないでほしいと、あたくしはリーリエに対して思っているのだと。それはつまり、あたくしがリーリエに好いてほしいと思っているのだということよ。
そう、そういうことよ。リーリエが好いてくれるのはどんな存在なのかしら。
泥水事件以来、気付けばいつでもそう考えるようになっていた。あたくしらしく、なんて今更目指すべきものではなく、未来の王太子妃として、を目指さなくてはならなかったのに、ねえ、変でしょう。あたくし、幼いころから定められた運命を、自ら否定しようとしていたの。リーリエが好む、リーリエが好いてくれる存在に、なりたいと。そう思ってしまったの。
そう、ほらもうお解りでしょう?
どんな小鳥さんも等しく愛でるだけだったあたくしにとって、その時にはもう、リーリエは小鳥さんではなく、たったひとりのリーリエになっていたんだわ。
そのことに、本当の意味で気付かされたのは、いつもの図書館の逢瀬、先に来ていた彼女が居眠りをしていたのを見つけた時。
なんとなくその顔を覗き込んで、そして、それから――――ああ! なんてことかしら!
あたくし、あの時、リーリエの薄桃の唇に、口付けをしていたの!
触れるだけ、かすめるような口付けよ。あたくしにとっての初めての口付けは、どうしようもなく甘い陶酔と、筆舌に尽くしがたい絶望をもたらしたわ。
だってそうでしょう。あたくしは自覚すると同時に初恋を自ら踏みつぶしたのよ。踏みつぶさざるを得なかったの。誰にもゆるされない、ゆるされてはいけない恋だって解っていたんだもの。
身分も立場も違う女同士の恋なんて、いったいどんな喜劇なのかしら。それとも悲劇?
後者であると言ってくださる方は、きっととても慈悲深くいらっしゃるのでしょうね。
さいわいなことにあたくしが犯した罪に、リーリエは気付かなかった。目覚めた彼女はいつものように照れくささそうに笑って、その笑顔に、あたくしは自らの恋心を、あたくしだけは赦そうと決めたの。そうしてあたくしは、更なる罪を重ねることを決めたのよ。
繰り返しになるけれど、リーリエが王太子だの魔術師だのその辺のジャガイモどもに慕われていることは知っていたわ。さすがあたくしが恋した女よ。ジャガイモどもと同じと思われるのは癪だし、ジャガイモどもの頭のお花畑ぶりには辟易させられたものだけれど、彼らの女を見る目だけは確かであるとほめて差し上げてもよろしくてよ。
そう、リーリエは身分と立場と容姿に恵まれた殿方どもに執心され、だからこそ同時にその周辺のあたくしの小鳥さん達に疎まれた。それをあたくしは利用したの。
小鳥さん達は、あたくしとリーリエの関係を知らなかったわ。当然よ。あたくしはあのとうとい逢瀬の時間を誰にも邪魔されないように、決して誰にも知られないように、それはもう苦慮していたんだもの。
今思えばその時点であたくしの想いのありかは知れたものだったのだけれど……恋は盲目とは至言だこと。
あたくしはちっともその時は気付けなくて、気付いた時にはもう遅くて、だからあたくしは、あたくしの小鳥さん達がリーリエを更に虐げるように仕向けたの。
ふふ、ふふふふ、驚くほどうまくいったわ。
あたくしのことを『お姉様』と慕ってくれる小鳥さん達は、ジャガイモどものことも憧れていて、そんな中であたくしがひとこと「王太子殿下はあたくしの婚約者ですのに……」なーんて一言呟いてみたら、ね、ほら、結果は火を見るよりも明らかでしょう?
そして、あたくしは、また一つ罪を重ねたの。