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ああ、そうよ、あの日もそうだった。
逸る心を抑えて図書館に向かっていた夏のまばゆい光輝く日。
そのころにはもうあたくしとリーリエの仲睦まじさは疑いようのないものになっていたから、わざわざ約束なんてしなくたって、お互いに示し合わせたように図書館の片隅の、書棚に囲まれた小さなテーブルに集まるようになっていたわ。
だからあたくしはその日もそのテーブルへと向かうために、近道しようと中庭を突っ切っていたの。
普通に廊下を歩いていたら人目についてしまうし、何より、一分でも一秒でも早くあの小さな聖域にたどり着いて、リーリエと、同じ時間を共有したかった。
学園の中庭は広大な敷地を有するけれど、慣れてしまえばどうということでもないわ。人目につかない近道だと思えば、お肌の大敵であるという厳しい夏の日差しだって気にならない……とはいえ、しっかり対策はしていてよ、淑女のたしなみでしょう?
ついでにリーリエにも一見そうとは解らないけれど実はおそろいの日傘をプレゼントしたわ。リーリエはすっかり恐縮しきりの様子だったけれど、あたくしがどうしてもと押し付けたら、最終的にとっても喜んでくれて、あたくしもとっても嬉しかったものよ。
リーリエがお礼にとくれた彼女の手による刺繍が入ったハンカチは、あたくしの宝物。肌身離さずずっと持っているものよ。誰にも見せてなんてあげない、あたくしだけの宝物なの。
そう、そうやってひそかなおそろいの日傘をさして中庭を急ぐあたくしに、声をかけてきた殿方がいたの。
ええと、お名前は……ごめんなさいね、あまりにも些末すぎてやっぱり覚えていないのよ。顔はなんとなく覚えてはいるのだけれど、わざわざ名乗ってくださったお名前までは、ちょっと、ね。
だって珍しいことではなかったのですもの。
あたくしは、王太子の婚約者であることを学園中に知られていたし、あたくしの周りにはいつも愛らしい小鳥さん達がいたけれど、でも、あたくしを慕ってくださるのは、小鳥さん達だけじゃあなかったの。あたくしが王太子の婚約者という立場にあることを知っていながら、それでもなおあたくしの寵を求める殿方は、後を絶たなかったのよ。
基本的に極めて退屈に、それでいて忙しく学園生活を送っていたあたくしだけれど、そのほんのわずかな、貴重な『暇』を見計らって、学園の男子生徒はあたくしに愛の告白とやらを吐き出してくださったわ。
あらあらまあまあ、なんて身の程知らずだこと!
王太子殿下と婚約なさっているのは存じ上げております、ですがこの想いを知っていただきたく――なんて、何度聞いた台詞だったかしら。
まあね、そうね、気持ちは解らなくはないわ。納得はしましょう。理解はしないけれど。
王太子と婚約してもなお愛を捧げずにはいられないほど、あたくしは美しかった、ただそれだけのことなのですもの。
あたくしに告白してきたどの殿方も、何も王太子との婚約を破棄してほしい、なんて気持ちはかけらもなかったと思うのよ。あたくしと王太子の仲がお世辞にも褒められたものではなく、その王太子は特待生の平民、つまりはリーリエ・ジェロニーにすっかりご執心だということも知れ渡っていたわ。
もしかしたらあたくしの愛人になれるかも、さすれば自身の将来は安泰……なんていう気持ちが、どの殿方も透けて見えるようだった。
あたくしの女としての魅力と、未来の王太子妃の愛人という権力、どの殿方もどちらも欲しがるのよ。
強欲なものよね、ええ、殿方なんてそんなものだわ。
みんな、みぃんな、殿方の考えることはすべて同じ!
あの夏の日に図書館に急ぐあたくしを呼び止めた殿方もやっぱり同じだったわ。ええ、その瞳に宿るおぞましい欲望の光に、どうしてあたくしが気付かずにいられると思っていらっしゃるのかしら。
なんておめでたい頭でいらっしゃること。
お慕いしております、と言われても、あらそうなの、以外の本音なんてなかったわ。もちろんそのまま伝えるわけにはいかなかったから、ありがとう、申し訳ございません、あたくしは王太子殿下に操を捧げておりますの、と、いつもの定型文を粛々と答えさせてもらったのだけれど……そうね、あの殿方、あたくしに告白してきた殿方の中で唯一おぼろげながらも顔を覚えているのは、その後があったからよ。
王太子の存在まで出してきっちりお断りしているあたくしを、あの殿方ったら、その場で手籠めにしようとしてくれたのよ?
傷物になった貴女なら、殿下のものにはなれないでしょう、とかなんとか、そう言っていた気がするわ。あまり覚えていないけれど。
別にね、驚きはしなかったの。よくあることよ。だから殿方って短絡的でやっぱりすきになれないの。
あとは、押し倒されそうになったところを、幼少期から仕込まれた護身術でいつものように叩きのめしてさしあげるだけ。
そのはずだった。けれどそうはならなかった。
あたくしとその殿方……もう暴漢とでも呼ぶべき男子生徒の間に、割り込んできた存在がいたのよ。
誰がって、いやね、もう解っているでしょう、もちろんリーリエよ。
リーリエだって殿方のことを苦手に思っていることは、普段の行動を見ていたらなんとなくではなく確信として解ることだったわ。いつだって殿方の目を避けて行動しているくせに、いざとなるととんでもない度胸を発揮して、そのせいで面倒くさいジャガイモどもに執心されて、そういう意味ではあたくし、リーリエに同情していたわね。
少しは自らの行動を顧みなさいと何度言いたくなったことかしら。でも、そんなところもリーリエのとうとい美点の一つだったから、結局あたくしは何も言えなくて、どんどんリーリエは殿方を惹きつけて。
あ、あら、いけない、話がずれてしまったわね。そう、それで、あたくしを背に庇ってくれたのがリーリエよ。
いつもは猫背になっている背を伸ばして、彼女はあたくしの前に立っていた。不思議ね、やせっぽちの彼女の背中が、その時はなんだかとっても大きく見えて、どうしてだかあたくし、とっても安心してしまったの。
リーリエは殿方にしては小柄な暴漢を見下ろしていただけだったわ。何も言わなかった。けれど、暴漢は何故だか顔を青ざめさせて走り去っていって、残されたのはあたくしとリーリエ、二人だけ。
あたくしの方を振り返ったリーリエは、もういつもの猫背に戻っていた。
振り返るなり抱き締められたのには、ふふ、それはもう驚かされたものよ! 無事でよかった、なんて、心底安堵した声で耳元でささやかれて、その時のあたくしったら、もう、本当に、顔から火が出るかと思ったわ! 顔が紅薔薇よりも赤くなって、暖炉の炎よりも熱くなって!
そんな自分が信じられなくて、あたくし、いつものことだから心配なんていらないわ、なんてかわいくないことを言ったの。
どうせ皆、あたくしの容姿と身分しか見ていないんだから、って。
そうしたらね、リーリエったら、なんて言ったと思う?
ふふ、思い出しても笑っちゃう。
彼女はね、なぜだか震えていたあたくしの手を取って、そぉっとその白い両手で丁寧に包み込んでくれて、そうして、それだけじゃない、って言ったのよ。
貴女は綺麗だから、ですって!
長い前髪で彼女の顔はほとんど半分隠れているようなものだったけれど、それでもあたくしには、彼女があたくしに負けず劣らず顔を真っ赤にしているのがすぐに解ったわ。
ねえ、信じられる?
自慢ではないけれどあたくし、これでも、それはもう数多の賛辞を捧げられてきたのよ。言葉だけじゃないわ、手紙でも詩歌でも、よくも言葉が尽きないものだといっそ感心してしまうくらいに、本当にさまざまな美しい言葉を捧げられてきたの。そのどれ一つにも心動かされることなどなかったっていうのに……あなたはきれいです、なんて、そんな、なんの飾り気もない率直で単純なその言葉が、どんな美辞麗句よりも嬉しかったなんて! このあたくしが、まるで初心な乙女のように、ありがとう、しか言えなかったなんて!
ねえ、そんなこと、一体誰が想像してくれたというのかしら。
付き合いだけは長いあの王太子は、こんなあたくしのこと、決して知らないのでしょうし、知りたいと思わないのでしょうね。
ええ、別に構わなくてよ。あたくしも教えたいだなんて一切思わないのだから。
王太子のことよりも、大切なのはリーリエよ。
その日のリーリエが、あたくしのそばから離れようとしなかったのには驚かされたわ。大丈夫だからと何度言っても、リーリエったら変なところで頑固なんだから。そんなところもかわいくていとしいわ、でも、一緒にいるところを見られたら困るのはあたくしではなくリーリエだったのに。
それなのにリーリエは、あたくしのそばにいてくれた。
あたくしは、それが嬉しかった。
さいわいなことにその日は誰の目にも見つかることなく過ぎたわ。
本当に不思議な一日だった。悪い日ではなかったわ。そう、決して。
でも、しあわせな一日だったとは、今となっては決して言ってはいけない日だと解っているの。