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リーリエ。リーリエ・ジェロニー。あたくしの美しい百合のひと。
彼女との出会いを、今でも昨日のことのようにまざまざと思い出せる。
ふふ、これ、すごいことでしてよ? あたくし、基本的に何事にも興味がないせいか、ものすごぉく忘れっぽいの。それなのに、リーリエ。彼女に関することは、何一つ忘れず、何一つもらさず、一つ一つ何もかも覚えているの。
ええ、忘れられるはずがないわ。あれは学園の入学式。王太子を差し置いて入試を一位で通過したあたくしは、入学式で当たり障りのない、ありきたりでつまらない挨拶を新入生へと向けて読み上げて、あとは図書館でばかり過ごす日々が始まった。
たった一年の学園生活とはいえ、既に未来の王太子妃、ひいては未来の国母として、帝王学まで修めていたあたくしには、既に学園で学ぶべきことなんて何もなかった。
ええ、堅苦しい学園のルールに縛られて一年、『学園』という名前の『牢獄』で過ごすなんて、なんて憂鬱なのかしら! って、あたくし、実はおへそを曲げていたの。
かわいらしく初々しいお嬢さんたちをはべらして、彼女達に『お姉様』と慕われるのは心地よかったし、あたくしはあたくしなりに彼女達のことを愛し、彼女達もそれに応えてくれた。あたくしにとっての学園におけるなぐさめは彼女達だけだった。
学園を卒業すればいよいよあたくしは王太子の婚約者としての立場を求められることになるんだもの。その前に少しくらい遊んだっていいじゃない? ええ、本当に彼女達はかわいらしかったわ。ふふふふ、あたくしが少し手を伸ばして髪の毛のごみを取ってあげただけで顔を真っ赤にするお嬢さんの、なんて愛らしいこと!
だからこそあたくしは、彼女達があたくしの前では決して見せない醜い顔で、他人を貶めているのが見るに堪えなかったの。
あたくしの愛する小鳥さん達には、いつだって愛らしくさえずっていてほしいじゃない。
醜い顔で、甲高く耳障りな声で他人を罵倒する姿なんて、ああ、いや、なんておぞましい!
だからあたくしがリーリエと彼女達の間に割って入ったのは、リーリエのためじゃなくて、あたくしのかわいい彼女達のため、そしてあたくし自身のためだったと言うべきかしら。
そう、リーリエとの出会いはそれだった。
学園に入学して一か月が経過し、誰もが学園での生活に慣れ始めたころのこと。
あたくしのかわいい小鳥さん達が、一人の女生徒を取り囲んで、前述の通りの見るに堪えない姿をさらしていたわ。
おやめなさいな、あたくしのかわいい小鳥さん達。
確か、そう言ったのだったかしら。あたくしの姿を認めた彼女達は慌てていたし、あたくしに自身の醜い姿を見られたことを恥じて涙ぐむお嬢さんまでいたわ。ふふ、だったら最初からそんな真似しなければいいのにね。そういうお馬鹿さんなところもかわいらしくて、だからあたくしは彼女達をひとまずなだめて、またお茶をしましょうね、って文字通りお茶を濁して、彼女達を追い払ったの。
残されたのはあたくしと、リーリエ。
頭を下げながら彼女が名乗った名前こそ、リーリエ・ジェロニー。
ええ、名前は知っていたわ。平民からの唯一の特待生。極めて優秀で、実は入試ではあたくしと同点だったのだとか。
彼女が新入生代表に選ばれなかったのは、彼女が平民で、同点のあたくしが貴族、それも王太子の婚約者だったから。くだらないと思うか、当然だと思うかは、人によるのでしょう。
あたくし? あたくしは、そうね……見栄えがするのはあたくしだから、あたくしが新入生代表を務めたのは正解だったと思いましてよ。だってあのころのリーリエったら、本当の本当にひどかったのだもの! ええ、今ならそんなリーリエも誰よりも愛らしくて素敵だと思えるわ。艶のない灰色がかった白髪を太いみつあみにして、前髪だって伸ばしっぱなしで、本来ならあたくしよりも高いはずの背をあたくしよりも低く猫背にして!
ああ、懐かしいわね。もっとあの時のリーリエも愛でておけばよかったわ。なんて惜しいことをしたのかしら。大根娘さん、なんて、ひどい言いぐさなんかしなければよかった。あのときのあたくしを殴り飛ばしてやりたくてよ。時をさかのぼる魔法が使えたら、あのときのあたくしを張り倒して、代わりに今のあたくしが大根娘だったリーリエの前にひざまずいて、生涯の愛を誓うのに!
……なんて、ええ、解っていてよ。そんなことできるはずがない、叶うはずがないってことくらい痛いくらい解っていてよ。解っているんだから、ええ、すべてせんなきことだわ。
それから、そう、リーリエとの出会いだったわね。リーリエは平民という身分でありながらも、あたくしと張るくらいに優秀で、しかも学園で話題の殿方……あ、ああ、そうね、その王太子とか宰相のご子息とか……誰だったかしら、本当あたくしったら忘れっぽくて……とにかく、先程あげつらった方々の心をことごとくぎゅっと握り締めてしまって、それがあたくしの小鳥さん達には許しがたいことだったみたい。
あたくしの小鳥さん達は本当に浅はかでかわいらしいこと。学園というたった一年の閉ざされた世界で色恋沙汰に浮かれる殿方の愚かさくらい、見逃して差し上げればよろしいのに。どうせ卒業したら誰もが定められた道を強いられるのだから。
そう。このあたくしも、そうなるはずだった。
リーリエ。それを変えたのがあたくしの美しい百合のひと。
気まぐれで助けたあたくしに、リーリエは何かお礼をと言ってくれたの。なんてけなげで慈悲深くかわいらしく愛おしいのかしら! このグリュンベルデ国における大貴族が一角、アウグストゥス家令嬢たるこのベラドンナに、平民風情が『お礼』なんて!
笑ってしまうでしょう。おかしいでしょう。でもそのおかしさが、なんだかとてもその時はおもしろく思えたの。興味を引かれた、というべきかしら。
ええ、このあたくしが、興味を!
その快挙を、きっとリーリエは知らないわ。知らなくていいの。教えるつもりなんてないの。あの瞬間の感動は、たとえリーリエにだって譲れない、あたくしだけの宝物なのだから。
お礼を、というリーリエに、だったら、とあたくしは答えたわ。その時彼女が持っていた、図書館の蔵書。次にあたくしが読みたいと思っていたものだったから、次にそれをあたくしに譲ってちょうだいな、と。
それだけでいいんですか、なんて、リーリエったら、すっかり驚いていて、ふふ、前髪で隠れていたけれど、その緊張に赤らんだお顔が、なんだかとってもかわいらしく思えたの。
今思えばあれが胸のときめきというものだったわ。平民はそういうのを“キュンキュンする”とか言うのでしょう。解るわ。あたくしもリーリエに、それ以来キュンキュンさせられっぱなしだったもの。
数日後、あたくしが一人、図書館で読書していたところに、リーリエは例の蔵書を持って現れたわ。やっぱり緊張に赤らんだ顔で、差し出されたのは、その蔵書と、それから手作りの焼き菓子。アウグストゥスのお嬢様のお口に合うかは解りませんが、なんて言い添えて!
なんてかわいいおばかさんなのかしら!
平民風情が、それもお世辞にも裕福とも言えないような家の娘が作った焼き菓子が、このベラドンナ・タワナアンナ・アウグストゥスの口に合うはずがないのに! 金と等しく取引される砂糖菓子に慣れたこの口に、よくもまあ粗末な焼き菓子を押し付けようと思ったものだこと。いっそ尊敬に値するわ――と、その時は思ったのよ。思ってしまったのよ。
ああ、おばかさんなのはあたくしだわ!
図書館では禁じられている飲食だったけれど、そのときのあたくしはリーリエにどうにもいじわるしてやりたくなって、だからわざとその場で焼き菓子を口にしたの。それからわざとその場に落として、踏みにじってやるつもりだった。身の程をわきまえなさいって。ふふ、あたくしの小鳥さん達と同じことを気付けばしようとしていたのよ。いくらその直前に王太子と顔合わせさせられて気が立っていたとはいえ……我ながらなんて醜い真似をしようとしたものかしら。
そう、でもね。結局できなかった。おいしかったの。ただの小麦粉と砂糖とほんのわずかなバターと卵を混ぜて焼いただけの、ただの焼き菓子が、どうしてだかどうしようもなくおいしくてならなかったの。
あたくしはまた感動したわ。そしてリーリエにまた興味を感じた。そうしたらもうその感覚がたまらなくなってしまって、気付いたら次の約束をあたくしの方から取り付けていた。
図書館での秘密の逢瀬。
そう。リーリエにとってはただの待ち合わせでしかなかった……いいえ、待ち合わせですらない、ただの偶然の重なりだったのでしょう。あの子はあたくしが滑稽なくらいに必死になって、あの子が図書館に訪れる時間を追いかけていたことを知らないのだから。ええ、そうよ。リーリエにとってはただの偶然でも、あたくしにとっては間違いなく逢瀬だった。逢引と言ってもよかったのでしょう。
何をしていたかって、なんてことはないわ。ただ同じ本を読み合って、リーリエが持ち込む焼き菓子をこっそり食べて、なんてことのない会話を交わして。それだけよ。
そう。それだけだった。それだけであたくしは、今までに感じたことのない充実感と満足感、そして同時に、飢餓感を感じるようになっていたの。
どうしてなのか解らないままに、あたくしはそうして、坂を転がり落ちる林檎になるしかなかったのよ。