プロローグ
「優希。私の部屋の机の上に置いてある本、持ってきて」
短く返事をして彼女のもとを離れる。車が余裕で走れそうな広々とした廊下を歩いて、彼女の部屋に向かう。こうして小さなことでもパシリにされるのは日常だった。けれど、前の暮らしを考えれば、このくらいへちゃらだ。
人身売買がこの世界で可能になってしまったのは、俺が生まれるずっと前だと聞いている。本当の両親は妹を宝石のように可愛がり、疎まれた俺は人身売買をしているところに売られた。女に買われ、男に買われ、夫婦に買われ。買われるたびに人ではない扱いをされ続け、結局は飽きたと言ってまた売られた。顔中に消えないタバコの跡が付き、背中にはハンマーで殴られた痣が残っている。
殺されると思いながら生きてきた。いっそ死にたいと思いながら生きてきた。今は金持ちのお嬢様、西条美月に買われ、平和な日々を過ごしている。もう、見物にされる狭い檻の中になど、戻りたくはない。それでも、いつ暴力を振られて、いつ捨てられるか。俺は、怯えて過ごすしかなかった。
「あら優希さん。またお嬢様にお願い事でもされたの?」
「香織さん、こんにちは。部屋から本を持ってきてほしいと言われて」
「いつもありがとうね。大変でしょう」
掃除用具一式をまとめて持ち運び、ロングスカートのメイド服を身にまとう彼女は、この屋敷のメイドだった。そんなことないですよ、と笑って返す。いつもと変わらぬ、優しい笑顔を浮かべる香織さんに会釈して、部屋に向かう。目的の本は、部屋に入ってすぐに見つかった。分厚く、表紙に女の子の後ろ姿が描かれている。早く美月に持っていかねば、小言を言われてしまう。と、俺は足早に美月のもとに戻った。