退院の日(5)
彼女が病室から飛び出して行った。
待って。行かないで。
僕はとっさに追いかけて、その華奢な手を掴んだ。
一瞬振り返った彼女の瞳には、溢れんばかりの哀しみが今にもこぼれ落ちそうに見える。
彼女の涙を初めて見た。
彼女の苦しみを感じた。
胸の奥が締めつけられるように痛む。
刹那、彼女は僕の手を振りほどいて駆けだしてゆく。
「待って!」
追いかけようとすると彼女は立ち止まり、そのまま振り向かずに言った。
「来ないで!」
その強い口調に僕は足を止めるしかなかった。
彼女の切ない声音に、足元が固まってしまったという方が正しいだろうか。
「あなたに涙を見られたくないの。私の笑顔だけを見ていてほしかった。あなたが好きだって言ってくれた笑顔を、想い出してほしかった」
何も想い出せずにいる僕には、返す言葉もなく。
「それに……今まで自分では気づかなかったけれど、恋人、恋人ってあなたのことを、縛っていたのかもしれない。ごめんなさい」
「そんなこと……。どうか謝らないで。僕の方こそ想い出せないでごめん。キミに辛い思いをさせてごめん。キミといると僕は楽しかったよ。ヤツの言うことなんて気にしないで。
だって今の僕は、キミに……」
「もう……」
僕の言ってしまいたい言葉は、彼女の震えた声に遮られた。
「もう、あなたの重荷にはなりません。あなたとの想い出があれば、これからも私は生きてゆけます。
……青春時代を一緒に過ごしてくれて、そしてたくさんの想い出をありがとう。……さよなら」
そういうと彼女は駆けて行ってしまった。
彼女の姿が遠ざかってゆく。
彼女の心が走り去ってゆく。
だめだよ、行かないで。
僕が今のキミに恋をしているんだ。
過去の僕じゃない。今の僕がだ。
僕の言ってしまいたい言葉が頭の中で繰り返される。
彼女の言葉がこころの中でこだまする。
彼女が発した言葉に、自分の気持ちが追いつかない。
あまりに突然の『さよなら』に、僕はその場に呆然と立ち尽くすしかない。
見えなくなるまで、彼女の後ろ姿に言い続けた。
だめだよ、行かないで。
僕が今のキミに恋をしているんだ。
過去の僕じゃない。今の僕がだ。
哀しい想いをさせてごめん。僕がもっとちゃんとしていれば。
もっと早くに想い出していれば。
追いかけることもできずに、僕の差し出した手は、彼女には届かなかった。
こんな日が来るなんて……。
お読み下さりありがとうございました。
次話「退院の日(6)」もよろしくお願いします!