第0話 3 『少年が手に入れたもの』
非情な現実に打ちひしがれているシロはやはり動くことはできなかった。
――もうこの世界には自分だけしかいないんだ。立ち上がってもなにもない。
そのときだ。
タンッ!
足音のようなものがよく聞こえた。
何かが跳ねたような、着地したような音。
「っ!!」
それまで予期していなかった自分以外の存在の痕跡に、思わず身を起こす。
そして音が鳴ったと思われる方を注視する。
黒い霧は相変わらず漂っている。
普通の霧との違いは、色の違いと、湿気を感じないところだろうか。
霧というのも例えに過ぎない。
砂や粉や塵、そんな粒子状の物質が大気中を漂い、結果として霧という例えが適当になっただけだ。
それはシロが目を覚ましてからも、濃度を濃くしており、数歩先がもう見えない。
太陽の光はおろか、街頭などの照明の光も通さないようで、辺りは真っ暗闇だ。
その中を、
足音の主は規則的な音をたて、こちらに近づいてきているような気がする。
自分以外の人がいた。
自分はまだ孤独じゃなかった。
そんな絶大な安堵がシロの顔に若干の笑みを作る。
彼が彗星に願ったものは、
「―誰かの傍にいたい。」
もともと考えていた理由とは全く違っていたが、それでも、
――叶ったんだ…。
そう―叶ったかのように見えた。
「―え?」
暗闇の中に二点の赤い光。
飴玉ほどの大きさのそれが、何も見えないはずの、真っ黒な空間に突如として現れる。
それが『眼』であることを理解するのは難しくなかった。
シロの顔から笑みは消えた。
シロは現実に叩き戻された。
人間であると、信じて疑わなかった。
そうであってほしいと希望した。
宙を漂いある程度離れた赤い二点。
それは人間の発しえない光。
「なんだ…!?」
誰だ、とは考えなかった。
得体のしれない何か、があると確信したからだ。
シロはそれこそ得体のしれない恐怖に慌てて立ち上がり、身構える。
少しでも早くその正体を知ろうと目を凝らす。
距離にしておよそ五歩分だろうか、自分の目線よりも少し低い位置にある赤点が、
突如その輝きをひときわ激しくし、
光の尾を引いて…
シロの懐に飛び込んできた…!
近づいてきたことでシロにもその姿が見えた。
いや、あるいは見えなかった。
全身が真っ黒な人型の影だったからだ。
身体はシロよりも小さく、幼稚園児ほどの小さなもの。
それでいながら肩や腕、腰から脚が大きく二足歩行の獣といった様相。
だが人と大きく異なる。
顔は鼻や口、耳などのでっぱりがないようにつるつるのものだ。
その中で目と思われる位置に赤く輝く丸が二つ。
もう一つは、今まさにシロに向かって振りぬかんとしている、三日月型の腕。
その先端がシロの胸に触れ…
「っ!?」
あまりに突然の動きに、声を出す余裕もなく、
シロの胸にハンマーで殴られたかのような衝撃と鈍痛が走り、
「…がっ!?」
呼吸が止まる。
影の小さな体躯からは想像もできない、抗いがたい力の衝撃。
体内を、臓器を震わせる気持ち悪い感覚に思わず呻く。
そして物理法則にしたがい真後ろへ吹っ飛ばされた。
一瞬宙を舞い、
地面にたたきつけられたシロは、そのままものすごい勢いで転がる。
ガシャアン!という金属質の音を立てる山に激突し、停止した。
見える範囲に散乱する金属製の物体からして、町工場の内部に吹っ飛ばされたようだった。
「…げほっ!なに…が…!?」
急におとずれた強烈なダメージに視界が霞む。
痛みと眩暈、あと吐き気がしたがそれに耐えながら顔をあげる。
胸に受けた衝撃の感触と打撲のような痛みから察するに、殴り飛ばされたらしい。
それも人間ではない異形の化物か何かに。
「…っ!…はぁっ!…はぁっ!」
赤い瞳がシロを見つめる。
まるで品定めするように。
いや次はどこを狙えば少ない手間で殺せるかを考えているのだろうか。
とにかくとてつもないプレッシャーに、あれは危険だ、と認識させられる。
この謎きわまる霧のなかで遭遇した、全身黒づくめのような影の化物。
それが明確な殺意をもって容赦ない攻撃を仕掛けてきたことはシロが痛感していた。
――殺される…!ころ…され、る…?
シロは生まれて初めての殺意を受け血の気が引いていく。
だが同時にこれまでになく思考が加速した。
それは走馬灯にも感じられた。
だが実際には違う。
それは現実逃避。
【普段通りのつもりでベッドから目をさました。
これまでと変わらない日常が始まると。
でもそんな朝は来なくて。
父さんと母さんが倒れていて、
外はこんな真っ暗な霧にまみれてて。
自分以外誰もいなくて。
これが現実の世界なんだって思い知らされて…!】
―やがて現実に向き合う。
【…絶望して…。】
シロは、
「ははっ。」
命を狙われる状況下に不釣り合いな、
「はははははは……。」
弱弱しくも、笑い声をあげていた。
希望を持つことを許さない教えを受けたはずなのに。
それでも希望を持ってしまい。
そして両親の言った通り、あっさり裏切られ後悔した。
怒りや悲しみ以上に、それら一連の因果が憐れで滑稽だったからだ。
赤い瞳が先ほどと同様に再び激しく光った。
攻撃の合図なんだろう、シロは先ほど受けた痛みと殺意への恐怖から理解した。
今度こそ殺す、と。
そんな意志が感じ取れた気がしたのだ。
不意に、
カラン!とシロの傍らに何かが音を立てた。
それは…まるで助けてやると言わんばかりに転がって現れた、
1メートル弱の長さの鉄パイプ。
赤い瞳が宙を舞った。
シロの身長の倍ほどの高さにあるその光は、
シロをめがけて、
止めを刺さんと、
とびかかってきている…!
体の中を寒気が襲う。
鳥肌が立つような感覚。
そんな『死』が迫りくる中シロは呟いた。
「…死にたくない…。」
――死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない!死にたくない!!死にたくない!!!
血が沸騰するかのような衝動が、シロの理性を焼き尽くした。
瞬間、シロは、
傍らの鉄パイプを拾い上げ、
立ち上がり、
両手で持ったそれを右肩側から振りかぶり、
とびかかってきた化物の赤点めがけ、
「あああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」
力の限り振りぬいた…!
それは赤点よりもやや上、おそらく頭頂部に直撃し、吹き飛んだ少年の再現をする。
―鈍い音と握り手に感じた感触、そしてとびかかってきた赤目が真逆に吹き飛ぶのを確認して直撃したことを理解…
「うああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
する間もなく、地面にたたきつけられた赤目が倒れている場所まで駆け込み、
一切の躊躇なく鉄パイプを振り下ろす!
―再びの直撃の感触。
だがシロは止まらない。
――なんなんだよ!なんなんだよ!!なんなんだよ!!!
シロの胸中に渦巻いたそれは目の前でメタメタに叩いている何かに向けたものではない。
それは、自分に対してのものだった。
現実を見せつけられ、
夢も希望もないと絶望し、
もうなにもかも嫌になって立ち上がることすらしなくなって。
でもいざ死の危機を前にしたら、
今度は死にたくない。
自分に辟易していた。どうしようもなく。
それをただ目の前の赤目の化物に、一撃、一撃、力を込めてたたきつけているだけだった。
目をひんむいて、
大口を開けて、
持てる握力をすべて込めて。
若干七歳の少年は、狂気ともいえる顔を浮かべ、ひたすらに化物の頭部と思しき部位を殴り続けた。
やがて、
グシャリ!という生々しい音を立てて、とっくに動かなくなっていたそれの頭が潰れた…と思う。
気が付くと、光を放っていた赤目は消えていた。
そこでようやく死んだことを理解する。
「はぁっ!はぁっ!はぁっ!!」
シロ自身が驚くほど呼吸が乱れていた。
それはそうだ、今しがたまで狂気の絶叫を上げていたのだから。
自分すら知らない凶暴性に呆然とする。
そしてすべてを出し切ったシロは、化物の亡骸に背を向け、
――もう、いやだ…。
立て続けに起きる荒唐無稽で意味不明で理解不能な、それでいて『現実』に、もうどうにでもなってしまえと自棄にすらなっていた。
だが、
「誰かいるの?」
ドクン!と心臓が跳ねたような気がした。
その人の、女性のものだがハスキーな、それでいて幼さを感じさせる声に再び活力が湧いたように思えた。
それはシロが絶望の中で求めたものだ。
自分が孤独になるのが嫌だから求めたものだ。
そして、自分を助けてほしいから求めたものだ。
声の主と思われる人の足音が少しずつ近づいてきているのがわかる。
姿は見えないが、確実に。
だが声が出なかった。
そして力もどっと抜ける。
手にしていた鉄パイプが落ち、
影を落とした地面を転がり、
やがて、
コツッ!と音をわずかにたて、接触してその動きを止めた。
シロはそのわずかに聞こえた接触音の方へ視線を向ける。
数歩先しか見えないから鉄パイプがかろうじて見えるだけだ。
重い足を引きずり、少しずつ、少しずつパイプの後を追う。
――期待するな、希望するな、夢をみるな。
また後悔することになるぞ、そんなささやき声が脳内に渦巻く。
現実の非情さを訴える父親の分身のような意識が警鐘を鳴らしているように感じる。
だが、それでも、足は止まらない。
茶色いローファーが見え、ソックスが見え、しなやかな足が見え、学生服か何かのスカートが見え。
そこまで見えるほどの距離で顔を上へ。
「…あ……。」
涙の混じったような声しかシロは出せなかった。
いや実際に目に涙が浮かんだ。
そこにいたのはようやく見つけた自分以外の人。
自分よりもずっと背が高く、年上の少女は、齢七歳のシロからしてみれば『お姉ちゃん』と呼べる人だった。
「…っ!」
制服を着た少女もシロの姿を認め目を見開く。
見つけた人がまさか小学生の子どもだと思わなかっただろう。
「あっ、あああ…。」
それは少年の嗚咽だった。
目の前にいるたった一人を見つけるためだけに、何もわからないまま一変した世界を歩き続けた。
その現実の打ちのめされ、殺されかけ、希望はないとわかったはずなのに。
それでも求めてしまい、
その果てに見つけたことへの喜びと安堵からあふれたもの。
それを聞いた少女は、
自分よりも小さな少年に目線を合わせるように膝をつき、
少年を抱き寄せた。
「よかった…!生きてる…!私だけじゃない…!人が…ここに…!」
それは少女がシロに言ったものだ。
少女もまた、この現実に打ちひしがれていたのだ。
シロは少女の柔らかい身体に包まれて感じた。
それは女性の持つ包容力と言うものだろうか。
あるいは本能として標準装備されている母性とでもいうだろうか。
そんな優しくて、温かい感覚に、
「おかあさん…。」
そんな連想して、泣きじゃくって痛む喉からこぼれた。
それを聞いた少女は怒るわけでもなく、むしろ瞳に涙を浮かべ、
「だいじょうぶ!もう、だいじょうぶだから…!きみのことは、わたしがちゃんと守るから…!」
少年の頭を撫でてまるで母親のように言ったそれは、彼を安心させるものであったのと同時に、少女自身への誓いのようにも聞こえた。
そしてより一層つよく、シロを抱きしめた。
それは少年が初めて手に入れた、『希望』だった…。
※ ※ ※ ※ ※ ※
意識が覚醒して見慣れた天井が視界に映った。
――寝ちまってたか…。
眠ろうと思った瞬間が思い出せないことから、彼は推理する。
「懐かしい夢だったな…。」
夢、と言ってもそれは記憶だ。
彼にしてみれば十年ほど前の、思い出。
「―ってまだ夜じゃねえか。」
時計の針はまだ十二時を回ったところだった。
「春眠暁を覚えずってか。」
二度寝していたい気持ちもあったが、無性に夜風に当たりたくなってきたのだ。
彼は身体を起こし、そのまま自室を後にし、外へ出る。
学生寮から校舎まで続く桜並木の道を少し歩くと、十字路のところにあるベンチに、
「先生?」
彼の担任教師が、街灯に照らされ花を咲かせた桜の木の下で、缶ビールを仰いでいた。
仮にも一教師にしては呆れた光景に、実際彼は呆れていた。
「ん?シロ?」
彼の名を呼んだ教師はそれを見られたからと言って慌てる様子もない。
「どうした、こんな時間に。お前も夜桜か?」
「違いますよ。変な時間に寝ちゃって今起きたんです。」
「ああ…春だもんな。」
教師が桜を見上げた。
シロもそれに続くように見上げる。
そして静寂。
「先生…いやキオさん。」
シロが教師の名を呼んだのは、そして無性にそれを言いたくなったのはおそらく夢の所為だろう。
古いアルバムを見たかのような感覚。
だから今は『担任教師』としてではなく、
「ありがとう…。」
『命の恩人』に、自分がここにいることの証人に、それを伝えたかったのだ。
あの暗闇の『現実』で出会い、希望を与えてくれた人に。
教師―キオはシロの突然の告白にきょとんとしていた。
しかし、名を呼んだことでシロの意図もすぐに察した。
「私のことを『おかあさん』て呼んでた泣き虫小僧がなあ…。」
「やめてください。」
キオは懐かしむように言うが、シロにとっては恥ずかしい思い出だ。
「昔みたいに『おねえちゃん』てもう呼ばないのか?」
「お願いしますやめてください。」
ニヤニヤからかうキオに懇願するシロだが、そう悪い気持ちでもなかった。
確かにそう呼んでいたことはシロにとって恥ずかしいことではある。
だがキオは、母親でもあり、姉でもある、そう思えるからだ。
キオが再び桜を見上げた。
「あれからもう十年か…。」
「はい…。」
小学生だったシロと、中学生だったキオが出会って以降、
あの霧の中を手をつないで歩き続けた。
時には化物とも戦った。
必ず希望はあるからと信じて生き続けた。
やがて霧の中で同じような人の仲間が増え、
そしてこの『学園』という安住の地へたどり着いた。
シロとキオは、それらをひとしきり思い出す。
苦しいことは多くあった。
きっと独りだったら、キオに出会えていなかったら、シロはここにいないだろう。
強くて、優しくて、いつも守っていてくれた温かい『希望』。
シロにとって、キオという人へは礼を尽くしてもし足りない存在だった。
――頭あがんないだろうな、一生。
そんなシロの考えを知る由もないキオが口を開いた。
「シロ、ありがとう。」
「…え?」
お礼をされることに心当たりのないシロは困惑する。
特に理由もなくこんな殊勝なことを言う人ではないことを知っているからだ。
キオはベンチから腰を上げ、
「良い肴になったよ。」
ビールの缶を掲げて見せた。
そうだよな、と込めた思いに対する印象にシロはがっくりする。
「明日から二年生だ、さっさと帰って寝ろよ?進級早々遅刻したら承知しないぞ。」
最後は教師らしくキオは去っていった。
一人残されたシロ。
夜風にあたりに来ただけでまったく予想外な出来事だったが、不思議とすっきりした気分に満たされていた。
「寝なおすか。遅刻するわけにいかないもんな。」
シロはそう言って、学生として『日常』に帰っていった。
その夜はベッドに入るや、すぐに寝付いてしまった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
シロと別れたキオは、生活拠点である宿直室へ帰る道中、
「ほんとうに、大きくなったな。シロ…。」
本人のいないところで、それこそ『おかあさん』のようにつぶやいた。
――『わたしが、ちゃんとまもるから』…か。
それは幼かったシロに言った、それこそ幼かったころの自身との約束。
――私も若かったなあ…。
向こう見ずでその場の勢いで言ってしまったような約束だった、そう二十代もまだ前半のキオは思いを馳せる。
年をとった現実に、ほんの少しのほろ苦さを感じた春の夜のことだった。