第0話 1 『少年が望んだもの』
一章の前日譚にあたります。
第一章をある程度読んでいればわかる…かもしれない。
子どもの頃のシロは、将来の夢や欲しい物の希望を一つも持っていなかった。
別に、何をしても有り余る才能や、望んだ物が際限なく手に入るような贅沢だったわけではない。
好きなものもない、憧れの人もいない、なりたいものもない。
――そんなものは存在しない、現実をみろ。
シロが一番聞いた、一番記憶に残っている言葉が父親から聞かされたそれだ。
特撮ヒーロー番組、小児向けのアニメ、サンタクロース、奇跡体験のドキュメンタリー…。
そのすべてが父のその無慈悲で無関心でどこか怒りも込められたような言葉一つで取り上げられた。
そんな父の方針に母は「父さんを困らせないようにね。」と言うだけだった。
だがシロはそんな親を恨んだりはしていなかった。
確かに特撮ヒーロー、小児向けアニメ、サンタクロース、奇跡体験のドキュメンタリーなどなどは興味はあったし、きっと面白いんだろうな、くらいは感じたことはある。
それでも親を恨まなかったのは、そう教え込まれたから疑問にも思わなかった、ということは勿論ある。
だがそれ以上に、そう教えてきた両親を見て、
――この世界は、何もできない場所なんだ。
そう思って疑わなかったからだ。夢も希望もない場所なんだと。
「そんなものを望んだって、大きくなってから後悔するだけだ…。」
父が悲しみをかみ殺したかのような、苦悶を押しつぶしたような声は、そんな幼いシロにも「そうなんだ。」と納得させるものだった。
夢や希望、あるいはそれを抱かせるようなものは諸共必要のない無駄なものなんだと。
そこまで意識はしていなかったけど、少なくとも父の歩んだ人生において夢や希望といったものは後悔しか生まなかったと。
シロはそう子どもながらに理解していた。
「―なんと本日、夜七時から八時にかけまして、ドレアム彗星が観測できる可能性が…」
テレビから流れる女性キャスターが発したそのニュースを聞いたのはまったくの偶然だった。
ニュースなんて難しいし、面白くもないものに雀の涙ほどの興味もなかったけどそのニュースだけは興味を持った。
その彗星が観測されて二百年来の非周期彗星だということを述べたキャスターが継いだ、
「―当時は『夢と願いをかなえる光』と呼ばれ信じられていたそうです。」
この言葉に惹かれた。
母が料理をしている最中、リビングでニュースを見ていた父が「下らん。」と一蹴していたが、シロだけは違った。
もちろんその話をきいて、ファンタジックな願いを想像して目を輝かせたわけではない。
ただ純粋に知ってみたくなったのだ。
夢や希望が叶わないものだと知ったとき、どんなことになるのか。
無慈悲で無関心で付け加えて無感動な両親に無駄だ、下らん、後悔する、と言わしめたものがどんなものか知ってみたかった。
試してみたくなったシロは自分の部屋に戻って両親に黙って、その時を待った。
玩具やゲームなんてものが存在しない、あるのはきれいな机の上にまとめられた小学校の教科書やノート。それから素朴なベッド。
キャラクターもののグッズはひとつもない部屋。
そこの窓を開け放って、点々とする街頭や、家々から漏れる生活感、それらの遥か上空。
紺色の空の彼方を見つめたところで思い至る。
――何をお願いしよう?
願うものがない。
それは決して贅沢な環境やシロの七年程度の短い人生から生じたわけではない。
シロには好きなものも、憧れる人も、なりたいものもなかった。
夢や希望を抱くことを剥奪されてきた少年には、見上げた空にはからっぽな心しか映っていなかったのだ。
シロは焦った。
それがどこからくる焦りなのかはわからないが、
――なにか、なにか…!
考えに考え抜いた。
そしてその時は訪れた。
シロの瞳を青白い光が両断する。
青白い尾を引いたおたまじゃくしのようにも見えるそれは、夜の大河を真っすぐに飛んでいく。
―ドレアム彗星。願いをかなえるといわれる蒼い彗星。
思い浮かんだのは父の顔だ。そして言葉。
父の冷え切った鋼鉄の心と、錆びついた意志を合わせたような声で発した後悔の言葉。
彗星を確認して四半秒、シロは念じて、ポツリとほんのわずかに空気を震わせた。
――夢や希望をもったそんな、
「―誰かの傍にいたい。」
決して愛情に飢えていた、と感じての願いではない。
ただ教えてあげたかったのだ。
夢や希望を持つと、父のように過去を呪うことになるぞ、と。
別に妬んでのことではない、それこそ善意で教えたいと思っていた。
彗星はそんなシロの願いを聞き逃したのか、最初から聞いてなんていなかったかのように夜空を駆ける。
いわゆる流れ星がどういうものかシロは知らなかったが、それは消滅することなくやがて地平線の彼方へ。
見えない向こう側へ墜落するかのように消えていった。
そして数秒の静寂の後、
「っ!」
彗星が消えた地平線の彼方から真っ白な光が、空を、地上を、それまでの空間すべてを照らした。
とても目を開けてはいられないほどの眩さにシロは目を閉じる。
…どのくらい光っていたのかわからないが、瞼の裏に感じた光の気配が消えたのを感じて目を開く。
カメラのフラッシュを見たときのような、光の残像に目がチカチカする。
眩んだ目をこすって、光に襲われたその後の世界を見る。
「……?」
特にこれといった変化は見受けられなかった。
強いて挙げるなら、唐突で強烈な光に近隣住民のどよめきが聞こえる程度の変化。
シロの記憶する限り人生初の願い事が叶った様子もない。
だがこれと言ってショックも受けなかった。
だめで元々、やはり夢や希望、あるいはそれを叶えるような都合のいいものは存在しないということが改めてわかった。
それだけ思ってまたリビングへと戻り、夕食を待つことにするのだった。
この時のシロは気づいていなかった。
あの光が、あの彗星が、確実に世界に影響を与えていたことを。
地上に黒い塵のような物質が姿を現していたことを。
そして、
最初は興味本位だった彼が願ったことは、そんな目的とはかけ離れた思いから表れたことを。
シロは何も気づいていなかった。