1 ワンクリック
カチ…カチカチカチ……
静寂の中、ただ只管求められたものでもないというのに、狭く小さな暗闇の部屋には同じ音が、何度も、それは幾度となく繰り返される。
彼は、何度も音を鳴らす。欲するがままに。己が欲望という、枯渇寸前の感情を。
だが、求めるものは見つかることはなく、彼は胸に込み上げる感情を吐き出すよう、深いため息を漏らした。
---つまらない。
彼はモニターを見つめ、今日という日に、指では数えきれない程の何度目かの溜息をもう一度漏らす。楽しくもなければ、面白みも無いというのに、感情を押し殺し、淡々とマウスで画面をスクロールしてはクリックしてページを開く。
カチ…カチカチカチ……
クリックする対象に、選択肢などは無い。ただ何となく開き、そして目の前に映し出された選択肢に、自分の意思とは関係なく、有無と問うまでもなく、只管肯定へと突き進む。
何があろうが、彼は決して表情を変えない。無言を貫き通す。
画面にどれだけ変化が訪れようとも、彼自身に変化は訪れないのだから。
驚きも、喜びも、悲しみも、後悔も。そう思わせる出来事に出くわさないから。
しかし、彼自身は薄々気が付く。気にも留めなかったものに。それは次第に濃く染まり、日に日に増えるため息の回数が感情の変化を物語る。
---とても、つまらない。
深い、絶望感。この世に生まれ落ちた、自身に対しての強い怨念。
例えばこの身が世界に多大なる影響を与えたとして、それが何になるというのか。いつかは死ぬ定め。自分という存在の寿命が尽きたとき、この世界にいる人々の殆どは消え、新たな人類が誕生したとき、そこに自分という存在はいない。
もし多くの人々に語り継がれたとしても、人の記憶は時の流れで風化する。長い時を経て伝える人々がいなくなれば、それは自分は初めからこの世に存在していなかった事を意味する。
そうなったとき、もし別世界で自身という存在が少しでも残されていたのだとしたら、きっとこう思うだろう。
自分は一体、何のために生きたのかと。
物心がついたとき、彼はその答えにたどり着き、そして後に残されたものは絶望だけだった。
この意志が受け継がれようとも、後の世に残るものは極めて少数。やがて知るものは居なくなり、糸を結ぶ繋ぎ手が途絶えれば存在した人は過去形から紛れもない無へと帰る。
永遠なんてものは無い。ふとした切っ掛けで人類が滅亡、あるいは大半が死ぬ危機が訪れた時、残された者は今という時代を生きようと、それまで生きてきた過去を切り捨てる。そして今を生きた者だけが、その今だった時代を濃く語るだろう。
だとしたら、今を生きた人々の前は、結局何だったのか。もしその滅亡の時が刻々と迫っているのだとしたら、一回しかないこの命、この記憶は何だというのか。
人生という一つの一生の中、いくら必死に足掻き生きようとも、必ず何もかも得たものは無に帰るというのに。この地に生まれ落ちたその日から、死という終わりも得てしまうというのに。
人々は何故死に恐怖しながら、しかし何時かは死ぬ定めだと諦め、次第に老いていく自分を見つめて、それでも命を削りながら必死に明日を生きようと毎日を過ごすこの日々に、何か意味があるのか。
何のために自分はこの世に生を受け、この世へと、現在まで生きて存在しているのか。
彼は真実を求め、ただ訳も分からずに闇雲になって探す。
ただ、本当は分かっていた。絶望してしまったその時から、知ってしまっていた。
『この世に、意味なんてものは存在しない』ということに。
なら、その意味の無い一生を、一度だけの人生、死ぬまで充実したい。
今となっては、だからこその、それが人の感情というものだったのかもしれない。
絶望は、欲望へと移り変化を遂げる。
この世の『面白い』に飢え、欲を満たすために『面白い』を求めて探し、喉の乾きを潤す為に『面白い』を探す。
しかしどちらも満たされることはなく、日が経つに釣れ、飢えて日乾いていく一方。
当然だ。この世の出来事に、興味は無いのだから。
この世の無に帰る知識など不用。この世にはないもので楽しんでこそ、それは飢えた喉の渇きを潤す時となる。
自分にとって『面白い』と感じなければ、言うなればそれはただのエラー。いらないと思っている物を欲するものは存在しない当然の思考。
彼にとって、これは作業。この世にあるエラーを開き、エラーを閉じるという、記憶の片隅すら入らない、意識すらもしないただのゴミ。
だからこそ、彼は苛立ち、焦燥し、欲望と絶望が色濃く混ざり合う。
ただ一時の『面白い』を求めるが為に、ただただ何の意味もない無を集める。
それを何百万、何千万と、一体自分はどれだけ繰り返しただろうか。
カチ……カチ…………。
鳴り響く、無。
彼には、もう既にこの世の音すらもエラーと化した、興味の無い、ただの無。
淡々と、始まりもせず、終わりもしない。この世に生まれてから、彼は始まってから終わりの日々を繰り返す。
……カチ。
無意識に選択した、ただ一回のクリック。それは、この日この時、今という時の流れを持って、彼の色ざめた世界の中、突如として現れたそれは彼自身の終わりを告げ、そして又、同時に始まりを告げた。
『こことは違う、別の世界に興味はありますか?』
突如として現れた、一つのページに目が留まる。溢れ出る情報の渦に呑まれ、数々の埋もれたエラーの中、それは何処と無く画面に現れた。
真ん中に一言の文が佇み、そのページにはただ一言しか存在しない。
……暇つぶし程度にはなるか…
ページをクリック、するとそれに『はい』『いいえ』と文字が現れる。
その時、心境としてからそれは魅力が無ければ面白くもなかった。
ただの余興であり、そして芽生えた遊び半分。
カチ。
躊躇せずにマウスを動かし、矢印を『はい』に向けてクリックする。
すると、画面内が奇怪な動きをしだし、唐突にブラックアウト。周りに存在したエラーは消え、中央にだけ酷く簡潔な一言が映し出される。
『異世界へ行きたいと思いますか?』
それは、実に直球な内容だった。
この世に興味が無い以上、その問いはまさに、彼自身が一番に求めていたものなのだから。
酷く心が揺さぶられ、感情の渦が巻く。
だが、感情は同時に現実の元へ、高揚するまでもなく、すぐに感情は冷めていく。
……くだらない。もし異世界があるなら、誰だって思うだろう。
冴めた瞳には、期待もせずただクリックして現れた光景を映し出す。
カチ。
『一度入れば、二度と元の居場所に帰れなくなります。それでもよろしいですか?』
カチ。
『【最終通告】次の最終判断を最後に、貴方は異世界へと移ります。本当によろしいのですね?』
くだらない。
吐き捨てる。毒づくよう、感情を吐き出す。
…本当に…くだらない。
異世界なんて……くだらない。
こんなものは、もうどうでもいい。だから、もう終わらせよう。
最後の選択に『はい』を選ぶ。
カチ。
静かにマウスをクリックする。すると画面が一瞬点滅し、文字が現れた。
『最終確認終了。では手始めに』
変化が現れた。それは、最初で最後のクリックをしたことで。
とはいっても、それは何かしたからでもなく、モニターに映し出された画面内でもない。
---ッバキリ。
モニターの外枠に、無数の亀裂が生じる。グネグネと画面は歪み、何かの砕け散る音が急速な勢いで迫り来る。
『死んでください』
何が起きたというのか、その疑問に答えるべく、最後の一言が画面に現れた瞬間、亀裂の生じたモニターの外枠は全て剥がれ落ち、突如として無数の牙が生えて大口を開く。
「……はい?」
彼の瞳に映ったそれは、この世のものではなく。
そしてエラーでもなく。
それに反応した頃には、逃げることも避けることも叶わず、俺は訳も分からぬまま食われて死んだ。