05話 平穏な日常・その4
斉木が見えなくなると、陽介は先程の興奮をおさえ、息をひそめて物陰から周囲を窺った。
霧って、まったく楽しい。雰囲気倍増だ。
隣を見ると、裕太が真剣な顔で霧の向こうを透かし見ている。陽介は弛んでくる顔を引き締め、もう一度辺りを見まわした。
異常なし。
陽介は裕太にコクンと肯くと、一気に5mほど先のツツジの植込みに飛び込んだ。
周囲の安全を確認し、裕太に合図を送る。
裕太が走ってくる間に、陽介は油断なく敵兵の気配を探った。
異常なし。
陽介は楽しさのあまり背筋がゾクゾクしてきたが、かろうじて真面目な顔を保った。
陽介と裕太がそうやって何回か慎重に前進していると、前方、公園の外から物音がした。二人は目線をかわし、息をひそめた。
「わおーん」
どうやらセイジらしい。
陽介は指笛を短く吹き、位置を知らせた。
セイジは駆け寄ってくるなり喋り出した。
「すごい報告があります」
「申せ」
「この先のコンビニで、担任のおばさん先生が少女マンガを買っているのを目撃いたしました」
陽介は思わず吹き出した。
あの意地悪ばあさんが少女マンガだって。似合わないったらない。一同はすっかり軍隊ゲームのルールなど忘れ、口々に喋り出した。
やがて、ふとセイジが辺りを見まわした。
「あれ、斉木はどこ行ったの。ひょっとして討ち死に?」
「何言ってんだよ。でも、遅いよな」
その時、遠くで妙な雄叫びが上がった。
「んご、んご、んごー」
斉木だ。本人はあざらしのつもりらしい。斉木が唯一出来る動物の声なのだ。
苦笑いの一同に、斉木がドタドタと近づいてきた。
「見てみて、すっごいの見つけたよー」
いつも控えめな斉木が、なにやら揚々と差し出している。
「真紀子のバッグ、落ちてたー!」
* * *
斉木は、自分がこんなに大手柄を立てたのが無性に嬉しかった。
これで陽介君、ボクのこと見直してくれるかな。今日はツイてるなあ。
斉木にとって陽介と裕太、特に陽介はヒーローだった。小学校二年生になった初日、雨上がりの太陽のように現れた陽介を、斉木は今でもはっきりと覚えている。
小学校二年生になったその日、斉木はあまり目立たないようにしながらもすでにあきらめの心境だった。
どうせまたいじめられる。クラス替えで人が入れ代わっても、結局は同じことなんだ。
幼稚園でいじめられていた斉木にとって、小学校入学はいじめから逃げ出せる待望の出口だった。しかし、現実はそんなに甘くなかった。
入学三日目にしてつけられたあだ名が、デブタ。五日目には、クラスで一番美人の女子からブタの真似してと頼まれる始末だった。その女子の一言で男子たちの遠慮がなくなり、それ以降斉木はブタとして扱われた。
何か言おうとするとブタが人間の言葉を喋るな、だの、みんなが残した給食を全部斉木の皿に盛られて、ブタのようにブーブー鳴きながら全部食べろ、だの、それはもうやりたい放題。あんなに嬉しかったぴかぴかのランドセルも、新品のスニーカーも、斉木にとってはあっという間にどうでもいいものになってしまった。
そして耐えること一年。待ちに待ったクラス替えだったが、それが近づいてくるにつれて斉木は不安になっていった。新しいクラスになっても、また同じことの繰り返しだったらどうしよう。あだ名が変わるだけかもしれない。
それに、小学生になったときよりも今回は厳しいかも。だって、一年の時と同じクラスになる人、絶対いる。
斉木はそれに気付くと目の前が真っ暗になった。
もうだめだ。せめて目立たないようにしていよう。
クラス替えの初日、初めはみんな前回も同じクラスだった人で固まっていたが、新しい担任の先生が入ってくる前にも、徐々に新しい勢力図が出来あがりつつあった。
今度のクラスの中心はあそこだな。斉木は教室の隅からそっと様子を見ていた。
おそらく前回も同じクラスだったのであろう二人組で、一人は背が高くてリーダーの雰囲気があり、その脇の一人は大きな目がきらきら光っているのが印象的だった。二人の回りにはなにか楽しそうな空気が漂っていて、斉木はチクリと胸が痛んだ。
二人の周りには既に人が集まっていて、みんな一斉に笑ったりしている。
いつかボクもあんな風に笑いたい。でも、無理、なんだろうな。
「あれえ、デブタと一緒かよ」
遅れて教室に入ってきた数人が目ざとく斉木を見つけて叫んだ。
ああ、もう始まっちゃった。斉木は涙が出そうになった。かろうじて涙をこらえながら下を向いて、斉木は嵐が過ぎるのを待った。
前回も同じクラスだったその数人が、大きな声で次から次へと斉木を紹介してくれている。あいつデブタって言うんだぜ。ブタの癖に学校に来るんだ。たまに人間の言葉も喋るんだ、ブタの癖に。
「おい、お前、ブタなんだって?」
早速便乗するのが現れた。
斉木の前に来て、しきりに臭いをかいでいる。背の低い子で、その頭が俯いている斉木の視界に入ってきた。
「返事するときは、ブヒって言わなきゃ。ダメだなあ。でも、そんなに臭くないや。つまんないの」
一人で喋りまくるその子に、斉木は何も言い返せなかった。
ここで何か言い返すことが出来ればこの先いじめられることはないかもしれない。斉木にもなんとなく分かってはいたが、今はただ立っているだけで精一杯だった。もし話す力があったとしても、斉木は迷わず逃げ出すことにその力を使っていただろう。
絶望に深く沈みながらも、斉木はそんな自分が情けなく、さらに深い絶望へと落ち込んでいった。
斉木の太陽が現れたのはその時だ。
「本当はなんて名前なの?」
気が付くと、先程斉木が幾分の羨望と共に眺めていた目の大きな子が目の前に立っていた。
「僕、竹中陽介。みんな陽介って呼んでる」
突然の優しい口調に、斉木は言葉を返せなかった。少しの沈黙の後、その子の後ろに立っていた背の高い子が口を開いた。
「俺、佐々木裕太。裕太って呼んでいいよ」
陽介と名乗った子が後ろを振り返り、裕太と名乗った子に微笑みかけた。
へえ、仲いいんだ。今のが感謝の微笑で、背の高い子はそれに対して、また始まった、でもお前に付き合うよっていうようなことを無言で返したみたい。
かつてない展開に混乱しながらも、斉木には二人のやり取りがなんとなく分かった。斉木はそんな二人がなんだか眩しくて、また下を向いてしまった。
「さっきキミの臭いをかいでた失礼なヤツがセイジっていうんだ」
「失礼なヤツ? 失礼なヤツだって??」
斉木が目を上げると、セイジと紹介された背の低い子がとっさのことに反応できずに口をパクパクさせている。
「で、キミはなんていうの?」
焦点がまた自分に当たり、斉木はドキリとした。
さあ、ここでボクが何か言わなきゃ。何か気の利いたこと。何か面白いこと。
斉木は頭を絞った。が、何も出てこない。
沈黙が長くなる。
さあ、早く答えなきゃ。早く。
しかし斉木の口から出てきたのは次の一言だった。
「ブヒ」
なんでそんなことを言ってしまったのか、斉木には未だに分からない。
しかし、絶妙の間で言われたその一言に、まずセイジがゲラゲラ笑いだした。陽介と裕太もつられて笑ってくれた。セイジがバンバンと斉木の肩を叩いて言った。笑いすぎて、目に涙まで浮かんでる。
「お前、面白いなあ。気に入ったよ…」
それから斉木はデブタではなく、ただ、斉木、と呼ばれるようになった。常に陽介が側にいてくれたし、その後ろにはクラスの人気者、裕太がいたからだ。家でランドセルを見ても嫌な気分にならなくなって、それどころかその汚れぶりを見ると楽しい気持ちになるのだった。
生まれて初めての友達! ボクは今日も陽介君達と一緒に遊んだ!!
誇らしさのあまり、斉木は時々大声で叫びたくなる。陽介達と遊ぶようになってから半年が経っても、未だに陽介は斉木のヒーローだ。陽介君のためならたとえ火の中だって飛び込めるぞ(それほど熱くなければだけど)、斉木は眠りにつく前によくそんなことを考えるのだった。
しかし、そんな斉木にはまた新しい恐怖があった。
それは、陽介達に嫌われること。
陽介達がいなくなれば、またいじめられっ子に逆戻りするのは分かりきっている。それも嫌だが、なにより耐えられないと思うのが、陽介達に避けられることだった。
ようやく出来た友達。その友達に避けられるようだったら、ボクは本当につまらないヤツなんだ。しかも、あの優しい陽介君にまでそう思われるようだったら、とことんくだらないヤツということだ。この先誰かに仲良くしてもらうなんてあきらめた方がいい。
斉木はそう考えると、陽介達と一緒にいる時、誰かの後に続いて喋ることはあっても、怖くて何も自分からは言い出せないのだった。
今日、実は、斉木はみんなに家に来て欲しかった。
家であんまりにも陽介達のことばかりを話すものだから、斉木の母親がぜひ連れて来いと言い出したのだ。斉木はかなり長いことその提案から逃げ回っていたが、ついに捕まって、今日、よりによってこの霧の日に、みんなを招待することになってしまっていた。
母親はお菓子やらジュースやらを用意して待っていることだろう。斉木のお気に入り、というより母親お気に入りのアップルパイなんかも出るかもしれない。
でも、みんなに言い出せなかった。
どうやって言い訳したらいいかわからないけど、でもさ、お母さんだってボクが陽介君達に嫌われない方がいいでしょ? お母さんが納得するような素敵な言い訳は後で考えるから、今は陽介君に感心してもらえるように頑張らなきゃ。