02話 平穏な日常・その2
「さっきは危なかったなあ」
「ありゃ、危うく職員室コースだったね」
放課後、裕太は男子に囲まれていた。スポーツ万能の裕太はクラスの人気者で、男子には絶対の支持を集めていた。一部の女子に好かれてさえもいる。
「一時はどうなるかと思ったよ。でも、陽介が答えてくれたから助かった」
裕太が陽介に話題を振った。これには、陽介はいつも照れくさい思いをしていた。
裕太が何かにつけて陽介を持ち上げてくれるので、陽介もクラスで一目置かれる存在となっているのは事実だった。が、陽介は、裕太が早くクラスのみんなから開放されて、いつものメンバーに合流してくれた方が気楽なのだった。
「そういえば、セイジと斉木はどこ行ったんだろ」
陽介は、皆の注目にドギマギしながら話題をそらせた。
確かに、さっきから二人は見当たらなかった。そして二人が来ればいつものメンバーが勢揃いとなって、自然と霧の中の冒険へと出発できるはずだった。陽介は祈るような気持ちで周囲に目を走らせた。
どうも人に囲まれるのは苦手だ。
今裕太を取り囲んでいる人たちだって、一対一、せめて一対ニぐらいなら普段どおり喋れる。相手が初対面だってそれは変わらない。
けど、今みたいに五人や十人に囲まれてみんな自分の方を見ている場合、誰に向かって何に答えればいいか分からないじゃないか。
ありがたいことに、陽介の言葉に誰かが、あいつらトイレに行ったみたい、と答えてくれた。話の中心が陽介からそれ、思い出したように何人かがトイレに向かった。つられて皆ざわざわと散っていき、陽介と裕太だけが残った。
「ね、またメッセージやってたの?」
トイレから帰ってきた斉木が、どこかうらやましそうに言った。後ろにセイジもいた。
斉木は丁寧にハンカチを畳んでポケットにしまうところで、セイジはそんな斉木の背中で手を拭いている。セイジのお気に入りのシャツは相変わらず袖口のボタンが取れたままで、セイジが手を動かすたび、ちらちらと細い手首が見え隠れしていた。
いいコンビだ、と、いつも陽介は思う。
おっとりしたデブチンの斉木に、チビで悪ガキのセイジ。いじめられっ子といじめっ子のありがちなパターンだが、この二人はわりと上手くやっていた。まあ、セイジのどぎついからかいを会話のキャッチボールだとすれば、の話だが。
「斉木とセイジにもメッセージをまわしているところだったんだ」
陽介の斉木への答えは、半ば弁解になってしまった。
斉木は仲間外れにされるのを極度に怖がっている。口には出さないが、そんな時の斉木の眼差しやおどおどした物腰から、陽介にはなんとなく分かっていた。
実際にメッセージをまわしているところで良かった。
でも、自分でもやればいいのに。そんなことがチラッと陽介の頭をかすめた。まあ、斉木のことだから自分からはやらないと思うけど。
「あ、そうなんだ」
ちょっとほっとした口調で斉木は続けた。
「ね、あのさ、もし良かったらなんだけど、今日さあ…」
「真紀子のヤツ、許せないよな」
手を拭き終わったセイジが割って入ってきた。
「あいつ絶対裕太と陽介のこと目の敵にしてるよ。まさか、ひょっとして裕太か陽介のこと、好きだったりして」
「勘弁してよ。あんなの、絶対嫌だね」
即座に裕太が言い返した。陽介は何を斉木が言いかけたかちょっと気になったが、セイジのあからさまな挑戦に、すっかりそんなことは忘れてしまった。陽介も何か言い返そうとしたものの、セイジの方が早かった。
「愛情の裏返しってヤツだって。家に帰ると、毎晩、"いとしの裕太様が私のことをもっと見てくれますように"ってお祈りしてるよ、きっと」
セイジの身振りを交えた冷やかしに、裕太はオエッと身振りで返して、話題を変えた。
「そうそう、今日はこの霧だろ、みんなでポコペンやらない? まわしてたメッセージもそのことだったんだ」
「いいねえ。この霧だもんな。まさにうってつけ」
セイジは即座に賛成した。陽介は、少し戸惑った様子の斉木を見て、さっき何か言いかけてたのを思い出した。
しかし、間を置かずにセイジが斉木をからかった。
「そう、この霧だもんなあ。斉木の鬼の連続記録、更新間違いなしだ」
「えー、こないだのはナシだからね。あんなのズルイよ」
斉木は、セイジの挑発に顔を真っ赤にして言い返した。
前回ポコペンをやった時のことだ。ポコペンとはかくれんぼの一種で、鬼は特定の木を本陣として、それを守らなければならない。本陣に触られる前に全員見つければ鬼の勝ちとなる。ただし、鬼は誰かを見つけたら、その名前を言いながら本陣に触らないと見つけたことにならない。
セイジはそれを悪用して、鬼の斉木が目を瞑って100数える間、隠れずにずっと初めから本陣に触って待っていたのである。
斉木が数え終わって目を開けると、そこにはニヤついたセイジが本陣に触りながらあぐらをかいている。鬼である斉木はセイジの名前をいいながら本陣に触らないといけないのだが、そんな余裕はもちろんない。なにしろ100を数え終わった瞬間に負けなのだ。
陽介と裕太も初めはそのアイデアに面白がったものの、3回、4回と続いてくると真面目に隠れるのがバカバカしくなり、5回目で別の遊びに切り替えたのだった。
「あれは、周りもつまんないから、これからはナシだな」
裕太が結論を下し、陽介も肯いて斉木にニコッと笑いかけた。斉木は嬉しそうに陽介に笑い返した。セイジは形勢不利に面食らったものの、すぐ立ち直って話題を変えた。
「ま、それはそれでいいか。そうそう、実はちょっとみんなに見せたい場所があるんだ。昨日偶然見つけちゃってさ」
セイジはポコペンのことはすっかり忘れたのか、クスクス笑いながら言った。
「え、どこ?」
「町外れの方。帰る方向とは逆になっちゃうけど、絶対オススメだって」
「セイジのオススメは、ロクなことにならないからなあ。どうする、裕太?」
「そうだなあ。こないだのセイジのオススメは、あの麦コーラで、実際に飲んでみたら麦茶に死んだネズミを入れて3日間醗酵させたような味だったし」
「そうそう、その前は、花火大会は打ち上げ場所で見るのがオススメ、真上に広がる大パノラマ、なんて言うから行ってみたら、立入禁止でお巡りさんに追いかけられたっけ」
「いや、今回はすんごいんだから。ま、びっくりするなよぉ」
「なんだか自信満々だなあ。ま、たまには違う所へ行ってみるか」
「よし、決まり。絶対後悔しないから。さ、早く行こうよ」
セイジの言葉にみんなバタバタと帰り支度を始めた。
手間取った陽介が少し遅れて立ちあがると、先に支度を終えた裕太が教室の出口で陽介を待っていた。
ありがと、裕太。
陽介は、裕太がこんなにも自分に優しいことに思わず笑顔がこぼれた。僕達、親友だもんね。陽介は裕太にタックルをするふりをしながら廊下に飛び出した。
陽介と裕太が出会ったのは、昨年、小学校一年生の春だった。入学式を含めて二週間休んでいた裕太は、初めのうちは誰とも距離を置いていた。それがなぜか陽介にだけ心を開くようになり、それが陽介は得意だった。
ふとしたはずみに悲しそうな物思いに沈むものの、徐々に明るくなっていった裕太は、クラスの人気者となっていった。陽介は、なんで最初に二週間も休んでいたかとか、たまに悲しそうな顔をするのはなぜかとか聞けずじまいだったが、それでも裕太がクラスの人気者になったのは自分のお陰という気がして、何かいいことをしたような気持ちになるのだった。
じきにすっかり明るくなった裕太は、陽介の考えを先読みするようになった。給食で陽介の嫌いなピーマンが出ると、何も言わずに裕太がそれを食べてくれる、初めのうちはその程度だったが、そのうち、野球に飽きた陽介が振り向くと、裕太がサッカーボールを持って笑っていたりするようにまでなった。
陽介はその度に嬉しくなる。クラスの中心人物である裕太は僕の親友で、僕のことをこんなに分かってくれている。陽介は鼻高々だった。
いつのまにかセイジが加わり、二年生になって斉木も仲間に加わって、今は四人で遊ぶようになった。人数が増えても裕太は陽介だけの親友でいてくれ、陽介は心の奥底で裕太とセイジ、斉木に順位をつけてしまったりするのだった――もちろん表には出さないけれど。
そんな親友の裕太や、ちょっと格は落ちるけどいつも楽しいセイジと斉木に囲まれて、陽介の人生は今まさに順風満帆だった。どんな困難も乗り切っていける、そして、これからもずっとこんな楽しい日々が続く、陽介はそう無邪気に思っていた。
「どうした?」
後ろから裕太が声をかけてきた。
「ううん、なんでもない」
裕太は僕のこと、何でもお見通しだ。陽介はちょっと嬉しくなって、振り返って裕太にニッコリ笑いかけた。
裕太は僕の親友だ。
人生って素晴らしい。
陽介は上機嫌で廊下をスキップしていった。
* * *
ちょうどその頃、気象庁はちょっとしたパニックに陥っていた。朝のうちだけと予報していた霧が、陽介達の住む町にどっかりと居座り、午後の二時を過ぎても消えるどころかますます深くなっていたからだ。
通常、霧は大気が急激に冷やされて発生する。晴れた夜に放射冷却が起こり、冷えた地表に接した大気も冷やされて発生する放射霧などが代表的だが、それは明け方のみの現象で、太陽が昇って大気が暖められると消滅する。
今回、確かに前線を伴う寒気団も接近していた。しかし、それは諸条件からいって霧を発生させる類のものではなかった。今回の霧はあくまでも典型的な放射霧であり、従って日の出と共に消えていくはずだったのだ。
異常気象といっても良い原因不明の霧に何とか説明をつけようと、関係者はそろって頭を抱えていた。