01話 平穏な日常・その1
早く授業終らないかな。
もう何度目になるだろうか、陽介は窓の外に視線をさまよわせた。教室ではいつ終わるともしれない授業が延々と続いている。窓の外では、ほっとしたことにまだ霧が薄れる気配はなく、校庭の向こう側にある木々はぼんやりと黒い影のままだ。
こんな霧は初めてだ。あの霧の中はどんな感じなんだろう。きっとひんやりして気持ちいいに違いない。
陽介は小学校二年生。二回目の運動会も無事終り、そろそろ授業や先生、そして女子というものにうんざりしてきた頃である。
しびれを切らせた陽介はノートの端を切り取ると、後ろの席の裕太に宛てたメッセージを書くことにした。
裕太は僕の"親友"だから、きっと同じことを考えてるはず。
先生が背中をむけた隙に、陽介はメッセージを畳んで裕太に手渡した。手渡したといっても、後ろを振り返ったりはしない。体はそのまま手だけを後ろに伸ばし、リレーのバトンの受け渡しを逆にやる要領で裕太がメッセージを受け取るのを待つ。間髪を入れずに裕太の手が陽介の手に触れ、メッセージを持っていった。
少し待つと、裕太の席のほうから、机を指で拍子をつけて三回叩く音が聞こえてきた。
トン、トトン。
合図だ。陽介は再び手を後ろに伸ばし、振り向くことなく裕太からの返事を受け取った。単純に振り返って喋ってもいいのだが、あえて陽介がこの手法を考え出したのだった。
この方がスパイみたいで、断然ワクワクする。
"外、すごくない?"
これは陽介が初めに書いたメッセージ。そこから矢印が伸びて、その先に裕太の返事が書いてあった。
"ポコペンやろうぜ"
ポコペンとは陽介達の遊びの定番であるかくれんぼの一種だ。
この霧の中でやるとなると……。
さすが裕太。
霧に紛れて姿をくらます自分を想像して、陽介は胸が高鳴り、夢中で返事を書いた。
"大さんせい! いつものメンバーでいい?"
"おっけー。じゃ、みんなにもつたえなきゃ"
"まかしといて"
陽介は歯抜けになったノートをまた切り取り、いつものメンバーの残り、セイジと斉木に宛ててメッセージを書いた。二人の席は陽介達から少し離れているため、メッセージは人伝いに回してもらわなければならない。メッセージがクラスの中を移動していく様を陽介が見守っていると、トン、トトン、裕太から合図があった。
"外、みて"
とっさに霧が晴れてしまったかと思い、陽介はあわてて外を見た。
大丈夫。
まだ霧はしっかりあった。
"なに?"
"きり、こくなった気がする"
そう言われてみれば、先程まで見えていた校庭の向こうの木々がすっかり見えなくなっている。視界は50mぐらいだろうか。安心した陽介は、黒板の上の時計をチェックした。
まだあと十分もある。
今日は時間の進みが特に遅い。陽介は、催促すればするほどゆっくりと進む、教室の時計が大嫌いだった。
「先生、裕太君達が変なことしていまーす」
斜め後ろの席の女子がいきなり大声をあげた。その気取った声、そして、いかにも自分は正しいことをしているという口調は、陽介には見なくとも分かる。学級委員の真紀子だ。
よりによってこんな時に。
前の席の子供達が一斉に振り返り、先生が、またか、という顔をして近寄ってきた。陽介の脇まで来ると、分厚い眼鏡越しでも細く見える切れ長の目で、斜め上から裕太を睨みつけた。
担任の山田先生は中年のおばさん先生で、とにかく厳しい。そして、どうやらこの先生は男というものに恨みがあるらしい、そう陽介達男子は信じて疑っていなかった。
シューダンセイカツとかチツジョとか、いつも耳にタコが出来るくらい聞かされているのだが、実際、その弾圧の対象は男子だけなのだ。授業中に女子がクスクス笑っていても何も言わないくせに、男子がちょっとでも喋ろうものなら即座に嫌味なお説教が始まるのだ。
上級生から伝わってきた噂によると、山田先生が小さい頃に――陽介には先生の小さい頃なんてとても想像できなかったが――好きな男の子に犬のウンチを無理やり食べさせられたらしい。それ以来、山田先生は世の男達に仕返しをするのが生き甲斐になってしまったとのことだ。
初めに陽介がそれを聞いた時は半信半疑だったが、今では八割がた信じていた。
「じゃあ、裕太君、質問。授業を聞いていたら、もちろん、これには答えられるわね」
――出た、何度この質問に泣かされたことだろう。
陽介は顔をしかめた。まるで授業など聞いていなかった陽介には、もちろん答えられるはずもない。おそらく裕太も同じだろう。そして、山田先生もそれを感じ取っているはずだ。
陽介の脳裏にこの後の展開がまざまざと浮かんだ。答えられないとなると、何をしていたかをそれはもうねちねちと尋ねられ、放課後に職員室でお説教が待っているのだ。
さらに今回は、メッセージをやり取りしていたことも、ついにバレてしまうに違いない。陽介の歯抜けのノートを調べられたら、今回だけではなく何度もやり取りしていたこともバレてしまうかもしれない。お説教は更に長引くことだろう。
陽介は、その嫌味で粘着質の口調を想像しただけで鳥肌が立ったが、今日だけはお説教に時間を取られたくない。何しろこの霧なのだ。いつ何時晴れてしまうともかぎらない。
先生の注意が裕太に注がれている隙に、陽介はまず、メッセージが書かれたノートの切れ端を教科書の下に隠すことにした。セイジと斉木に宛てたメッセージについては祈るしかない。さりげない動作のつもりだったが、教科書をメッセージの上にかぶせた時にバタンと大きな音がしてしまい、陽介はビクッと身を縮ませた。
「スイミーはどうやって大きな魚を追い払ったのかしら」
先生が、裕太に向かって授業の内容とおぼしき質問を始めた。どうやら陽介の行動には気付いていないらしい。
よし。次は裕太を助けなきゃ。
陽介は、猛然と国語の教科書のページをめくり、答えを探し始めた。スイミー、スイミー…。
「聞こえないわ、裕太君。もっと大きな声で答えて頂戴」
立ち上がった裕太が何か口の中でもぐもぐ答えるのを見て、先生の口調が勝ち誇ったものになってきた。さしずめ恐怖に凍りついた鼠を眺めるアナコンダ、といったところか。
裕太は沈黙とごにょごにょを繰り返している。たっぷりと裕太のもがく様を観賞してから、先生は次のステップに進んだ。
「答えられないのね、裕太君。じゃ、授業中に何をしていたのかしら、教えてもらいましょうかねえ」
「先生、裕太君は、陽介君と、何かこっそり…」
裕太の沈黙に、告げ口した真紀子が、更に追い討ちをかけようとした。
陽介は、教科書から目を上げ、真紀子を思いっきり睨みつけて黙らせた。おそらく先生の質問の答えと思われる箇所も発見していた。もう少しちゃんと調べておきたかったが、いいタイミングかもしれない。そんなことは知らない真紀子の取り巻きグループは、揃ってニヤニヤしていた。
「あら、陽介君も。陽介君でもいいわよ、答えられるなら」
陽介は立ち上がり、山田先生を正面から見据えた。先生は、あら鼠が二匹に増えた、と眼鏡の奥で笑っているようだ。
さあ、かかってこい。
「じゃあ陽介君、質問はこうよ。スイミーは、どうやって大きな魚を追い払ったのかしら」
先生の落ち着き払った態度に、不安が頭を持ち上げた。
違っていたらどうしよう。
でも、言うしかない。
陽介は、自分の顔が赤くなっているのを意識しながら、ゆっくりと答えた。
「スイミーは、仲間と、もっと大きな魚の形をした群れを作って、大きな魚を追い払いました」
山田先生の口があんぐりと開いた。どうやら合っていたらしい。
やった!
先生は真紀子にチラリと流し目をくれて、何事もなかったように教壇に戻り始めた。陽介と裕太はドサッと椅子に座り込んだ。クラスが緊張から開放されてみんな勝手に喋り始めたが、山田先生の鋭い一瞥で静かになった。
そして、間もなく救いのチャイムが鳴った。