アナザー・エール 月光 前編
少し手を伸ばせば助けられるなら、少し手を伸ばして助けるべき。
子供だったときにお父さんが教えてくれたこの言葉に続きがあったと知ったのは、私が13歳のとき。
カミラギノクチで見た、あの光景がきっかけだった。
……だけど、人が手を伸ばせる範囲には限りがある。
ネクタ大陸は、この世界のほんの一部でしかない。
そして世界は、私が思っていたよりも残酷で。
私の手は……そんな世界に届くほど、大きくはなかった。
その言葉を、そんな当たり前の事実と共に私が噛み締めることになるのは。
それからさらに、3年後のことだった。
13歳の時、私はカミラギのサキモリを務めていた。
サキモリ……、他の国で言えば騎士のようなものだろうか。
もちろん正確には、王制を敷いていないネクタには王に忠誠を誓う騎士もいないのだけれど……。
魔物の撃退と治安維持を目的としたお役目という点では、サキモリはそれと変わらなかった。
カミノザから地区内に迷い込んで来たり、地区内に棲み付いてしまった魔物の討伐。
地区内の未開地域を探索したり、居住区から離れた場所に行く住民の護衛。
各ノクチやカミノザとの境界を守護する門番や、市や区議会の警護。
あまり数は多くないけれど、住民同士の揉め事の仲裁。
……ソーマの言葉を借りれば、ちょうど「ケイサツ」のようなものだろうか。
こういった業務の内容的に……特にネクタの魔物は基本的に強いということもあるため、サキモリになれるのは精霊との契約を済ませた高位魔導士だけだ。
とはいえ、人間や獣人と比べて魔力資質が高いとされる森人でも流石にBクラスを超える魔導士がそこらに溢れているわけではない。
必然、人数を揃えるためにサキモリには私のような未成年も多く在籍していた。
ただ、私は大人に混じって魔物と戦うことを、嫌だと思ったことはない。
と言うよりそもそも、ネクタにおいてサキモリに選ばれるということは本人にとっても家族にとっても凄く名誉なことだ。
その強さと将来性を、地区の皆から期待されている。
その人格と人間性を、同族の皆から信用されている。
これは、他種族から閉鎖的と揶揄される森人の社会の中において最も重要で、そして尊ばれるべきことだからだ。
実際、12歳で私が区議会からサキモリの1人に選ばれたときは、親族や近所の人も招いて家で盛大なお祝いをしてもらった。
私自身誇らしかったし、何よりも家族が喜んでくれていることが嬉しかったのを今でも覚えている。
……そんなサキモリの仕事の1つには、ノクチの警護というものもあった。
交易のために訪れ、あるいはそれを相手にするために店を構えている他種族の監視や、森人との揉め事が起きた際の対処。
あるいは、ごく稀に港に侵入してくる海の魔物の撃退。
流石に未成年のサキモリが担当することはないけれど、カンテンかカンバラへ交易品を移動させるネクタの沿岸船に護衛として乗り込むこともあった。
通常なら厳重な審査がある上に未成年は保護者にやってもらわなければならない出入区申請も、サキモリの任務なら区議会自身が代行してくれる。
そういった経緯もあって、私たち子供のサキモリは森人でも珍しい「子供の頃から度々ノクチに行ったことのある森人」でもあった。
その日の私の任務は、そのノクチのパトロールだった。
2人1組、未成年のサキモリは必ず大人とペアになって5組が、班長の指示に従って町中を巡回する。
不測の事態に備えて、任務中のサキモリはコロモとアシダではなく洋服とブーツ姿だ。
サキモリであることを示す緑色の腕章をした右手で常に抜杖したまま、私と先輩であるコモンは割り振られた区域の道を歩き、順番にお店の店主と言葉を交わしていた。
その最中だった。
「……?」
「!?」
私たちの背後を、3人の子供が走り抜けていった。
人間、背格好からして多分私より少し下の年、性別はわからない。
おそらく元々は白だったのだろう、嫌悪感を催す黄色と茶色、そして黒っぽい赤色の染みに塗れた粗末な服。
首と、両手を束ねるように巻き付けられた、……鉄の鎖。
裸足で土を蹴るタタタッという軽い音と、チャリチャリ、ジャラジャラと響く重たく冷たい音。
その後に続いて私の顔にぶつかったノクチの生ぬるい風は、潮風とは違う、吐き気がするような不潔な生臭さに汚れていた。
「「!!」」
店の軒先からそれを振り返って硬直した私たちの目の前をさらに通過する、人間の大人が2人。
布の服の上から薄い革のベスト、きちんと磨かれた革のブーツ、腰のベルトに下げた銀色の短剣と短杖。
「待てゴラァッッッッ!!」
「停まれガキどもぉっ!!」
怒声と罵声を上げて子供たちを追うのは、外の世界で「冒険者」と呼ばれる存在だ。
「……追うぞ、アリス!」
「は、はいっ!」
太陽の照りつける中、その冒険者たちの姿が小さくなり始めてから、私の隣で私と同じように呆けていたコモンは慌てて走り出した。
続いて私も、言われるがままに通りの地面を強く蹴る。
これは、明らかに異常事態だ。
数十メートル先の角を曲がった子供、それを追いかける2人、さらにその後を追いかけるコモンの背中。
右手のステッキの柄を指が痛いくらいに強く握って、私は必死でそれを追いかける。
何事かと振り返ったり、両隣の軒から驚いた顔を出すノクチの住人たち。
それら全てが曖昧な色彩となり左右から後方に疾走していくその景色の中で、だけど私の頭の中も同じようにグチャグチャだった。
使い古し、汚物の掃除の後で捨てるしかないようなボロ同然の布の服。
日の光を照り返すほど黒い垢に塗れ、汗と傷だらけだった肌。
やっぱり汚れ放題で蔓のように絡み合っていた髪の毛と、血が滲んでいた足。
まだ小さくチャリチャリと聞こえる、手と首の鎖が擦れる音。
「ハァ、ハァ、ハァッ……!」
あの子供たちは、何なの?
どうして、あんな恰好になったの?
今まで、どうしてきたの?
どうして、逃げているの?
「ハッ、ハッ、ハッ……!!」
この後、あの子たちはどうなるの?
「……ギャッ!!」
自分の呼吸音と自問で頭がいっぱいになった私が角を曲がったところで、前方から短い悲鳴が聞こえた。
「この、ふざけやがって!」
「奴隷ごときが、余計な手間をかけさせるんじゃねえ!!」
そして、怒鳴り声と。
何か軽くて軟らかいものを蹴っ飛ばし、それが硬い壁や地面にぶつかる鈍い音。
「何事だ、貴様らぁっ!」
私に背中を向けたまま杖を構えた、コモンの大声。
「……ッ、……ッ、……ッ!」
ようやくコモンの後ろに追い付き、肩で息をして必死に蒸し暑い空気を肺に送る私が見たのは、地面に転がったまま動かない子供たちと。
その両手から伸びた鎖の内、2本の端を踏みつけてこちらを振り返っている大人たちだった。
子供の内1人は、うずくまったまま動かない。
お腹を蹴られたのか、丸くなったまま土の地面に顔を押しつけてブルブルと震えている。
もう1人は、壁に背を付けて虚ろな表情のまま横に倒れている。
頬を真っ赤に腫らして口から血をこぼしているその子はどうやら女の子らしいと、私は硬直した頭の中でどこかぼんやりと考えていた。
……こちらは男の子らしい、最後の1人は。
ゆっくりと起き上がって、地面に座り込む。
そのまま、ゆっくりと顔を上げて。
「……」
「……」
……私の瞳を見た。
お母さんのよりもっともっと暗い、ほとんど黒に近い青色の瞳。
まぶたが大きく腫れて右目しか開いていないその目の中に、……だけど私の姿は映っていない。
光が、ない。
痛みも、苦しみも、怒りも、哀しみも。
何の感情も浮かんでいないその瞳は、やっぱりゆっくりとコモンの顔に向けられ、その前でこちらに愛想笑いを浮かべて何かを喋ってくる冒険者たちの背中に向けられ。
その足が踏んでいる鎖を伝って、自分の両手に向けられる。
そして。
ほとんど表情を変えないまま。
ほんの、少しだけ。
……笑う。
後ろから集まってくる無数の足音や、私に状況を聞く他のサキモリたちの声。
冒険者の仲間らしい人間たちが必死で弁解している声や、野次馬がザワザワと話す雑音の中で。
チャリ。
鎖の音が、小さく。
小さく、響いていた。
「どうして、わかってくれないの!?」
「座りなさい、アリス」
「アリスちゃん、落ち着いて?」
それから数年が経ち、16歳の誕生日が近付いたある夜のこと。
夕食を終えた私は、いつものようにお父さんとお母さんに食ってかかっていた。
「私はネクタを出て、世界を見てきたいの!
お話や本の中だけじゃない、本当の世界を知りたいの!」
「駄目だ」
「お父さん!」
「アリスちゃん!」
ついカッとなってお父さんに掴みかかろうとした私に、お母さんが強い声を出す。
「……ごめんなさい」
謝り、イスに座りながらも、だけど私は腕を組んだままのお父さんの瞳を睨みつけていた。
売買のために連れてこられた奴隷の、逃亡……の失敗。
あの日、その光景に衝撃を受ける私たち子供のサキモリに大人から説明されたのは、それまでの人生観が変わるほどに残酷で現実的な話だった。
人間や獣人が住む他の大陸では、戦争や破産で身寄りがなくなったり犯罪者となった人間や獣人を商品として売り買いしている。
売り買いされる奴隷には自由がなく、持ち主がどんなに酷いことをしても罪にはならない。
なぜなら、アレは「品物」だから。
小さい頃にお母さんが呼んでくれた絵本や。
サキモリの先輩が話してくれた物語や。
お父さんが書いている小説には出てこなかった。
この世界の、事実。
本来ネクタへの奴隷の持込は禁止されており、今回は初めて交易船を仕立てた商会の若い船長がルール違反を犯した。
その船長は死罪の上、該当の商会は今後一切の入港禁止措置とする。
あの奴隷たちも、そのまま送り返す。
お前たちはもう気にせず、……忘れろ。
隊長や区議、そして親たちから説明されたその内容を合わせても、私たちの内の何人かはノクチへ行かなく……いや、行けなくなった。
サキモリを辞めた子もいたけれど、それも仕方のないことだと特例として認められた。
先輩たちも、区議も、住民たちも、それを決して責めなかった。
大人たちもわかっていたのだ。
それを知ってしまった子供たちがネクタ以外の……。
本当の世界の姿が、恐くなったのだということを。
……だけど。
私は、逆だった。
「……お父さん。
私はネクタだけじゃなく、人間や獣人の世界も見てみたい。
お父さんたちが教えてくれた世界の良いところだけじゃなくて、悪いところもきちんと勉強したい。
戦争で苦しんでいる人や、あの奴隷の子たちみたいな人がいるなら……助けてあげたいの」
「……」
「『少し手を伸ばせば助けられるなら、少し手を伸ばして助けるべき』……。
そう私に教えてくれたのは、お父さんのはず」
「アリスちゃん……」
私は、自分が教えられていなかったその「世界」の大きさと残酷さを、あの日初めて強烈に実感したのだ。
痛み、苦しみ、怒り、哀しみ。
その全てを受け入れ、そして諦めていたあの子供を。
鎖に繋がれたまま浮かべていたあの絶望の果ての笑顔を、どうしても忘れることができなかった。
そして、次こそは助けたいと思ったのだ。
「冒険者として、世界を旅してみたいの」
そのために私は、サキモリの任務と並行してできる限りの準備をした。
暇を見つけては魔物の素材や月光石のように地区内にしかない貴重な物品を採集し、任務でノクチに出る度に人間の商人に取引を持ちかけてコツコツお金を貯めた。
ノクチや市を回って装備品や道具を少しずつ集め、世界の地理や風土が記された紀行書、魔物や戦闘について書かれた教本を手に入れては読み漁った。
他の大陸で書かれた歴史書や船員から聞いた話の中では、……知れば知るほど、私が今まで知らなかった不条理が平然と起こっていた。
……もちろん、知識だけじゃない。
毎日毎日、私は自分の体と魔導を徹底的に鍛え抜いた。
「お父さん、……認めて」
私は自分ができる限り賢くなり、強くなったつもりだった。
「……お前は、何もわかっていない」
「……」
だけど、お父さんは絶対にそれを認めてくれなかった。
私がこのことを初めて告げた日からおよそ半年、最近はほぼ毎日繰り返しているこのやり取りの中で、お父さんは絶対に首を縦に振らない。
その大きな体で、まさしく岩のようにどっしりと構えたお父さんは私と同じ色の瞳で、自分を睨みつける娘の瞳を見つめていた。
私のそれよりも濃くて……大きな鉱石のような、強い緑色。
それが、静かに閉じられる。
「お前のやろうとしていることは……偉大で、気高くて、とても優しいことだ。
そんなことを思うに至ったお前のことを、私は嬉しく思う。
お前のことを、誇りに思ってさえいる」
隣で、お母さんも深く頷いてくれている。
2人は確かに、サキモリに選ばれたとき以上に私のことを喜んでくれているようだった。
「じゃあ……!」
「……だが」
だけど、それに身を乗り出した私を射抜くように、開けられたお父さんの瞳には頑強な光が宿っていた。
ゴツゴツとした、宝石の原石。
「……だが、人が手を伸ばせる範囲には限りがある。
アリス、お前程度の強さでは世界は変えられない。
優しさや想いだけで、救いたい全員を救うことはできない。
お前の夢は、優しすぎるし……大きすぎる」
決して曲がることも変わることもない、絶対の意思。
私が知らないことを知っているからこその、言葉。
「お前は、お前の夢を叶えられるだけの強さを持っていない。
……考え直しなさい、アリス」
私の夢を認めてくれているからこそ、私の想いを認めてくれないという厳しさ。
「……もういい」
だけど、そのときの私は。
その厳しさを理解できても、納得はできていなかった。
「アリスちゃん!」
「おやすみなさい!」
「……」
階段を上がる私は、お父さんとお母さんの方を振り返らなかった。
「……あんた、わかってるんでしょうね?」
「……何が?」
部屋に飛び込んでベッドに突っ伏した後、声を掛けてきたのはお姉ちゃんだった。
お父さんと同じ炎のような色の髪を背中まで伸ばしたお姉ちゃんは、お母さんと同じ色の瞳を細めて顔を上げない私の後頭部を睨む。
最近は夕食後の話し合いに参加しなくなっていたもう1人の私の家族は、怒りなのか呆れなのか、短い溜息をついた後に妹に声を降らせた。
「お父さんもお母さんもあたしも、あんたのことを心配してるから反対してるんだってことよ」
「……」
「あんたの言う通り、ネクタの外では酷いことが起きてるのかもしれない……。
ううん、もうあんたの方が詳しいんだろうし、実際起きてるんでしょ?
……でもそれをどうこうするのが、……あんたじゃなくたっていいじゃない?」
「……」
「勘違いしないでね。
あたしは、別にあんたの夢がくだらないなんて思ってるわけじゃない。
お父さんも、そんなことは絶対に思ってない」
……わかっている。
「あんたが、あたしたちの知らないところで傷ついて……。
……死んじゃうかもしれないのが、…………嫌なのよ」
そんなことは、わかっている。
いつになく静かなお姉ちゃんの声を、私は顔を上げないまま聞いていた。
「お父さんもあたしも、お母さんだってそう。
世界よりも、あんたの方が大切なの。
あんたが夢を追いかけるよりも、あんたが元気で生きていることの方が大事なのよ……」
わかっている。
絶対に認めてくれない、厳しいお父さんも。
応援すると言いつつ心配を隠し切れていない、優しいお母さんも。
さじを投げながらそれでも私のことが大切だと心から言ってくれる、まっすぐなお姉ちゃんも。
その言葉が、家族である私を心配しているからだということはわかる。
その感情が、私を愛してくれているからだということはわかる。
わかっている。
……私が手を伸ばせる範囲には、きっと限りがある。
そんなことも、わかっている。
だけど、私はどうしても諦められなかった。
諦めたくなかった。
少し手を伸ばせば助けられるなら、少し手を伸ばして助けるべき。
それを私に教えてくれたお父さんが、それを否定するのを。
たとえ私のことを愛してくれているからだとしても、その言葉を否定するのを。
もう気にせず、……忘れろ。
大人が、そしてお姉ちゃんが言うように、自分に関係がないから目を背けろと言うのを。
見なかったことに、知らなかったことにしろと言うのを。
ノクチで見た、あの子の絶望を。
品物として売り飛ばされ、踏みつけられるあの子の渇いた笑顔を。
あの、鎖の音を。
私は。
それが正しいことだと。
どうしても認めたくなかった。
「……このことであんたに何かを言うのは、もうこれで最後にするわ。
後は、あんたが決めなさい」
「……」
結局、お姉ちゃんが部屋を出て行くまで、私はずっと枕に顔を埋めていた。
まぶたを閉じた瞳に感じるのは小さな痛みと、ただ大きな暗闇だけだった。
それから2週間後。
16歳になった私は、チョーカへと向かう船の上にいた。




