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クール・エール  作者: 砂押 司
第3部 アリスの家族

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ショート・エール 嵐の前日 前編

フリーダは、寝起きが悪い。


が、それも仕方のないことだとアタシやメイドたちは諦めている。

生まれつき両足の膝から下がないために自由に出歩けず、目もよく見えず、太陽に当たると激しく日焼けをしてしまう。

そんな12歳の少女の部屋には全ての窓にいつも分厚いカーテンが引かれていて、時間に関係なく常に薄暗いからだ。

朝とは、『声姫』にとって別に爽やかな目覚めの時間でも何でもない。


彼女の居城である大きなベッドの上でアタシかメイドに起こされて、忌々しげな舌打ちと共に1日が始まったことを知る。

それが、世界最強の魔導士にとっての「朝」だった。


だけどその日、フリーダは朝から機嫌がよかった。

起きているときは緩く2つに結わえている白い髪を解いたままの、白い肌と同じ色の寝間着姿。

いつものようにディアかキティに泣きつかれてアタシが叩き起こしにかかる前に、フリーダはベッドの上からニヤニヤとした表情をアタシに向けてきていた。





「ハー君、ハー君。

ボクもこんなことを言うのはあまり好きではないんだけれどね……、予定よりかなり遅れているよ?

君はクッキーが時間と共にどんどん冷めていくということを、もしかして知らないのかい?」


それが、今から少しだけ前の話だ。


「うっさいわよ!

だいたい、何で5軒とも近くで固めないの!?

菓子屋なんて、アンタのせいでそこら辺に溢れてるじゃない!」


風属性中位魔導【音届リーヴァ】と、同じく【声吸ライム】。

半径50キロ圏内を自身の領域とする『声姫』のそれは、まだ湿気と冷気が少しだけ残った朝の空の中、まるですぐ隣に本人がふんぞり返っているかのようにクリアに聞こえる。


「天下の風竜が、何をくだらないことを言っているんだい?」


エルダロン北8区の東1番通り6の1、クッキー専門店『月の満ち欠け』。

興奮と緊張のあまり顔が赤と白のまだらに染まっていたそこの店長から、震える両手で渡された包みを引っ掴んで。

風を受けてカサカサと鳴るまだあたたかいその包みを落とさないように、そして傾けないように慎重に握り込みながら。

すぐに空へときびすを返して早々に高度500メートルに達したアタシは、感情のままにその「声」に吼えた。


「ア、ン、タ、ねぇ……!!

まだ朝食も始まらない内に人を叩き出しておいて、その態度はおかしくない!?」


「失望させないでくれたまえ、ハー君」


都市の生活圏の直上で白い鱗を輝かせ、……菓子の使い走りをさせられている風竜の姿。

フリーダが6歳を過ぎたくらいからほぼ毎日繰り返されているこの光景に驚きを示す皇国民は、もはや極少数だ。

その事実を心静かに受け止められるようになった自身を情けなく思う暇もなく、アタシは軽く100キロ以上離れた南西の港町フランドリスを目指す。

2軒目までの分を一旦アイクロンに運んで、次がようやく4軒目だ。


「昨日、半日をかけて説明したじゃないか。

南1区『熱帯高原』の『季節のジャム』。

東2区『アウララ』の『カスタードムースケーキ』。

北8区『月の満ち欠け』の『クッキー詰め合わせラージサイズ』。

フランドリス『海風工房』の『船乗りのビスケット』。

そして、東4区『カルド・カクト』の『蒸しケーキ4色セット』。

これこそが、今のエルダロンで5本の指を埋めるお菓子なんだよ?

……わざわざ夜中から仕込みをしてくれた各店の店員たちと、3日をかけて綿密なスケジューリングをしたボクの努力に、むしろハー君は感謝するべきじゃないのかい?」


「アンタはアタシに謝罪をすべきよ!!!!」


いつぞやの蒸しケーキの店は、いつの間にかそれほどの評価を得ていたのか。

そんなどうでもいい思考を折りたたみつつ、アタシはアイクロンで不遜な笑みを浮かべているのであろうフリーダに怒鳴り返した。


「そうか、すまないね」


「……アンタねぇ……」


おちょくっているのか、本心からなのか。

ややトーンの落ちた見かけ上は素直な謝罪の言葉に、アタシの体内では怒りが不完全燃焼を起こし始める。


「だけど、……まぁ早目に帰ってきてくれたまえ」


「……」


しかし、その不愉快な熱に。

まだ涼しい、この朝の空気のような新鮮な風が送り込まれた。

それをもたらしたフリーダの……。

大嫌いな朝すらも楽しみにしていたこのクソ生意気な少女のここ数日の内心をおもんぱかって、私は続く言葉を黙って無音にする。


「彼に、自慢してやりたいんだよ」


「……わかったわよ」


何だかんだ言って、アタシは甘いのだろう。


実に1年以上ぶりに連絡をしてきた、当代の風の大精霊。

レム様との再会に浮かれているフリーダの声に溜息を飲み込みながら、アタシは飛行速度を上げた。

















当時の風の大精霊、カトリ様の下でアタシが風竜の座を拝命してからおよそ60年。

つまり、今から40年前に当代の風の大精霊となったレム様は、その当時まだ50歳程度の若い千年鳥せんねんちょうだった。


ちなみに、「千年」と言いつつも実際の寿命は300年ほどであるらしい、その主君と顔を合わせた回数はアタシも数えるほどでしかない。

先代様からの代替わりのときが初めてで、フリーダの守役もりやくに呼ばれたときが2回目。

以降は最短で半年間隔、最長で1年2ヶ月。

ほぼ不定期と言っていいリズムでアイクロンに立ち寄るそのときしか機会はなかったわけだから、面識という部分ではアタシとフリーダとで大きな違いはないとも言えた。


身内ではあるが、何を考えているのかが正直よくわからない。


それが、アタシが当代様に抱く率直な感想だ。

……そして、もう1つ。


無関心という部分で、レム様とフリーダは非常によく似通っていた。





【久しいね、ハイア】


南西のフランドリスからまたアイクロンを通り過ぎて東区へ、その後ようやくアイクロンへ。

朝の冷気が完全に消える頃に、クッキーとビスケット、蒸しケーキを抱えて戻ったアタシを出迎えたのは、その小さき大精霊だった。


「……ご無沙汰しております、当代様」


3つの包みを持ったままフリーダの居室に踏み込んだ瞬間に、普段は意識していない「空気」の存在を……まるで水の中にでも入ったかのような圧倒的な威圧感を覚える。

竜巻か、あるいは雷雲の中に身を投げ込んだかのような圧迫感。

猛る風の前には、竜であろうと城であろうと薙ぎ倒される他ないという現実。


【ああ、元気そうで何よりだよ】


白昼夢のようなその一瞬の絶望は、だけどなぎのように穏やかなレム様の声でまさしく夢から覚めるように霧散した。

嵐の中心に存在する、「目」と呼ばれる無風の空間。

自身がそこに迷い込んでしまったかのような錯覚と共に、全ての動揺がふわりと幻のように消えてしまう。


「……はい、これ」


「……は、はい!?

し、失礼いたします!」


この部屋の主人と、そして5属性の1つを司る大精霊がまとう莫大な魔力の奔流。

部屋の隅で控えていたディアとキティも、大精霊の御前であるという緊張とその存在感からいつにも増して顔色が白い。

喉の奥でクツクツと笑っているフリーダの目の前でアタシから菓子の包みを受け取る両掌には、冷たい汗が浮かんでいた。


「いつ、こちらにお着きに?」


【つい先程だよ。

私のために買い物に行かせていたようで、悪かったね】


「いえ……」


フリーダの居城である、3人が寝られそうな巨大なベッド。

そこを渡すかたちでしつらえられた精緻な装飾の施された木製のテーブルの中程で、レム様は小さな頭を傾けてアタシを見上げる。


ツバメを一回り小さくしたような、白い小鳥。

華奢なフリーダの手にすら収まるであろうその小さな体躯からは、全体のバランスを考えればやや長めと言ってもいい純白の翼と尾羽が続いている。

静かで透き通った、穏やかで若々しい、少年と青年の間のような声。


その姿は、見る者を不安にさせるほどに美しく、小さかった。


【私の契約者とは、仲良くやってくれているかい?】


「当然さ」


「……買い物に行かされる程度には、仲良くしていますかね」


【フフ……】


真紅の瞳を細めながら勝手に断言した、いつになく上機嫌なフリーダの指でたたんだ翼の端を撫でられながら、レム様の夜空に輝く星のような小さい瞳がアタシを包み込む。

空の蒼さをそのまま抜き出してきたかのようなその悠かな色は、【思念会話テレパシー】で伝わる声の通りにただただ穏やかで……。

そして、どこか掴み所がない。


【ハイア、最初に言いつけた通りに……。

君がフリーダを見限るならば、私はそれはそれでも構わないんだよ?

私は霊竜と言えど君を縛るつもりはないし、精霊たちについてもそれは同じだ】


「……だ、そうだよ、ハー君?」


「……らしいわね、フリーダ?」


風の流れを抽象的に彫金された、ミスリル製の美しい小皿。

そこに盛られた鮮やかなジャムと卵色のケーキのピースにやはり白いくちばしを落としながら、その自由な言葉はフリーダとアタシを苦笑させた。


見限ってもいい。


揶揄でも牽制でもなく純粋な本心からそう言い放つ契約精霊、あるいは主人の無造作な振舞いは今に始まったことでもない。

1回目にしても2回目にしても、アタシやコチたち、そしてフリーダに対する態度は同じだった。


自由。

それこそがレム様の唯一のであり、絶対のだ。


実際、それを真に受けたあの朴念仁……コチを筆頭に、風の上位精霊は今はその全員が好き勝手に行動している。

皇国内で人間と契約している奴ですら、フリーダとは全く面識がない。

フリーダがこの部屋から出ず、騎士や魔導士と会見せずとも会話ができてしまうということを差し引いても、それは普通ではあまり考えられないことだった。


ただ、フリーダ自身もそこはあまり気にしていないらしく、上位精霊と会話したりあるいは使役することに大して興味はないらしい。

この暴君が手足のようにこき使いズケズケとものを頼んでくるのは、今のところアタシだけだ。

……別に、全く嬉しくはないけれど。


一方で、理由はどうあれそんな現状に安堵しているのも、またアタシの本心だ。


ソーマや、『魔王の最愛』。

あの2人のように上位精霊を傘下においたフリーダの振舞いを、アタシは絶対に想像したくない。

半径50キロより、外。

無関心な相手にはどこまでも無慈悲になれるこの少女が風の上位精霊たちを手足にすれば、6年前のサリガシア制圧どころではない大厄災を引き起こすだろう。


【フリーダ、君と声を交わしたあの日から私の心は変わっていない。

君の行動を私は止めないし、君の思考を私は咎めない。

天から与えられたの力を、君は自由に使う権利がある】


結果としてそれを封じ、しかし決してそれを意図したわけではない大精霊は、傍から見ればおそらく無色すぎる言葉を淡々と契約者に続けていた。

適度に砕かれたクッキーとビスケット、細かくちぎられた蒸しケーキと新しい水。

震えを抑えつけたディアの手で給仕された小皿に向く空色の瞳は、透明で奥行きがありすぎるが故にその感情が読めない。


だけど。

アタシにすらわからないその一端に、おそらくは触れることができているのだろう。


「わかっているさ、レム。

風は……、」


【自由に吹くべき、なのだから】


尚クツクツと笑い続けるフリーダの声に、静かなレム様の声が重なっていた。

















「それはそうとね。

君、1年以上もどこをほっつき歩いていたんだい?」


やがて、レム様が菓子を順番につつき、それぞれにフリーダが得意気な注釈を入れていく中。

その様子をベッドの前のイスから眺めていたアタシと失神寸前の緊張に必死で耐えているメイド2人の前で、フリーダは思い出したようにレム様の頭に人差指を置いた。


【世界中を、さ】


それを嫌がるでもなく、レム様は小皿に顔を埋めたまま平坦な答えを返す。


「……カイラン大陸の、『魔王』のことはご存知ですか?

ネクタの『最古の大精霊』と盟を結んだことも」


平穏でありながら、異様。

冷淡でありながら、平和。


相反するものを内包した、白いベッド上の小さくも大きなティーパーティーの光景。

どこか童話の中のようにメルヘンチックで、そしてどこか酷薄だったそのやり取りから、アタシは何故かその男のことを思い出していた。


水の大精霊、『魔王』ソーマ=カンナルコ。

その妻にして木の大精霊フォーリアルの契約者、アリス=カンナルコ。

水竜シズイと火竜サラスナ、……そしてあのアホ竜。


……魔人ダークスの、ミレイユ。


フリーダ自身はやはり関心を持とうとしなかったものの、今や単純な戦力なら間違いなく世界一となったウォル、水と木の陣営への危機感を、アタシは漂泊の主君へと問う。

自由を標榜して傍観者に徹するこの当代の風の大精霊の空色の瞳に、彼らはどう映っているのか。

……かつて、フリーダがサリガシアに攻め込んだことすらも一言で片づけたこの白き大精霊は、あの『魔王』に何を思うのか。


【彼個人には、興味がないよ】


だけど、その答えはある意味でアタシが予想していた通りのものだった。


「……フ」


「……」


小さく笑ったフリーダの瞳がゆらりと歪む下で、レム様は表情の変わらないその瞳をアタシへと向ける。

正直に言って……失望の溜息をつきかけたアタシの前で、しかし、レム様は契約者の指を無視してアタシの瞳を眺めていた。


【……ただ、彼の起こす『流れ』は面白いかもしれないね】


「「……」」


フリーダの指は中空に浮いたまま止まり、アタシも視線を硬直させる。


面白い。

万事に平等に無関心であるレム様の言葉として、たとえ一言であっても何かに興味を示すそれは非常に珍しいものだった。


【硬く強張っていたカイランの空に、新しく清々しい風が吹き込んでいる。

冷たくてあたたかい、強くて穏やかな風だ。

残念ながら、エルダロンよりも良い風だね】


「……へえ?」


「……」


称賛と言ってもいい、レム様の発したその言葉に、フリーダは目に見えて不機嫌そうな顔をする。

年相応の子供らしい嫉妬の感情を内包したその声を、だけどレム様は背にぶつけられたまま反応すらしなかった。

レム様と同じく無関心を貫くフリーダがめったに見せることのないその苛立ちは、部屋の中の圧迫感を一気に引き上げる。

ディアとキティの顔は、もう死人のように蒼白くなっていた。


【ネクタも、少しだけ風が変わったね。

息が詰まりそうだった濃い空気に、海から涼しい風が流れ始めている。

御老ごろうも、随分と機嫌が良さそうだったよ】


その中で、レム様の声の調子だけが変わらない。

付け加えられた最後の一言は、むしろ愉快そうですらあった。


世界を見つめる、千年鳥。

空を渡る、白き風。


その声と空色の瞳は自身の目で確かめるよりもはるか雄弁に、世界に大きな変化が訪れていることをアタシに理解させていた。


ただし、そこに付随する感情は決して喜びではない。


「サリガシアは……いかがでしたか?」


「……」


不安、だ。


驚くほど静かになっていた部屋の中で、囁くようだったアタシの声が意外と大きく響いていた。

フン、と小さく鼻を鳴らしたフリーダの瞳が、薄暗い部屋のその中でじくじくと揺れている。


【サリガシアは、これから変わるよ】


小さな首が少しだけフリーダの方を向き、空色の瞳には何かの感情が宿っていた。

平板なレム様の声に確かに混じる、無色透明ではない何かの色。


【カイランと、ネクタと同じく……。

……ときが、捻じ曲げられた】


そこに示された感情はあまりに希薄で、どこか達観のようなものを帯びている。


床に落ちていくティーカップ。

あるいは、数ミリの芯だけが残ってもう消えてしまいそうな蝋燭の炎。

下水に流される、水の渦。

乾き、枯れゆく花。


そうしたものを見つめるときの、諦めに似た小さな光。


【それに……】


フリーダとアタシの吐息すら聞こえる静寂の中で、レム様の声が穏やかに。

そして、静かに終わりへと続く。





【土の大精霊、ガエンは……死んだ】





薄暗い部屋の中で、その声は闇に溶けた。

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