ショート・エール グロー・アップ 後編
「とりあえず、部屋に荷物を置いてこい。
家具や他のものも全部その中だ」
挨拶もそこそこに、ソーマはバラバラに解体した『金色の雲』の前で私たちにそう命じた。
2日前、当座の着替えや貴重品だけを手荷物にして船に乗せられた私たちが最後にアーネルポートで見たのは、土台を切断後に土属性魔導【減重】で軽減、氷結の後に赤と青の竜に吊られて空に浮かぶパン屋だった。
私と母を「店ごと」買った。
その言葉に違わない『魔王』の行動に、『青の翼号』の上では理由のわからない笑いすら込み上げてきたものだ。
ウォルポートでパン屋を再開するのは1ヶ月後。
それまでの間に、ウォルの食事班の人間にパンの作り方を叩き込むこと。
店は一旦解体して、ウォルとウォルポートにそれぞれパンを焼ける建物を新しく造るが、その費用はウォルが負担。
新店舗の従業員、及び使用する原料は可能な限りウォルから調達すること。
以上を条件に、私と母の購入代金、そして半年間の生活費と店舗運転資金を無利子で貸しつけるものとし、その借金返済をもって私と母は奴隷から解放されるものとする。
最初の予想に反して非常に良心的だった契約の言葉に偽りはなかったようで、彼の傍らに立っているのはイラ商会の担当者だ。
壁すらも取り払われた店の床に並べられたオーブンに天板、吊皿天秤に金属のパン型……。
パン屋2軒分に必要な設備と道具の個数と予算を相談していたらしく、それぞれの手には細かい文字と数字が書かれた紙片が握られている。
新しい店の設計図なのか図面のような大きな紙が、元あった場所から運び出された作業台の上に置かれていた。
「食事も用意してあるから、サーヴェラと一緒に集会所へ行け。
その後は村の案内と、牧場と畑、それから氷室も回ってきてくれ。
小麦粉、卵、ミルク、バター、チーズ、塩、砂糖、油……。
その辺りのものの品質について、パン屋としての意見がほしい。
足りないものや不十分なものがあるなら、用意しないといけないからな」
「あの……、アリス……様はどちらに?」
契約のとき、店の運搬のとき、そして今。
面と向かって会話をする機会の3回目にして私は、ソーマという人物があまり余計な話をしない人間らしい、ということを理解し始めていた。
ただ、それは彼の癖のようなもので、別に悪意や悪感情があってのことではないらしい。
基本的に、聞いたことには答えてくれる。
「今日は、麦畑の拡張作業のはずだ。
途中で会うんじゃないか?」
自分と母の今の身分を思い出し慌てて「様」を付け加えた質問にも、それは同じだった。
「ちょうど乳搾り中だね。
……ガラ、ちょっといいか!?」
「見てわかるだろ!?
今は手が離せないから、そっちが入ってこい!」
「おーう!
……じゃ、行こうか」
驚くほどに美味しかった食事と休憩を終え、巨大な木の看板に描かれた地図でウォル全体の説明を受けた後に私と母が連れてこられたのは、無数にある牧場の内、ヤギを放牧している広大な一画だった。
等間隔に打ち込まれた杭に長い板を打ち付けた柵、その間をくぐるサーヴェラに続いて私と母もその中に入ると、20人ほどの子供たちがヤギの乳を搾っている輪の方へ歩いていく。
……ヤギ、のはず……だ。
1人の小さな女の子が規則的に振って鳴らしている、鉄のベルの重たい音。
それに従って集まってくるその白と茶色の動物たちは、だけど私が市場で見たことのあるヤギとはまったく異なる体つきだった。
大きい。
そして、そのどれもがまるで中年の商人のように丸々と太っている。
メーー、メーー……。
ヴェー、ヴェー……。
特徴的なその鳴き声と横向きの三日月のようなその瞳は、間違いなく痩せた大地で飼育されるヤギのそれだ。
メーー、メーー……。
ヴェー、ヴェー……。
だけど、乳を搾られる列に次々と並んでいく目の前のヤギたちは子供から大人までその全てが、そんなストイックな生活とは縁遠い体型をしていた。
「ああ、パン屋の人たちか。
オレが、ヤギ班のガラだよ。
……そいつらに頭突きされないよう、気を付けてな」
ひっくり返した木箱に腰かけた、ガラ。
ビュシャビュシャと、地面に置いた小さな壺に乳を搾り続けながらこちらを見上げてきた少年は、どこか眠たそうな顔をしていた。
フワフワとした茶髪に細い目、そばかす。
喉が悪いのかしゃがれたその声には、どこかのんびりとした雰囲気が漂っている。
「ほい、終わり」
「メェーーー……」
眼前の、搾り終わったらしいヤギの尻をガラが手の甲で軽くはたくと、のそのそと歩いていったその場所に次のヤギが進んでくる。
ビュシャビュシャ、ビュシャビュシャ。
ガラを筆頭にした子供たちの年齢に似合わない乳搾りの巧みさと、そして搾られる側のヤギたちの異様な行儀の良さ。
それは、この光景がもはやウォルの日常として固定されているのであろうことを、容易に想像させた。
「味見するんだよな?
……ドリア、カップを2つ持ってきてくれ!」
しゃがれた声に応じたドリア、先程ベルを鳴らしていた少女が持ってきた木製のカップに、ガラが足元の壺からミルクを注ぎ入れる。
「ほい」
「……い、いただきます」
サーヴェラの水属性低位魔導【冷却】で冷やされたそれを口に含むと……、……濃い!!!?
普段、町で売られている青臭くて薄いミルクと比べると、クリームかバターと言っていいような甘さがある。
「ここ、元は刈り入れが終わった後の麦畑なんだよね。
麦はこいつらが根っこまで食っちゃうし、フンはそのまま肥やしになる。
そのままこの場所が綺麗になったら、また別の収穫が終わった畑に移動させるんだ」
「もちろん、それだけじゃいい乳を出さないし、肥らないからな。
野菜の食べられない部分の他に、塩、小麦、イモ、トウモロコシなんかも食べさせてる。
……そうすれば、肉にもいい脂が乗るんだ」
カップを片手に白目をむいた私と母にサーヴェラとガラの口から語られたのは、ここのヤギたちの信じられない食生活だった。
小麦に、イモとトウモロコシ。
下手をすれば人間の奴隷よりもいいものを与えられているのだから、これだけ丸くなって当たり前だ。
「また、丸焼き食いたいな……」
「ああ、……あいつなんか食べ頃なんだけどな。
……次の定例会で、イベントとして提案してみるか?」
「先にねーちゃんを味方に引き込んで、にーちゃんを説得してもらえば……」
何やらコソコソと話し合っている2人の班長を視界の端にしながら、私と母はただ呆然とまだらな群れを見つめていた。
野菜クズと小麦で育つ、ニワトリとフラク。
残飯と野菜で育つ、ボア。
湖1つを使って養殖されている、グリッド。
いずれも、やはり丸々と太っていたそれらを見せられた後、サーヴェラに連れられた私と母は広大な畑を縦断していた。
左右を見れば、アーネルで流通している野菜のほぼ全てを見つけることができる。
その隣には、寒冷なサリガシア大陸でしか育たないはずの作物と、私が故郷のアーネルポートで何度か見たことのあるネクタの野菜。
さらに視線を奥に飛ばせば、原色の実を付けた果樹園すらも存在していた。
「全部住民の食事用で、そのまま売りに出すつもりはない。
……って、にーちゃんは言ってたけどね」
畑を横切る野菜人間、もとい木の上位精霊に片手で挨拶をしながら私と母の前をずんずんと進むサーヴェラは何でもないように言っているが、そんな区別はもはや関係ないほどにこの景色は異常すぎた。
木の大精霊の加護とその契約者の大規模魔導の併用によって作りだされたウォルの畑は、政治家や商人が見れば発狂しかねないほどにこの世界の常識とルールを無視している。
緑、赤、緑、黄、緑、紫、緑、朱、緑、白、緑、緑、緑……。
呼吸するだけで痩せられそうな青くぬるい空気の中で、私の中の「驚き」という感情はついに麻痺を始めていた。
……金色。
やがて、いつの間にか自身の周囲の色がそれに変わっていることに気が付く。
小麦畑。
まだ若干、部分的に青い葉や茎が残っている箇所もあるものの、多くの麦がその金色の頭を差し出している。
サワサワと揺れる太陽と同じ色の波の音は、その中に充分な実りがあることを教えてくれていた。
その波を割ってこちらに歩いてくる、青い影。
海か、夜明け間際の空のような深い青色のマントをまとうのは、漆黒のバトルドレスと月の光のような銀髪。
白く、まるで人形のように美しい無表情の横には、森人の特徴である長くとがった耳。
感情の読めないその瞳は、深く穏やかな緑色。
右手に持った1メートルほどの杖と本人から放たれるのは、大きくもあたたかく。
……優しい、魔力。
『魔王の最愛』、あるいは『至座の月光』。
『魔王』の妻にして、当代の木の大精霊の契約者。
アリス=カンナルコ。
私とパンヒールを救ってくれた、恩人。
「よっ、ねーちゃん」
「……」
「あ、あの、助けていただいて本当にありがとうございました!」
サーヴェラの挨拶に一瞬の視線だけを返し、私と母を見つめる緑色。
その場で深く腰を折った私の言葉の意味に気が付いて、母も急いで頭を下げた。
「……あなたを助けたのは私ではなく、ソーマ。
あのときの私は……、あなたたちを助けられなかった。
申し訳な……」
「いえ、ソーマ様からも同じことを言われました」
「……?」
遠慮と困惑に満ちた声、そして後悔と自責に小さくなったアリスからの謝罪を、私は遮った。
俺がお前らを助けたのは、アリスがそう望んだからだ。
俺個人への礼はいらないし、今回の契約もあくまで商的なものに過ぎない。
ソーマと初めて会ったときの私と母のお礼を、彼はそう言ってさらりと流し……。
ただ、アリスはお前たちをすぐに助けられなかったことを、後悔していた。
だから、もしお前たちがアリスに恩義を感じているなら……そのことを許してやってほしい。
だけど、その後にこうも続けていた。
「私とパンヒールが失敗したのは、私とパンヒールの責任です。
そして、私とパンヒールが今も生きていられるのは……。
それに、私と母がバラバラに売り飛ばされずにすんだのも、ソーマ様とアリス様のおかげです。
……だから、ありがとうございました!」
ただ、他人に言われるまでもなく、私とパンヒールはアリスを恨んだりはしていなかった。
「……」
有無を言わせない勢いで、私はアリスに頭を下げ続ける。
私が恨んだのは、他ならない私自身の愚かしさだ。
自分がいかに英雄から遠い位置にいたのかを、身の程知らずだったのかを思い知らされただけだ。
私とパンヒールが弱かっただけの話で、悔いるべきはアリスではなく私たちなのだ。
「ミルスカ、サイラ、2人も頭を上げて」
やがて、アリスは小さな溜息をついた。
自分を納得させるようなそれの後、顔を上げた私と母へ、緑色の瞳は穏やかな微笑みを向ける。
「……ウォルの子供たちのほとんどが、焼き立てのパンの美味しさを知らずに生きてきた。
あなたたちの力を、皆に貸してあげてほしい。
ウォルに来てくれて、……ありがとう」
「「……はい!」」
『魔王の最愛』。
その笑顔は、まるで大昔の神話に登場する天使のように優しく、美しかった。
「これが……?」
翌々日、私と母、そして食事班から選抜された5人の子供たちの前で、ソーマは私にその装置の説明を開始した。
わずか2日間で、元の店舗の4倍ほどの大きさに改築されたウォルのパン工房の外壁には、建物の高さとほぼ同じ大きさの巨大な水車が併設されている。
わざわざこの水車を回すためだけに新しく掘られた水路、そこを流れる清らかな水によって、その水車はゆっくりと時間をかけて回っていた。
とりあえずの目標は、1日あたり2千個のパンを焼くこと。
一昨日の夕食の際に彼から告げられたその目標値に、私は首を斬り落とされる覚悟で「不可能です」と返事をした。
原料の混合と生地の混捏→発酵→生地の分割→発酵→成型→発酵→焼成。
大雑把に言えば、これがパンを作る工程だ。
パン屋としてこの発言はどうかとも思うが、生地さえ作ってしまえば後はほとんど発酵を待つだけだと言ってしまってもいい。
ただ、その生地を作るのが最大の重労働なのだ。
両手に乗りきるくらいのパンを1つ作るのに使う小麦粉が、約40グラム。
水やパン種、塩、油などの他の材料が、おおよそ30グラム。
合わせて70グラムが、混捏しなければならない生地の重量になる。
それを2千個とは、140キロの生地を混ぜろ、と言われていることに他ならない。
家庭の食卓よりも大きい作業台に幼児の体重ほどの小麦粉を積み上げ、それと大して変わらない重量の副資材を入れて全身の力で混ぜていく。
粉に水が均等に回るように、ムラにならないように必死で混ぜた後は、子供1人分ほどの生地を作業台に叩きつけながら捏ね上げる。
何度も、何度も、何度も、何度も、生地の表面がまとまるまで叩きつける。
大の男が2人がかりでやっても、1度に10キロが限界だろう。
下手をすれば、ウォルポートでの『金色の雲』開店を待たずに私と母は過労死することになる。
不満そうな顔をした私たちのオーナーに決死の覚悟でそれを説明すると、どういう理由なのか彼は唇をつり上げてニヤリと笑っていた。
その結果が、これだ。
まだ追加のオーブンや他の道具が到着していないためガランとした工房の中に入ると、外側に水車のある壁、その天井に木製の歯車が無数に組み合わされている光景が目に入ってくる。
その下には中に15キロは入りそうな木製の巨大な鉢が2つと、その上に垂直に設置されている子供の腕ほどの太さの木の棒。
そしてその棒の先には、やはり巨大な木製のフォークのようなものがはめ込まれている。
「これがスイッチだ、……離れてろよ」
そう言ってソーマが赤い塗料を塗られた1本の横棒を水平に右に引くと……、……ガコンッ!
スイッチの逆側に押しこまれた歯車が、ゆっくりと回転していた別の大きな歯車にはまった大きな音と共に、それぞれ鉢の中のフォークが……勢いよく回り始めた。
「ミキサー、という複数の原料を混ぜ合わせるための道具だ。
水車や風車で動く回転臼の仲間だと思ってくれればいい。
動いているときに手を突っ込むと骨折どころじゃ済まないから、そこだけ気をつけろよ?」
表の水車のゆっくりとした回転を径の小さな歯車で受け、それをさらに小さな歯車で受ける。
最終的にフォークにつながる棒の太さ、直径10センチほどまで小さくなった歯車は、だけど目で追えないほどのスピードで回転し続けていた。
「とりあえずはミキサーの使い方に慣れながら、オーブン1つで焼けるだけのパンを焼いてくれ。
新しい道具は今週中に全部届くはずだ。
それから、ウォルポートの方の店もここと同じ構造で造るが、それで構わないな?」
その本当に何でもなさそうな『魔王』の言葉にまぶたを引きつらせながら、私は自分の中の何かが徹底的に破壊されていくのを感じていた。
「すごいすごいすごいすごい!」
「膨らんでる、美味しそう!」
「誰か、先生にお願いしてバターとジャム貰ってきて!」
「あたし行ってくる!」
「あと、ミルクも!」
オーブンの覗き窓から中の様子を窺いながら、5人の子供たちは大騒ぎをしていた。
ミキサーによる生地の混捏は、母が自分のパン屋としての半生に疑問を持つほどに簡単だった。
これまで『金色の雲』が3回の仕込みで使っていただけの材料をたった1回、それも4分の1以下の時間で捏ね上げられた生地は、懸念していたムラも傷みもない。
ミルクや卵、高いので普段はあまり使わなかった砂糖やバターもふんだんに入れたそれは、生の段階で既に美味しそうな匂いを立てていた。
巨大な生地は大きな木のトレイに取り分けて発酵棚に移し、お湯を張ったカップをいくつか入れて中の温度を調整。
発酵を終えた生地は吊皿天秤を使って重さを揃えながら分割し、表面の生地を張らせるように形を整えてまた発酵。
丸く成型して最後の発酵を取り、2回りほど大きくなった生地の表面にナイフで切れ目を入れて、飾りに小麦粉を振った。
火属性魔導士だという班長のロザリアに火加減を指示しつつ次の仕込みの段取りを考える工房の中は、既に甘く優しい香りでいっぱいになっている。
一方で、オーブンの前で鈴なりになっている子供たちの姿を眺め、私と母は疲労ではない溜息をついていた。
ロザリア、クイン、バル、アマン、トトス。
班長も含め平均13歳でしかない生徒たちは、過去の私とは比べものにならないくらいに優秀で、そして熱心だった。
言い付けたことは1度で覚え、視線でこちらの意図を察し、わからないことはきちんと質問してくる。
大切なことは紙に書き、言われる前に行動し、作業の意味や必要性を自分たちなりに推測する。
精鋭騎士のように従順で、歴戦の商人のように察しが良くて、年季の入った職人のように素早い。
それが過去の奴隷としての生活から学びとった、いや、学びとらざるを得なかったものなのだろうと気が付いたときに、私の胸の中にはひたすら苦いものが広がっていた。
ウォルの子供たちのほとんどが、焼き立てのパンの美味しさを知らずに生きてきた。
あなたたちの力を、皆に貸してあげてほしい。
麦畑の中でアリスから告げられた言葉の真意を理解にするにつれてその苦さは増し。
だけど同時に、私の心の中には熱のようなものも宿る。
「そろそろ開けるわよ、少し離れて」
私は、英雄にはなれなかった。
でも、他の何かにはなれるのかもしれない。
「「できたーーーー!!!!」」
黒いオーブンの鉄の扉、子供のころは恨めしくて仕方なかったそれが開くと、子供たちの歓声と共に、甘く優しい熱気が部屋の中に立ち込めた。
「……うん、いい出来ね」
香ばしく、美しい太陽の色。
これだけの設備と材料が揃っているのだから失敗するはずはないと踏んでいたものの、最初に作ったものとしては完璧に近い膨らみと焼き色だった。
それに、私も母も……まだまだ腕は鈍っていない。
「食べるのは、少し冷ましてからね。
……じゃあ、次はどんなパンを作ろうか?」
焼き上がった大きくて丸いパンから名残惜しそうに視線を外し、それでも私を囲んで口々に自分たちの希望を叫びだした子供たちの瞳には。
幼いときに私が冒険者に向けた、憧れの光が宿っていた。




